#008双見湖で祀られ眠る土地神は日本の魂が宿っていた!?(後編)
今回は噂の検証に機材担当のメッシを伴い、加々見先生と合流した我々は美子川水系の巳姫川を辿り巳鑑神社に着いて直ぐ、参道の階段を前にして鳥居に描かれる神紋に気付き固唾を呑んだ。
ネットで確認してはいたものの、間近に見るそれが下流域にまで及ぶ鏡石の影響力を如実にし、繋がる事実に神様の歴史を紐解くを我々がしている事が痴がましくもさえ思えて来る。
一礼して鳥居をくぐり階段を上がって丘上まで三分の二程の所に一段落があり、二の鳥居をくぐると参道の右手に池が現れる。
テニスコート一面分程の池には小さな賽銭箱と鳥居を拝し、脇には鯉餌の自販機が設置されていた。
池の中奥には岩の浮島を台座に教卓程のお社が奉られ、池の周囲は笹薮の丘崖になっている。
噂では参道側からは見えないお社の裏側に「願いの飛び石」なるものがあると云うが、笹薮の丘崖を掻き分けて行くのは誰の目にも危険と判る状況に、丘上の本殿を抜けて回り込むしか裏手へは行けそうにない。
階段を上がり切ると古い板目そのままに十二畳程の本殿が姿を現し、参道脇には授与所と社務所を一体にした平屋が置かれ、周囲を朱色に染めた壁板が囲む。
本殿手前の参道は左方へと伸びており、混み合う折の順路にもなり得、丘上の住宅街からも参拝に来れるようになっているが、駐車場は下のみである事からも地元の人用といった所だろう。
社務所を伺い、宮司である堀内太晴さんに話を訊いた。
先ずは巳鑑神社に関する噂「願いの飛び石」なるものを正したいとの事で、荷を置く間もなく案内を追う。
本殿右手の壁板には扉があり、開けると笹藪が迫るも誰が作ったか獣道が出来ており、歩くにも難はなく狭い階段を下り池の裏手へと辿り着く事が出来た。
池中のお社の背に向く岸には玄関マットの如くに敷石が置かれ、腰程の高さに竹柵が配され池中へ入るを禁じているのは明らかだ。
竹柵の向こうには飛び石が三つ、噂では二人一組に訪れ一方は敷石で待ち、一方は三つ目の飛び石に乗り、願えば叶うとされている。
そんなネットの噂を幾らか探ると、飛び石に立って願うのか敷石に立って願うのか、一方の願いを叶える為の贄としての役割に二人一組で連れて来られる贄の立ち位置に違和を言う者もあり、その答えは出ていない。
堀内宮司が言うには、間違った話が世間に出回っているとの事で、街の有権者が議員当時にインタビューに応え、雑誌に掲載された話は一人歩きに内容を違え、他の何かと合わさり知らぬ話を翻訳され拡散されているとの事。
「そもそもが(池に)鯉を放つ折にこの地域や世の平和を祈るものであって、個人の願いをどうこうという話では無いのですがね。兎角ネットというものは困りものですよ……」
勝手に創られた噂に手を焼かされるも、宮司は水難事故等を危惧していた。
我々が池の裏手へ来るにも、笹の葉や茎が踏み倒されていた事で容易に辿り着く事が出来たが、裏を返せばそれだけの人が噂を辿り不法行為にここへ訪れているという証拠でもある。
参道側から池に向け置かれる鳥居を考えれば、池が神域とされているのは明らかだ。
世の平和を祈る場に手前勝手な考えで忍び込み、獣道を作り池中の飛び石にまで足を踏み入れているのだから、願ったところで神様が居たとて叶えるに値しないと解る筈。
では、今回我々が検証しようとする噂とは何か、それは堀内宮司の話にもあった“池に放たれる鯉”に纏わる謎についてだ。
古くから云われる謎との事で、この池に鯉を幾ら増やし入れても、池の上から視認出来る鯉の数は変わらないと云うもの。
「池には神様が住まわれ、例年弁天様の七福神になぞらえ七匹の鯉を放つも、視える鯉の数は増えもせず減りもせずで、凡そ神様が食していると云われています」
堀内宮司の話を聞いて池の上から視認出来る範囲の鯉を数えてみると凡そ十二匹、お社の向こうや空を映す水面の辺りは判らない上、池の底は深く澄んではいるものの土肌が故か底が何処までかも判らない。
地元の皆が知る話では、80年代のオカルトブームにこの神社で行われる地元商店街の夏祭りにて、噂の試しにと池に金魚すくいで残った金魚を三十匹程放った折にも、数週間で見えなくなった。
平成に入り当時の子供達が成人し、稼いだ金を集め錦鯉を二十匹程買い、夏祭りの催事として池に放つも、やはり数週間程で数を減らし上から視える数は今と同じく十数匹程になったと言う。
そこで我々は宮司の許可に魚群探知機より精度の高いエコーロケーション探知機を池に差し入れ、敷石の上でモニターを見詰め確認した処、池の底に魚群は見当たらず、昨年夏にも七匹を放ったと言うが上の十数匹以外に居ないと判り、謎の解明とはならなかった。
だがその探知により、メッシが底の地形に丘中へと向く横穴を見付けたのだが、ここの地域史は宮司よりも奥様の啓子さんの方が詳しいとの事で社務所にて待ち、巳鑑神社の歴史についても伺った。
この池の水源は湧水であるが段丘崖だけに崩落の危険を感じていたそうで、二十年程前に下の駐車場を造る折の発掘調査に序だからと調べてもらった処、池の崖側の法面に防潮堤のような工事が施してあると判明した。
だが街の地域資料によれば、江戸の頃にはこの池から溢れ出る水は参道階段右手の丘崖から滝となって流れ落ちていたようで、滝行をしていた記述もあるとの事。
段丘崖は土の下が岩盤になっているとの事で、段丘崖から湧き出る水は池の中位から出ているらしく、その水量に岩を窪ませ対流に岩を削り穴を開け、池となり溜まった水が上部より溢れ出して丘下に滝行が出来る程の水を落としていたと思われる。
何時の頃からか雨に流された土が壁として張り出し滝を閉じると、笹茎が這わさり茎や葉の朽ちたものが土となり更に笹が茎根を伸ばし土を被せて固めた結果に法面工事の如く現在の笹薮の段丘崖となったようで、崖には一応に土留工事を施したとの事。
その際に、逃がし水用の水路を丘下の巳姫川へと配したそうで、当初は鯉もそこへ流れていると思われていたが、確認すると水路の口には金網があり、無理だと判り謎のまま。
池の底にある横穴は水流により開いた坑なのだろうか、仮にこの横穴が何処かに繋がる水路であるなら、消えた金魚や鯉の謎も解けるかも知れない。
だが坑を調べるにも穴の直径が四十㌢程と潜水で探れる幅もなく、何処までその直径を有しているかも判らず、胃カメラのような専用機材を挿入するにも岩が邪魔をしそうだ。
それ以前の問題として、鯉の数を減らす何かが居るなら潜水どころの話ではないが、その答えを知れそうな話が巳鑑神社の歴史にあった。
巳鑑神社で祀られる神様は弁天様だと思われていたが、それは明治以降に建てられた丘上の本殿の事であり、明治以前の丘上には何も無く、池中のお社があるのみだったと言う。
つまりは巳鑑神社の名は池中のお社こそを云うものなのだ。
鑑の字を冠する神社に加々見方の氏子が造る鏡石の神紋があるのだから、先の謎にも鑑見様に繋がる何かがある可能性に、神紋についてを訊いてみた。
すると驚かされる事実に、こちらの神紋は池中のお社に祀られている鏡石に描かれている紋様だと言うのだ。
啓子さんが学生の頃、お社を補修する際の神事に鏡石を取り出した折に神紋と重なるそれを目にしており、補修で外されたお社の内部は祠のような窪みに鏡石が鎮座し、手前にある池底へと向く穴に向けられているのだそう。
この池は冬にも凍らず川霧のようなものを浮かべたりもするが、北の空に夕刻の紅雲が伸びる日には、池中に光の筋が見える事もあったそうで、今は鏡石が曇っている可能性があると言う。
尚、啓子さんはこの神紋に纏わる話を先々代宮司から聞かされいたそうで、元々この神紋は池に向く鳥居に彫られていたらしく、巳鑑神社を囲う笹薮に白蛇を見たとの話が多くあり、巴が神霊や蛇を云うからとの理由に、丘上の本殿を建てた際にも鏡石の神紋のままとされたとの事。
神紋の巴に脚のような物がある事については蛇足と笑って誤魔化され、真意については分からないが、鏡石に描かれる神紋は補修工事で知った事実らしい。
だが啓子さんの記憶に、今ネットに出回る噂「願いの飛び石」についての間違いを知れる決定的な話があった。
昔は池の裏手にお社へと渡る石桁橋が架けられていたそうで、戦時中に防空壕の壁にするからと持ち去られて以降返ってくる事もなくそのままになっていると言い、三つの飛び石はその橋脚なのだ。
元々橋脚は六つ在ったが持ち去る際に壊されてしまい、橋を元通り再建するにも補修工事や神事に人が乗る事が前提となる為、現在の安全基準に基く池底の確認やら何やらの必要に、とても神様の御前に行なえるものではない為、再建予定は無い。
啓子さん曰く「間違った噂に危険な行為をせずとも、参道側にある賽銭箱に入ったお金は鯉を買う資金となる為、夏に放つ鯉の数が増えれば本来の云われにある噂の検証にもなり、訪れる楽しみも出来るのではないか」との事。
地元の人にも謎とされている夏祭りの催事だけに、解明する為の資金援助と思えば、地域のみに非ず神様の加護のもとで互いの楽しみになり得るのかも知れない。
鏡石の神紋までが繋がる話を聞いて偶然とは思えず、宮司のお名前に例の血筋を浮かべ、失礼を承知で訊いてみると、呆気なくも様々な答えに行き着く事となる。
聞けば政治家の堀内啓蔵氏は遠縁にあたるものの、こちらでは男系の血が途切れている為、▲▲創穴鑑見構の覇権争いとは無縁であるとの事で、これに記すを許された。
啓子さんが先々代宮司に聞いた話によれば、巳鑑神社に鏡石が拝された理由にも、今は▲▲創穴鑑見構の教祖である石神家と堀内家との関係があると言う。
元々は鏡石神社と鑑石寺は密な関係にあり、信仰宗派の拡大に双穴水鏡山の裏(加々見方)で造らせた鏡石を神具として売っていたというのである。
それを可能にしたのが神仏習合の頃より鑑石寺が有し、当時は権力ともなっていた寺請制度だ。
檀家がお布施で支援する代わりに寺からもらう“寺請証文”は社会的信用を得られるものだが、寺はお布施からの裏読みに各家庭の資産が判り、“宗門人別改帳”を作成して江戸幕府に提出するようになる。
檀家が増えれば宗門人別改帳は戸籍のようにもなり、幕府と繋がりを持つことは幕府との関係を盾に権力としても使える事から、幕府の後ろ盾にやりたい放題する寺もあった。
謂わば虎の威をかる狐とも言えるこの寺請制度に不満を持つ人が少なくなかったからこそ、神仏分離令に託つけ廃仏毀釈運動が盛んになったとも言える。
檀家制度自体は今も残るが、寺請制度が廃止され廃仏毀釈が横行した結果、寺もありようの変化に今は仏教保護を言われている。
だが宗教全体を見れば、宗教法人法で甘い汁を吸う団体の多さに民衆の不満は今尚燻ぶり続けてもいるだけに、いつ爆発しても可怪しくはない。
そうした歴史の渦中に、ご多分に漏れず鑑石寺の堀内家は寺請制度の下に信仰宗派を拡大させていた。
鏡石神社の宮司である石神家を交渉役に山の裏(加々見方)へと差し向け、鏡石製造の必要を説き伝え、各地に寺が建つと近くに神社を併設し、神具として鏡石を売り付けていたと言う。
神仏習合の頃には神社の宮司も寺の住職というのはよくある話、だがここに堀内家と石神家の確執問題が生まれたようだ。
啓子さんが先々代から伝て聞く話によれば、信仰宗派拡大に寺が建つと堀内家の門下が入る仕組みに対し、石神家の不満を汲んだ条件に、寺を建てるには神社を奉る水を有する地としていたと言う。
鏡石を売る目的があるとしても、神様を祀る理由に水を有する地の必要を説くなら、鎮めるを云う危険と隣り合わせに鑑見様を配していた可能性もあるようにさえ思えてくる。
だが、古来よりの神事においてを話す啓子さんの口から思わぬ名前が出た事に、我々は驚かされた。
巳鑑神社の池前にて執り行なわれる神事において、【要鏡】と言う名が鏡石を云うものだとの話に、#001で取り上げた鹿島神宮と香取神宮の【要石】を彷彿させる。
地震を起こす巨大な鯰を取り押さえていると云う要石だが、仮に要鏡と云われる鏡石が鑑見様を取り押さえるものだとすれば、池中のお社を奉る理由にこれ以上のモノはない。
加々見方の古文書を解読した加々見先生は、鏡石の製造方法を記した中に『光の線なるを放つ』との一文に『窪み』という語を幾つか見たと言い、レンズ集光の如くに光を屈折させて集光していたなら、鏡石一つで太陽光を一点に湖面の氷に穴を開けられる程の集光率を有するのも頷ける。
詰まる話が、水にも熱を生む精巧に造られた鏡石は、池中の鑑見様の活動を抑制する力を有むからこそに祀られ、神紋を鏡石に描かれる加々見方の紋とした。
そうであれば鏡石を祀る鏡石神社と等しい考えにも、神紋が違える理由に納得が行く。そこで巳鑑神社の池に住まわれる神様の云われを訊いてみた。
啓子さんが知る話では、神様とは本殿の弁天様を云うものであるが、元の巳鑑神社の名を冠する池中のお社の神様はこの湧水を云うもので、不浄なるモノをお社の鏡石が浄化していたのだろうとの事。
だが、そう話した直後にふと思い出したのか、妙な逸話を語り始めた。
昔は夏に下の巳姫川で近くの子供達が泳いでいて、何度か流された子供も居たようだが、数日後にケロッとした顔でこの巳鑑神社に現れたと言うのだ。
当時は神隠しとも云われていたようだが、帰って来た子供は皆一様に「白蛇に助けてもらった」と話す事から白蛇様への信仰が盛んになり、戦後に一度起きたそれが原因で川の遊泳が禁止になって以降神隠しは無い。
この話からしても巳鑑神社の巳は白蛇様である事は明らかだろう。
仮に巳鑑神社の鑑が鑑見様であったとて、巳の白蛇様が善悪の判断に助けているようにも思えて来る。
鑑見様は、まるで魂の赴くままに荒ぶる神の如くだが、白蛇様の善悪の判断に悪とされたなら、その者は如何なる事になるかを思えば鑑見様の存在もまた神様の一面を担っているのだろう。
日本の荒魂とも思しき鑑見様、不意にそれと重なるものを思い出した。
嘗ての戦争で大日本帝國が降伏した日の、米国の勝利を伝えるNYT紙の社説だ。
ドイツが降伏した日の社説では『ドイツ民族はとても優秀であるがヒトラーにより道を違えた、彼等が速やかに立派な国を再建する為にも、我々はあらゆる手立てを講じて協力しようではないか』と友好的だ。
しかし日本が降伏した日の社説はまるで違い、敵意剥き出しになっている。
『この醜く危険なバケモノは倒れはしたがまだ生きている。我々は世界のため米国自身のため、徹底してこのバケモノを解体しなければならない』との論調に、この白人至上主義の下で作られたのが現日本憲法でもある。
そして、この社説の挿し絵には鯨だか鯰だか判らない巨大なバケモノがひっくり返され、口の中に米兵が数人入り“やっとこ”を使い牙を抜いている絵があったと云うのだが、国会図書館に沖縄版が収蔵されており、確認された内容に凡そ事実のようだ。
仮にこの社説に描かれた挿し絵のバケモノというのが鑑見様であるなら、終戦したあの日NYT紙が論じた日本の魂は、神社に祀られ双見湖の底で今も生きているのかも知れない。
だとすれば、鑑見様の住まう地を破壊しているのが、今は警察や国交省所管の海上保安庁等といった日本の政府国家機関である事に、売国が進む理由にも嘗てのNYT紙に書かれた白人至上主義が、今尚この国を蝕んでいるように思えてならない。
だが、昨今の若者に失われているようにも感じる我々日本人の心根深くに刻まれる大和魂が、魂そのものに荒ぶる神として生きている事自体が感慨深く思える。
白蛇様に頼る事なく、善悪の判断を己で以て出来ないようでは荒ぶる神に喰われ兼ねないからこそ、常日頃から悪事を排し自身を律して前を向かんとすべきなのだろう。
これを以て【緊急特別版】双見湖・双穴水鏡山エリア特集!のまとめとさせていただきます。
長くなりましたがお付き合い下さり、ありがとうございました。
今後も様々な謎に向き合い調査して行きますので、よろしくお願い致します。
ライター:Kタナカ
機材音響担当:メッシ
地域文化資料記事作成協力:加々見 温子
著書:地域言語で探る地政史シリーズ『銀鉱に揺れた鑑石村』
■編集後記
一応までに、地政やラストの参考書等はネタなので探しても出ません。
尚、記事内にあるNYT紙に関しては、現実のレファレンス協同データベース(国会図書館)に質問と解答があり、解答には以下のように書かれています。
【1945(昭和20)年8月19日・B3面「OUR RULE OVER JAPAN WILL BE A COMPLEX JOB」
この記事のイラストで、「JAPAN」と書かれた人がやっとこで「MILITARISM」と書いた歯を抜かれています。】
とあり、故 石原慎太郎氏が国会で言われたようなバケモノではなく、人であるとの事です。
この頁に転記用としてあったので、URLを以下に。
https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000340638
【双穴水鏡山・双見湖エリア】(鑑石・槍水を含む)については、評価の★☆★☆★より下部のランキング欄にバナーを貼ってありますので、そちらを確認等にご活用いただければ幸いです。