#007双見湖で祀られ眠る土地神は日本の魂が宿っていた!?(中編)
■まえがき
五千文字を超えて尚、前後編では収まりきらず、間に中編を置く事としました。
巳鑑神社については後編での解説となりますが、そこへと紐解く話がこの中編となります。
▼本文
嘗て双穴水鏡山に存在した鏡石神社が御神体を鏡石としていた経緯に祀る神を探す中、麓の双見湖で山の神として鑑見様を祀る神事【双人鏡の儀】を執り行う双巫神社の門石に見付けた二つ巴に似た神紋。
同じ神紋が加々見方にあるお社で神事に用いられる鏡にも描かれていたと判り、我々はこの神紋が鏡石神社にもあったのではないかとの見方に調査を始めた。
鑑石寺の和尚が宮司の長男を仏罰に処し、お社に火を点けた経緯に鏡石神社は焼失した為現存する遺物は無い。
(この詳細は#002にて記載)
とはいえ以前調べた折にも、周辺の蔵には鏡石神社の存在を記す古文書類が残されているのを我々は知っている。
再び古文書類を読み調べる上での精査に狙いを神紋のみと定めたが、鏡石神社を示す物としては丸い円があるだけで、神紋らしきものは見付からず諦めかけていた。
定時連絡を入れた折、デスクで呑気に暇を持て余すヘルニア持ちの“物言う木”(編集長)の一言にハッとする。
「#003で出した墨絵で、お社の入り口に描かれてる丸い円は神紋じゃないのか?」
その見方に「#003双穴水鏡山に眠る呪物、本物の【鑑石】を発見!?』の墨絵と他の資料を照らし合わせてみて理解した。
我々は知らず知らず巴に似た形に執着していたらしく、目の前にある神紋を見逃していたのである。
詰まる話、鏡石神社の神紋は鏡そのものに円のみで、下の墨絵でお社の入り口に丸く描かれたそれこそが鏡石なのだ。
帰社して数日後、加々見温子先生から連絡があり、加々見方の蔵に残る古文書類を読み調べていたところ、何故か鏡石神社の御神体とされる鏡石についてを書かれた資料が見付かったと言う。
先生の解読を待つ事としたが、他にも面白い物が見つかったようで四ヶ月程を要しての連絡に、再び槍水町加々見方を訪れた我々だが、これまでの調査で得られた話をひっくり返す程の驚愕な事実が待っていた。
坑道爆発による影響や生物兵器対策にと、道路脇に電線を這わせ電磁バリアを用いる水鏡峠の復旧作業に伴い、急がれる周辺の観光地復興に際し加々見のお社の参道脇に新設された施設は地域資料館と社務所に併用される。
そちらで現宮司の各務洞弥さんと加々見温子先生にお会いする事となった。
加々見のお社では、加々見性と各務性の氏子それぞれに氏子総代を立て、宮司を補助する役割となる。
このご三方には、お社の神様に纏わる話や神事に関する手引書、製造方法や保存方法などが記された巻物に加え、神具に至る全てを引き継ぎに渡される。
当然ながら古文書類は読むも難解にその殆どは蔵に収められていたが、新たに建てられたこちらの社務所に移した事で加々見先生の眼に留まり、解読に読み漁り見付けたのが今回の件。
撮影は禁じられたが、加々見のお社で使われる二枚の鏡を並べ見せていただく事が出来、その鏡に描かれる紋様についてを各務宮司から語られた。
実は巴に似たそれは神紋ではなく、上下二つを分けた上を加々見性の氏子の紋、下を各務性の氏子の紋とされているらしく、凡そ参道脇の狛はお社を守護する氏子の紋の形になっていたのだろうとの事。
加々見方で二枚の鏡を用いる神事を【ウツシカガミの儀】と云い、土地神様を祀るお社を守護し周辺に住む氏子集族に伝わる秘の儀だそうで、一般には公開されない。
その為詳細は控えるが、鏡を奉る場所が二箇所あり、鏡は穴を塞ぐ事に使われているらしく双方に開く穴は中で繋がっているとも云われ、それを塞ぐ鏡が一方でも割れると厄災が村に広がるとされている。
そこに怪しいモノノ怪の話が出て来ると知り、各務宮司に話を訊いた。
厄災とは、穴を塞ぐ鏡が割れると坑の中に居る厄災が村へと出てしまい、人である己を鑑みない行いをした者を鏡合わせに幾度となく鑑みさせては、自戒の念に呪い殺すと云われるもの。
呪いの最中に自身の顔を見ると激しく藻掻き苦しみ奇声を上げて走り出す為、鏡のみならず窓や水やに映る己の姿にすら慄き、湯呑みの茶にすら恐れ家を飛び出し冬幻鏡に落ちたと云う。
何故に顧みるではなく鑑みるのかを訊くと、神の道に顧みる後悔を持ち合わせてはならぬとの話で、当時の神仏分離令にも則す話は妙に納得をさせられる。
冬幻鏡というのは今の雪屏風と言われる観光地の事だが、観望デッキや土産物屋が並ぶ場所も駐車場も元より加々見のお社を奉られる境内であり、手前の道は参道だ。
その参道の階段にこそ冬幻鏡の云われを起こす危険があったと各務宮司は言うが、今は駐車場から雪屏風を観る為に向かうその階段は拡幅され、脇にはスロープを設置している事から問題はないとの事。
言語地理学の講師である加々見先生曰く、【ウツシカガミの儀】をこの地域の古い言葉に照らすと、鏡に映す事を云うのではなく、鏡に移す事を云うらしく、鏡に描かれた巴に似たアレこそは厄災の権化の現し身を捕らえる為の写し身なのだと言う。
詰まりは厄災を防ぐ為、坑に住む厄災の権化を塞ぐ役割に、鏡に移して囚えてしまうというものらしい。
ただ、先日の双穴水鏡山で起きた坑道爆発により両の鏡も割れ吹き飛んでしまい、復旧の際には先んじ【ウツシカガミの儀】を執り行い塞ぎはしたが、坑の中の厄災とされるモノノ怪が鑑見様を云うものだったのかは今となっては分からない。
とはいえ、双巫神社では二つ巴に似た神紋を鑑見様とする事からも、加々見方の鏡に描かれた神紋もまた鑑見様と見て間違いないだろう。
そうなると気になるのが、双見湖で執り行われる【双人鏡の儀】に使われる双巫神社の二枚の鏡にも神紋が描かれているのかだ。
それについてを双巫神社に確認するまでもなく、加々見先生から意外な話を聞かされた。
実は、明治以前まで【双人鏡の儀】に使われていた鏡は、加々見のお社の境内にある岩を削り出して造られた鏡石だと言うのだ。
にわかに信じがたい話だが、双巫神社の書物を解読したのも加々見先生である事に疑う余地はない。
双穴水鏡山にあった鏡石神社と双見湖の湖南にある双巫神社、そして加々見のお社までもが鏡石で繋がった。
双巫神社の鏡石を加々見方の岩を削り出して造った事から、神紋が加々見方の両氏子性の紋である、巴に似た上下二つを併せたあの形になったという訳だ。
では何故加々見方の鏡は鏡石ではないのかという疑問に対し、加々見先生は、それを紐解く答えこそが【ウツシカガミの儀】なのだと言う。
各務宮司からは位置の秘匿だけは厳重にと言付けられ、その答えには宮司も氏子集族の皆も驚愕したと言い、我々も話を聞いて目を丸くした。
【ウツシカガミの儀】
この神事で二枚の鏡を用いて塞ぐ穴そのものにこそ、全ての答えがある。
何故なら、穴の一方は元より開いていた穴だが、もう一方の穴は過去の氏子が開けた坑であり、それは鏡石として加工する為に岩を削って出来た坑だと言う。
鏡石を削り出すのに掘った坑が、元々在った何かの坑に繋がった事で厄災が飛び出したものと考えられ、それを塞ぐのに岩穴に形を合わす事の出来る鏡として、双穴水鏡山で採れる銀を用いた鏡が使われたと云う。
銀は硫黄毒に反応する作用があり、西洋ではヒ素毒対策に食器にも用いられ日本も遣唐使等により古くから伝わっている事から、厄災を毒とみていたかも知れず、最初の厄災は坑に溜まっていた硫黄などのガスだった可能性も否めない。
けれどその坑に別の何かが入り込んだか、それとも誰かが意図的に入れたものか、何れにせよ土地神信仰に祀る神様の必要にモノノ怪を塞ぐ神事として始まったのが【ウツシカガミの儀】だと云う。
鏡石神社では、川で悪さをする鑑見様を抑止する効果を持つとされていた鏡石だが、その鏡石を削り出した地こそは加々見のお社の境内にある岩だと言うのだから起源はどちらか判らなくなってしまった。
双巫神社の古文書類を調べた加々見先生によると、【双人鏡の儀】に使われる二枚の鏡も元は一つの鏡石だったと判り、巫女が祈りに身を捧げる折に何度か湖面の氷が割れて落ち、沈み消失していた事も記載されていたとの事。
その都度に加々見のお社の境内にある岩を削り出し、鏡石神社の鏡石を模して造られたのである。
詰まる話が、そうして鏡石を造る都度に岩を削り出して穴となり、それを繰り返す内に掘られた坑が元よりあった坑に繋がり厄災を放ってしまい、銀の鏡で塞ぐ秘の儀【ウツシカガミの儀】を執り行う事となったのだ。
だが鏡石は墨絵を見ても巫女が持ち上げられる程度に、直径にして三十から四十㌢程と、それ程大きい訳では無い筈だ。
それを幾つか削り出した処で、坑にまでなるとは思えない。
そんな折、偶然にも別のモノを追っていた新人ライターのキチカを通じ、我が社でアルバイトをしていた大学生から貴重な情報を得る事が出来た。
同じ神紋が随分と離れた街の神社にあると聞き、調べてみると丘上に奉られる巳鑑神社という池を有するお社で、昔から不思議な現象を云う話は有るものの、昨今のネット界隈に怪しい噂も立っている。
そして、この巳鑑神社の前を流れる川というのが、双見湖より西へと流れる美子川水系である事に驚かされた。
我々は急ぎ巳鑑神社へと向かい、怪しい噂も含め調査を開始する事とした。
だが、そこで知る事実に鏡石と鑑見様に関する全ての謎と、この双穴水鏡山の名が意するが何かをまで理解させられる事となる。
後編では特集のまとめに則し、双穴水鏡山の名が意するものから鏡石と鑑見様についての謎を解き明かそうと思う。
ライター:Kタナカ
地域文化資料記事作成協力:加々見 温子
著書:地域言語で探る地政史シリーズ『銀鉱に揺れた鑑石村』