聖女の番(ツガイ)
胸糞話。グロ表現はありませんがエゲツナイです。
■
厳かな教会。
人々は、救いを求め一心不乱に、この国を300年照らし続けている聖なる炎へと祈りを捧げていた。
聖女がこの地の平和を願って灯したと言われるその炎は、蝋や油などといった燃料となるものもないまま、この場所で300年もの間燃え続けている。今もこの国の象徴だ。
だが今はその炎もちいさく儚い。まるで風前にあるように。
かつて栄華を誇っていたこの王国も今は日を追うごとに目に見えるように生活は苦しくなっていくばかりだった。
豊かな水源を有し、緑に溢れていたかつての姿は見る影もない。
農作物の不作は続き、井戸も川も枯れてきている。
それだけではない。これまで王国内には入ってこれないとされてきた魔獣が現れるようにもなって、気軽に街を行き来することもできなくなった。
魔獣が人を襲うことはない。しかし、人の営みを完全に無視して走り去っていく彼らは時として家やようやく収穫期を迎えた農作物を無作為になぎ倒し破壊して去っていく。人の攻撃は一切通用しない。剣は通らないし、矢は弾かれる。堅牢な石を積んで作った城塞すら破壊していく魔獣の行く手を阻めるものなどいなかった。
人々は、彼らの意図がどこにあるのかすら分からないまま、彼らの視界に入らぬように、その進む先に立ち塞がらないように身を縮こめて立ち去っていくのを祈るばかりだった。
日々の生活に疲れ果て、国教の総本山たるこの教会に訪れ祈りを捧げるような敬虔な信者も激減している。
それでも、どれだけ頼りないものとなろうとも、平和への祈りは今日も続いている。
そんな祈りに満ちた静かで厳かな空気が突然の闖入者により破られた。
大きく派手な音を立て、蹴破るようにして聖堂の扉が開かれる。
「見つけた! ようやくだ!!」
性急な足取りで、大きな男が祭壇へと近付いてくる。
「冒涜者め! ここは神への祈りを捧げる聖なる場所。即刻立ち去るがよい」
果敢にも、乱入者の前へ立ち塞がり、神への冒涜に対して非難の声を上げる者はいたが、神の僕である彼らはひとりとして荒事を得意とするものはいない。形ばかり懐に入れている小刀を向けるもそれを持つ手は震えるばかりで、ほんのちいさな傷ひとつ与えられぬまま、片手を振っただけで軽々と退けられていく。累々と気絶したり戦意を喪失した男たちの山が築かれていくばかりだ。
そうして対峙した司教が見上げてしまうほど、その男は大きかった。
遠くから旅をしてきたのだろう。身に纏った外套は埃塗れだし、足の脚絆も黒く汚れている。腰に佩いた剣の刃は太く、まるで鉄の塊のようだ。
外套を跳ね上げ、ぬっと差し出された腕は、まるで丸太のように太く、ごつごつとした指が伸ばされると掌は、その影が司教の顔を易々と覆ってしまうほど大きかった。
「ひっ」
その太い指に、腕に、いいや外套から覗く顔にみっちりと剛毛が生えていることに気が付いた司教の悲鳴が、喉に詰まる。
司教は、情けなくもガタガタと震える足を止めることすらできず、その場に頽れ見上げることしかできなかった。
足元に、温い水溜まりが広がり、不快な湯気が立ち昇る。
それ等をまったく意に介さず、異形の男が祭壇へと手を伸ばした。
意外にも、それはまるで愛しい者を包み込むような優しい動きであった。しかし
「その手を離せ、バケモノ!」
どん、と祈りを捧げていた一般市民の中から子供がひとり飛び出して、男の背中へと燭台を突き出した。
銀製の武器は、異形のモノを祓うことができる聖なる武器となる。
その為、教会におく備品は銀でできていることが多い。
しかし、その子供の攻撃は、男の外套にすら傷をつけることは叶わなかった。
「うわぁっ」
柔らかな子供の手首があらぬ方向へとねじ曲がり、赤く腫れ上がっている。
慌てて駆け寄ってきた父親が、子供を抱えて逃げ戻る際に、「バケモノ」と呟いた声が、男に届いてしまったのか。
それまで、教会にいたすべての者たちの一切に対して、視線すら合わせることのなかった男が、視線を向けた。
赤い瞳孔が、親子を射貫く。
「ひぃっ。おゆ、おゆるひをっ」
「おとうさんっ。くそっ。くそっ、バケモノめっ!」
子供を抱え込み男の視線から隠そうとする父の気持ちを裏切るように、口汚く罵り続ける子供の口元を父が慌てて抑えつけた。体全体で、押し込めるように抱き込んで抑えつける。
そうして、ジリジリと後退していく。
そのあまりに必死な父親の行動に、男は鼻白んだ様子で視線を祭壇へと戻した。
「……どちらがバケモノなのか」
そこかしこから泣き声や神に祈りを捧げる声やうめき声、怨嗟が広がっている教会内では、男の呟きは誰にも届かないまま消えていく。
そうして、一旦目を閉じ、心を落ち着けた男は、先ほどより丁寧な仕草で両の腕を伸ばし、祭壇で輝く炎の中へ差し込んだ。
「ぅぐっ」
炎がひと際高く燃え上がる。
バチバチと男の手を覆う毛が、腕が、嫌な臭いを立てて燃えていく。
それでも「どんなことがあっても、この手に捕まえ絶対に離さない」と覚悟を決めていた男は、炎の中でなにかと闘っているようだった。
肉の焼ける臭いが辺りに満ちていく。
蝋燭一本ほどしかなかった炎が、男の大きな手や腕を、燃やし尽くせる訳はない筈ではある。
しかしその炎は、この王国に豊穣をもたらした聖女が灯した聖なる炎だ。
魔を退け、この地に水と緑をもたらす神の奇跡だ。
「神よ」
人々は、炎の向こうにいる神へ助けを求めて強く祈った。
その時だ。
男が、炎の中から勢いよく手を抜いて、宙に向かって手を向けた。
それはある者からは、炎に拒否され弾き飛ばされたようにも見えたし、
それはある者からは、炎の中から何かを奪い取って掲げているようにも見えた。
果たしてよくよく見れば、男が掲げる手の中央では、金色に光るちいさなちいさな何かが在った。
小石というより砂粒の如き大きさしかない。
しかし、圧倒的な力を持ったモノであった。
くるくると、しゅるしゅると。
その砂粒は、何処から生まれたものなのか辺り一面から靄のような金色に光る光の渦を巻きこむように、吸い込んでいく。
くるくるくるくる、しゅるしゅるしゅるしゅる。
ちいさかったそれは、瞬く間に大きな光となり、やがて人型を模した。
『遅いじゃないの、馬鹿』
「ごめん。どうしても、この国の魔法使いが創った結界を壊せなくて。時間が掛かってしまった。本当に、ごめん」
本当は男の全力をもってすれば壊すこともできた。
だがその時、男も彼女の魂も、どうなっていたか定かではない。
男はどうしても、彼女と逢って、会話がしたかったのだから。
『いいわ。消滅する前に来てくれたから。ギリギリでセーフって言ってあげる』
ほっそりとした金色の手が、男の頭の上にある、ツンと尖った耳の先を優しく撫でるように滑らせた。
触れる感触は、お互いに、まったくない。それが、ふたりには、悲しく切なかった。
それでもふたりこうして同じ空間にいて、会話ができる。今はその幸せにだけ浸っていたかった。
堅牢な、愛しい番の魂を燃やしてできた結界の前で、男はそれを夢見て方策を探す努力をしてきた。
地獄の業火のような炎に炙られながら女はずっと自分を求める男の慟哭を聞いていた。何もできないまま。
ふたりは、ただお互いだけをずっと夢見て希い求めてきたのだ。
300年間、ずっと。
「ありがとう。君が生まれた瞬間から探しに出たのに、まさか先手を打たれるなんて思わなかった。極悪非道の魔法使いめ」
すでに王家にすら伝わっていないこの国の本当の始まりは、ある魔法使いが己の研究成果を試し貧しい土地に生まれた聖女の魂を魔法の炎の源として、この国へと降り注ぐ結界と成したことだった。
300年間燃え続けた炎が燃え尽きれば、元の荒れ地に戻るだけだ。
ここ数年、その加護が落ちてきたのではない。聖女の魂が消耗し結界が消えかかっていたにすぎない。
そうして、悲願叶って男はここへやって来た。
愛する番の、最後の欠片を求めて。
『子犬のあなたを見てみたかったわ、フェンリル王』
「愛しいあなたの成長していく姿を、傍で愛でていたかった」
『次の生こそは』
「あぁ、次こそ、必ず」
「永久を誓う」
男の最後の言葉は、ひとり言となって宙へと溶けただけだった。
金色の光を失った砂粒のような灰だけが、男の手の上に残った。
お付き合いありがとうございました。