第7話 取引会議での無双②
会場の空気がぴりついたまま、ルシアーヌは護衛騎士と共にテーブルを離れる。その通路沿いにいた商人たちが思わず道を開き、「ルシアーヌ・ド・ベルヴィル様、恐るべし……」と小声でささやき合っている。ロイはその視線を感じて若干恥ずかしくなり、「あの……何か視線が痛いんですが」とぼやくが、ルシアーヌは聞き流す。
しかし、気遣いの達人であるクラリスは「ロイ様、お気持ちはわかります。でも、これが私たちのお嬢様なのですよ」と笑って返す。ロイは「わかってるけど、護衛って何だろう」と空しくつぶやいていた。
その後、控室では形式的な協議というより、一方的な条件提示に等しいやり取りが行われた。ルシアーヌは先ほど指摘した不正会計を帳簿のページごとに示しつつ、「今後は私が監査役を置きますので」と宣言。相手にとっては酷な話だが、背に腹は代えられない。結局、銀行代表はルシアーヌの出資を仰ぎ、その見返りに経営の一部を彼女の管理下に置くことを事実上受諾せざるを得なくなった。
「そもそも、ちゃんとルール通りに帳簿を作成していればこんな形にならなかったのよ。……残念ね。こうして失った信用を取り戻すには、ちょっと時間がかかるわ」
しかし、その声にはまったく同情の色は感じられない。むしろ「自業自得」と言わんばかりの冷ややかさがある。それでも完全に切り捨てるのではなく、出資と監査という形で救いの手を差し伸べるのだから、ルシアーヌのやり方には合理性があった。
ほどなくして協議が終わり、銀行代表はがっくりとうなだれながらも「ありがとうございます……」とつぶやき、控室を出て行く。その姿を見送ったロイが、「えーと、護衛が必要な展開って、いつ来るんでしょう?」と素朴な疑問を口にすると、ルシアーヌは苦笑して肩をすくめた。
「ごめんなさいね、ロイ。私も護衛がいてくれたほうが心強いのだけれど、こういった交渉ではあまり刃物沙汰にはならないものなの」
「いや、まあ、それはいいんですけど……わたしってもしかして飾りじゃ……」
半ば本音を漏らすロイのつぶやきに、クラリスがクスリと笑う。ルシアーヌも、満更でもない表情で続けた。
「備えあれば憂いなしといいますし、いざというときは頼りにしているわ。――もっとも、今のところは私自身で十分に相手を説得できますものね」
護衛騎士としては複雑極まりないが、ロイは苦笑するしかない。ルシアーヌの恐るべき交渉術は、今や多くの商人が恐れながらも認めているところだ。そんな彼女の側近に仕えるのだから、ある意味では最高の安全保障ともいえる。
その後、ルシアーヌは会場に戻り、また数冊の帳簿をさらりとチェックし始める。あちらこちらで貴族や商人が恐る恐る話しかけてくるが、彼女はどれも落ち着いて対応していた。なかには、「ルシアーヌ様、うちの帳簿もご覧いただけますか?」とあえて積極的に監査を願い出る者すらいる。もし問題がなければ、彼女の「お墨付き」がもらえると期待しているのだろう。
「構いませんわ。忙しいので手短に済ませましょう」
そんなやり取りが続くうち、再び空気が張りつめる場面が生まれた。ある大手商会が提出した決算書に不審点があり、ルシアーヌがあっさりとその矛盾を指摘してみせたのだ。先ほどの銀行代表とは違い、この商会の主はやや強気で「数字を大げさに言われても困る!」と声を荒らげるが、彼女は一切動じない。
「私が『数字の魔術師』と呼ばれているのは、ご存じでしょう? たとえばここの在庫管理表と、こちらの出庫数量の合計……積み上げると通常ありえない数値差が出ていますわ。もし単純な数え間違いならこんなに大きな差は出ません。これは意図的な改ざん、もしくは横流しが行われているかもしれない証拠ですわね」
爛爛とした瞳でにこやかに断言されると、相手は言葉に詰まる。周囲が息を飲み、背後のロイまでも「あ、これは相手もう終わりだ……」と苦笑せざるを得なかった。結局、その商会も観念して不正を認め、在庫を公正に管理するための改善策をルシアーヌに提出することとなった。
会議が進むにつれ、彼女の無双ぶりはますます際立っていく。帳簿をパラパラとめくるだけで相手の不正やミスを見抜き、言い逃れできない証拠を淡々と突きつけるのだ。しかも終始、言葉遣いは貴族らしく上品で、まるで気品ある貴婦人が談笑しているかのような雰囲気さえ漂う。しかし中身は一瞬で相手を追い込む“冷酷”な正論ばかり。そんなギャップに、全員が戦慄を覚えると同時に、奇妙なユーモアが漂っていた。
「こんなところかしら。皆様、帳簿の管理は怠らないことを強くお勧めいたします。――特に、私が関わっている事業については、利益確保と健全な運営が何より大切ですもの」
最後にそう締めくくると、ルシアーヌは椅子を離れ、軽くドレスの裾を整える。会場のあちらこちらから感嘆や畏怖の視線が注がれる中、ロイとクラリスが彼女の後ろにつき従う。ロイは改めて、「本当に護る必要があるのか……?」と首をひねったが、ルシアーヌは肩をすくめてみせる。
「騎士殿の役目は私を護ることだけではなく、私の身を立てていただくことでもあるわ。……ね、ロイ?」
「ええ、まあ、そうですね。お嬢様が困らないよう備えておくのが僕の務めですから……」
少し引き気味なロイの返答に、クラリスがそっと微笑む。何やら複雑な空気の中、ルシアーヌは「さあ、これで会議は大体終わりかしら?」と小さくつぶやき、ツカツカと歩み始めた。場内の経営者たちは彼女が行き過ぎるのを、まるで嵐が通り過ぎるかのように沈黙して見送っている。
こうして合同会議はルシアーヌの圧倒的勝利に終わった。おそらく、どの銀行や商会も大なり小なり「彼女の捜査」を恐れて今後は慎重になるだろう。結果的に、不正が減ってビジネスの透明性が上がれば、ルシアーヌのグループ企業や投資先も安定してくる。まさに一石二鳥――彼女が心の奥で描いた筋書き通りに、着実に物事が動き始めていた。
「もう少し大変な交渉になると思っていましたが、意外とあっさりでしたね」
外に出て馬車へ乗り込むとき、クラリスがそう漏らす。ルシアーヌはバタバタと動揺していた会議の様子を思い出し、「そもそも、あの程度で動揺するのは皆そもそも疚しいことをしている証拠よ」と笑みを返した。
「確かにそうかもしれません。……ですが、お嬢様がこれほどまでに鮮やかに暴くとは、あの方々も予想外だったに違いありません。ロイ様もずっと立ち尽くしたままで……」
「はは……もう何も言えないっすよ。お嬢様には、僕じゃとても敵わないや」
ロイが苦笑すると、ルシアーヌは「いいのよ。それがあなたの務めではないもの」と微笑む。彼女の手腕を前にすれば、騎士の剣技など出番がないのは当然だ。次なる大きな局面がやって来るまで、ロイは「護衛」という名の後衛を保ち続けるしかないだろう。
やがて、馬車が軽い振動とともに発進すると、ルシアーヌは席に身を預け、胸のうちで静かな満足感をかみしめる。今の段階で銀行や商会の不正を押さえこみ、ビジネス環境を一掃できたのは大きい。こうした下準備を整えることで、彼女の影響力はさらに増し、誰も“公爵令嬢”を無視できなくなる。
「さあ、次はどんな計画を立てましょうか。……護衛が『本当に』必要になるような場面が来るなら、それはそれで面白いのだけれど」
おそらくは彼女に敵意を抱く勢力も皆無ではない。しかし、その可能性すらもルシアーヌは楽しげに思える様子だった。ロイが内心「お嬢様、怖いことを言わないでくださいよ……」と苦笑する一方、クラリスはこの上なく頼もしい笑みを浮かべる。
こうして、取引会議はルシアーヌの見事な“無双”に終わり、護衛騎士の役割さえ霞むほどの圧倒的な交渉術を周囲に示した。会場に居合わせた者たちは皆、彼女の華麗な手さばきと優雅な態度を目の当たりにし、同時に「彼女には逆らえない」と強く認識することになる。それは、次なる大きな変化への予兆でもあった。王太子との婚約破棄により覚醒した公爵令嬢の力は、もはや止められないのだから。




