第4話 魔法使いの店
あの見た目にそぐわぬ香水のようなタバコの匂いが染みついた借金取りが来るのがとうとう明日になってしまった日の朝。ライラはもし石ころでも踏んづけたり、縁石に引っかかって転んだりでもして短剣に傷でもついたらいけないと思って今度は自転車ではなく徒歩で十五分ほどの距離にある、オダマキ通り商店街の裏通りの買取店を目指して早足で歩いていた。
オダマキ商店街には一般的な商店街にあるようなお惣菜屋さんが何軒かとお弁当屋さん、ケーキ屋、中華料理店などの飲食店が数件、それから文房具店、おじいちゃんがやっているこじんまりとした書店、八百屋さん、花屋、寝具店なんかもあって結構賑わいのある商店街だ。
ライラも小学生の時、退勤してきた父を最寄り駅に迎えに行ったその帰り道に通るこの商店街でコロッケを買ってもらったり、中学生にもなると学校帰りに友達と買い食いなんかもしていた。高校生からは委員会や部活動で遅くなるときなんかは帰りにこの商店街で晩御飯のおかずになる惣菜を買って帰ったものだ。そうすれば家に帰ってあらかじめタイマーをかけておいた炊飯器のご飯を混ぜて汁物を何か作ればもうこれだけで晩御飯が出来上がるので重宝していた。値段もお財布に優しくて、コロッケをよく買ってもらっていたところで惣菜を買うときなんかは女将さんに大きくなったねと毎回声をかけてもらっておまけしてもらったりもしていた。
そしてそのオダマキ通り商店街のあるオダマキ通りから一本奥の道に入ると賑わっていた様子から急に雰囲気を変える。なんというか少々風変わりな店が増えるのだ。その店のカテゴリーだけを見たらそこまで風変わりというわけでもないのだが、これから行く買取店なんかはまず店の入り口が変わっている。他にライラが知っているのは、異国の食材専門店だとか、当たるらしいと噂のいつ開いているのか分からない占い店、それからそう、シーシャの店もあった。
ライラがあの男の服に染み付いた匂いがシーシャの匂いのようだと思ったのはこのシーシャの専門店だという店の前を通ったことがあるからだった。といってもライラはあまりこの裏通りに足を踏み入れたことはない。オダマキ通りはよく通ったものだが、この裏通りに初めて足を踏み入れたのは中学生の時に好奇心旺盛な友達に付き合って少し覗いた時だった。その時の、夕方の時間帯でオレンジ色に染まった影の色の濃い静かでガチャガチャとした通りはこのまま進めば異世界にでも行ってしまうのではないかという不安感に駆られて、そんなことは起こらないだろうという確信が持てるようになっても用事が特になかったこともあってこの裏通りを通ることはほとんどなかった。
しかし、つい一年前に紅茶をメインに幅広く茶葉を取り扱う店ができたという話を聞いてからは晴れている日の昼間にちょこちょこ覗くようになった。その店の目の前まで行ったのは四回、そのうち足を踏み入れたのは二回で、購入したのも二回。どちらも少量ずつ茶葉を買ったのみだが、店員さんがとても丁寧にこんな味だとか香りがするだとか、試飲もどうぞなんて言ってくれたので二回とも満足な買い物ができた。
これから行く買取を行っているらしい店はその茶葉のお店のほど近くにある。ライラがこの買取店の存在を認識したのは高校生の時で、噂好きのオダマキ通り商店街の惣菜店のおばさまたちが話しているのを聞いたのだ。その時聞こえてきた買取店の見た目とが茶葉のお店から見えるそれと合致したので、「ああ、あそこか」となんとなく知っていた。
もしそれが記憶違いだったら、とか今日営業をしていなかったら、とかはもはやライラの頭に入る隙もなく、考えられていなかった。
昨日の夜は短剣の存在を思い出してから、もしかしたら他にもこういうものがあるのではないかと思ってまたもう一度、今度は「ここにはないか」という先入観なしに家中を探したが、結局お金になりそうなものはこの短剣くらいしかなかった。一応検索したものの、骨董品の買い取りをしているらしいあの店が何時に開くのか分からなかったので、とりあえずあの裏通りにある茶葉のお店の開店時間である十一時を目指してライラは家を出た。
一昨日の夜も、昨日一日中も、今日の朝もまともにご飯が喉を通りやしなかったが、お腹が空いているという感覚は特になかった。普段ライラは朝ご飯をしっかり食べるタイプなのでそんなことでも今の自分が通常の状態ではないことを自覚してしまってしょんぼりとした。
ただ何も口にしないと水分とか糖分とかが足りなくなって動けなくなってしまうので、甘めのココアを大きめのマグカップいっぱい、おおよそ三百五十ミリリットルと、お菓子の棚から適当に引っ張り出したビスケット三枚を咀嚼し、嚥下した。
短剣を持って移動しているだなんて何だか凶器を持っているみたいで、ライラは落ち着かず、ドキドキという心臓の音が耳の奥に響いていた。いや、凶器であることに間違いはないのだが、鞘に収められていて抜き身ではないし、さらに布に包んでカバンの奥底に仕舞い込んでいるので許してほしい。スーパーとか生活雑貨店なんかで包丁を買って自宅に持って帰った経験はないけれど、そのときはこういう気分になるのだろうか、なんて考えたりもした。いやきっともっと平常でいられることだろう。だって包丁はライラの父の遺品でも、これから借金を返すために売れるかどうか鑑定してもらうような物でもないのだから。
オダマキ通りの裏通りにある茶葉のお店は通りの端っこの方にあるので、ライラは裏通りを端から端まで見て回ったことはない。買取店らしきところは茶葉のお店の向かいの三件隣で、茶葉のお店の入り口から遠目に店構えを見ることができた。
もう見た目からして不思議な雰囲気のお店で、店の前はこざっぱりしているものの大きなショーウィンドウのところにぎっしり物が飾られているのだ。なんとなく近づきづらくてライラは遠目にしか見たことがなかったが、それでもキラキラとアンティークっぽいのランプが窓越しに光っているのが見えて神秘的な雰囲気があって素敵だと思った記憶がある。でも特に売るようなものも予定もなくて足を踏み入れようと思ったことはなかったのだ。
ただその店構えのせいで近所の小学生のヤンチャな男の子たちが魔法使いがいる店だなんて騒いでいるのをライラは通りすがりに聞いたことがあった。もちろんそんなことはあり得ない、魔法使いたる魔法族は二百年も前に途絶えてしまっているのだから。いたってせいぜい魔法もどきくらいのものだ。そのマジックイミテーションだって街に一人か二人くらいしかいないと言われているのに。
まさかそんな。……いや、さすがにそんなことはないはずだ。ただちょっとそういう雰囲気があるってだけだろう。そもそも骨董店とかならアンティークのものを色々置いていたって不思議ではないのだし、それがたまたまそういう風に見えてしまっているだけだろう。
普通に歩いたって十五分しかかからないところを所々早歩きと駆け足で来てしまったものだから、家を出てから十分もかからないでライラは裏通りの端っこにある茶葉の店の前に着いてしまった。ただ、気持ちが急いて駆け足になったところがあったわりに、買取店が近づくにつれて怖気付いて速度が緩んだりもしたのでここまでのライラの分速をグラフに起こしたらぐにゃぐにゃと不思議な波線を描くことだろう。
ライラはスマホで時間を確認した。そしてそのまま少しの間立ち止まったが、こうしていても仕方がないと肩にかけたカバンの紐の合皮が歪んで跡がついてしまうくらい固く握りしめてから今まで行ったことのない茶葉のお店の奥に足を進めた。
店の前まで来たライラはドアを睨みつけた。別に睨みつけるつもりはなかったのだが、気合が入ってそういうふうになってしまった。
店のドアにはオープンの札がかけられている。買取店はいつもアンティークのランプがキラキラとして少しワクワクするような装いに見えていたのに、今日ばかりはなんだか怪しげな雰囲気で薄暗く見えて尻込みをしてしまう。少し固まってしまったライラだったがすぐにぐっと奥歯を噛み締めて顎を引いてパンと軽く頬を打つと、ドアにかけられたオープンの文字を睨みつけながらゆっくりとドアを開けた。
ショーウィンドウにたくさんの物が飾られているせいで外から窺い知ることのできなかったドアの先に広がっていたのは、宝石の洞窟だった。