第5話 金融の足固め②
財務部長が声を振り絞るように言う。
「それほどの権利を公爵家に握られてしまうと……いえ、当行としては、上層部の承諾がない限り……」
「承諾なら、すぐに得られるでしょう。だって、拒否したときのリスクを考えれば、あなたたちには選択肢などないはずですわ。――どうせなら、破綻と吸収のどちらがマシか、天秤にかけるのは簡単でしょう?」
部長も副頭取も支配人も、声を詰まらせて視線をそらす。拒否して経営が傾けば、彼らは責任を追及され、路頭に迷うかもしれない。かといってベルヴィル公爵家の令嬢、ルシアーヌの出資を受け入れるなら、実質的に経営権を握られる可能性が高い。どちらにせよ、彼らの自由裁量の余地は大幅に削られるわけだ。
部屋には重苦しい沈黙が降りる。しかし、ルシアーヌはまるで優雅な舞踏のステップを踏むように、何事もなかったかのような涼しい顔をしている。むしろ、一人がたじろげばたじろぐほど、彼女の微笑は深まるようにすら見えた。
やがて財務部長がぽつりと、「……わ、わかりました。前向きに検討させていただきますので、お時間を……」と語尾を震わせながらつぶやく。ルシアーヌはその言葉を耳にすると、「ええ、ぜひそうなさって。私も決して急がせるわけではありません」と微笑む。だが、その瞳が決して待つ気などないことを、経営陣も肌で感じ取っているようだ。
最後にクラリスが控えめに手帳を取り出し、「お嬢様のスケジュールを再確認させていただきます。来週には正式な書類を交わす段取りになりますでしょうか?」と問いかけると、部長が再び渋面をつくったまましぶしぶうなずいた。それで事実上、ルシアーヌの提案を受け入れるしか道がないと宣言したも同然である。
こうしてバストン銀行は「公爵令嬢への株式売却」という形で、経営にルシアーヌが関与する方向に進むことになった。わずかな時間の面談だけで、数百名の行員や無数の顧客を抱える銀行が掌握されかけている――その現実に、経営陣は頭を抱えるしかない。だが、細かな不正会計という弱点を握られた以上、彼らには抵抗の術がないのだ。
応接室を出るころには、支配人の顔はげっそりと疲れ果てていた。副頭取や財務部長も同様で、頭を下げる姿勢に哀れささえ漂っている。ルシアーヌはそんな彼らの姿に目もくれず、あくまで品のいい微笑みを保ったまま玄関へと向かった。
「皆さま、今後ともよろしくお願いいたしますわ。良い結果が得られるよう、私も誠意を尽くしますから」
彼女がそう言葉をかけると、支配人らは口を揃えて「は、はい……こちらこそ……」とうわずった声で答える。歩を進めるルシアーヌの背中を見送りながら、彼らは茫然と立ち尽くす。あまりにあっけなく追い詰められ、投資話を受け入れざるを得ない形になってしまったのだ。
外の空気に触れると、クラリスがほっとした顔でルシアーヌを振り返った。
「お嬢様、あの皆さん……まるで幽霊でも見たようでしたね。すっかり意気消沈してしまって」
「そうでしょうね。私に言わせれば『彼らが自分でまいた種』なのだけれど。それに、破綻させる気はないわ。これからはうまく私の配下として働いてもらうだけだもの」
どこか上機嫌に返すその姿は、冷徹な戦略家そのもの。しかし、ふいにルシアーヌは思い出したように笑みを浮かべる。
「それにしても、思ったより簡単に傾いてくれたわね。あの程度の不正があるなら、もう少し隠し通そうと開き直るかと思ったけど……交渉がスムーズだったのはありがたいわ」
「お嬢様の話術が見事でしたから……。……えっと、取り付け騒ぎなどが起きたりしませんか?」
クラリスがささやき声で言うと、ルシアーヌは淡々と首を横に振る。
「大丈夫。私が新しいメイン出資者になるとわかれば、むしろ客は安心すると思うわ。名門公爵家の威光をこんなときに使わない手はないでしょう?」
一切悪びれた様子もなく、微笑を浮かべるその横顔は、まさに「利用できるものは利用する」の精神を体現していた。彼女にとっては公爵家の名も、相手の不正会計というスキャンダルの種も、すべて交渉の材料でしかない。ただ、自分の手に入れたいものを得るために、あらゆるカードを洗練された方法で使いこなしているだけなのだ。
乗ってきた馬車に再び乗り込むと、アメリア・トレンツが先に座って待っていた。彼女はおそらく外でルシアーヌの様子を見守っていたのだろう。馬車の扉が閉まるなり、「さすがね」と苦笑いを浮かべる。
「少しだけ中の様子をうかがってたけど、まるで竜巻に巻き込まれたみたいにみんなが慌てふためいてたわ」
「今後はああいう場面が増えるでしょうね。私としては、必要な相手にはキッチリお灸を据えてあげないと。優雅な言葉にごまかされるなら、こちらも手は抜かないわ」
「ほんと、容赦ないのね。でも、あのままだと彼らはいずれ破綻していたわけで……結果的には救いの手を差し伸べたとも言えるんじゃない?」
アメリアが皮肉っぽく言いながらも、どこか嬉しそうに微笑む。ルシアーヌは軽く目を細めてうなずいた。
「そうね、私と手を組めば彼らも利益を得られる。もちろん、その利益の大半は私のものになるでしょうけど」
まるで天真爛漫な子どもが新しいおもちゃを手に入れたかのような言い草に、アメリアもクラリスも思わず笑ってしまう。婚約破棄の打撃を受けていたはずのルシアーヌが、今やこんなにも生き生きとしているのだから、運命とはわからないものだ。
馬車が大通りへと戻るころには、銀行の外観はすっかり後ろに遠ざかっていた。ルシアーヌは振り返ることなく、カーテン越しに射し込む光の中で次の帳簿に視線を落とす。これから目指すのは、金融だけでなく投資会社も買い漁り、確固たる「金融の足固め」を成し遂げることだ。バストン銀行は、そのほんの第一歩に過ぎない。
「まずは小規模銀行の統合。それから投資会社への出資……このあたりを固めれば、やがて大商会が私に頭を下げてくるわ」
華麗にドレスを揺らしながら、ルシアーヌは新たな交渉先のリストを手に取る。そこに書かれた社名や所在地を読み上げるたびに、アメリアは「そんなところにも手を伸ばすの?」と驚きながら、クラリスは「お仕えする身として頑張らねば……」と決意を新たにする。どちらにせよ、彼女の勢いを止められる者など見当たらない。
こうして、バストン銀行の買収交渉はルシアーヌの圧勝に終わった。経営陣の動揺と恐怖を尻目に、彼女は優雅な物腰と冷徹な分析を併せ持つ手腕を存分に発揮した。まるで淀みない舞踏を披露するかのように、少しの隙もなく相手を追い詰めていくその姿――それは、今後の王国経済を揺るがす「公爵令嬢」の片鱗に過ぎなかった。先の見えない嵐の幕が、今まさに上がり始めているのだ。




