8.急襲!火の公子3
ディーナとノルベルトは唖然として互いの顔を見合わせた。
そして自分たちは今、全く同じ表情をしているに違いないと確信する。
つまりこれは、ノルベルトにとってもまったく未知の話なのだ。
これが政略結婚だと言うのなら、両家の当主間の打診から始まるのが通常の手順であり、約束もなしに本人が押しかけてくるのはさすがにおかしい。
まさかまた前世のように、ひとめぼれだとでも言うつもりなのか。
ディーナはオスカーの方へ視線を戻し、榛色の瞳に映る感情を見つめる。
(でも、あなたの目は……わたしを拒んでいる)
ディーナは胸の底が軋むのを確かに感じた。
そして、そんな自分が悔しかった。
(……やはり、あれは嘘だったのね………)
前世で想いを告げられた日、ひとめぼれだったのだとオスカーは言った。
『貴女の姿を……貴女の空色の瞳を見たときにはもう、僕は逃げられなかったのですよ』
困ったように目元を染め、真摯な声で。
宝物を抱きしめるように、優しく背中に回された大きな手がとても心地よかった。
(あなたは、とても上手にわたしを騙したわ)
今のオスカーの顔には、少しの恋情も滲んではいない。
病み疲れて凄みを増した端正な美貌に、凪いだ湖面のように整えられた、貴族的な笑みが浮かんでいるだけだ。
そこに覗くのはむしろ、情熱とは対極にあるもののようにディーナには映る。
(彼が望むものは、前世でも現世でも、わたし自身ではない。わたしと縁を結ぶことで得られる別の何か………?)
それがどんなものなのかはわからないが、誠実そうに見えた彼を受け入れた顛末がディーナの死だったのなら、きっと最初からすべての温もりは偽りだったのだ。
そして今回も同じ目的なのだとしたら、婚約の先に待つものはディーナにとっては悲劇でしかない。
「大変光栄ではありますが………あまりにも思いがけないお話で驚いております。差し支えなければ理由をお聞かせいただけますか?」
「……理由………」
思うところがあるのか、表情を繕わず渋面で問いかけるノルベルトに対し、オスカーはなぜそれを問われるのかを意外に思ったような表情で、気真面目に答えた。
「彼女は見ず知らずの私を、己の危険も顧みずに救ってくれました。私はその恩に報いる義務があります。幸い、私に婚約者はいませんし、辺境伯令嬢の嫁ぎ先として不足はないはずです」
それを聞いたノルベルトが、義務か、と小さく呟くのが聞こえた。
ちらりと横を見たディーナは、ノルベルトが口元にニヤリと笑みを張り付けてはいるが、目は全く笑っていないことに気づいた。
オスカーはノルベルトの何某かの判定で、不正解を引き当てたらしい。
「そのように重く考えていただく必要はありません。ご覧になった通り、この娘は大層な暴れん坊です。荒事に首を突っ込んだのも、嫁ぎ先を得たかったわけではなく、青臭い正義感に駆られてのことでしょう。じゃじゃ馬に公爵夫人の座は荷が重い。娘がお伝えしたように、お忘れくだされば十分です」
しかし、暗に「お引き取りください」な発言で話を終わらせにかかったノルベルトに、オスカーは堪えた様子もない。
「これは内密にしていただきたいのですが。賊は捕縛されましたが、黒幕は別にいたようです。実行犯が杜撰だったにもかかわらず、王宮の警備の裏をかき賊を引き入れ、守護が篤いはずの公爵家の一員である私に薬物を飲ませ、人目につかずに屋外に運び出すことにまで成功している。おそらくかなり面倒な相手です」
一度考えるように目線を落とし膝の上で綺麗な指を組むと、ふう、と息を吐く。
瞬いた黒い睫毛が、青白い頬に陰影を作った。
「今のところ、私を助けたのがディーナ嬢であることを知る者は他にいません。父にも伝えてはいません。彼女に辿り着くのは通常なら難しいはずです。………しかし、相手が王宮の奥深くに手を伸ばせるような長い腕を持つのなら………不可能であるとは言い切れない。この目論見を潰えさせた恨みの矛先が、彼女に向くかもしれない」
オスカーが話しているのは、ディーナのことだ。
なのに、彼はディーナを見ようとはしない。
ディーナはどこか他人事を聞くような不思議な気持ちで、話に耳を傾ける。
「私を助けたことで、彼女を危険に晒すわけにはいきません。婚約者として公爵家の庇護下に置けば、簡単には手出しできなくなるでしょう。私自身も表立って盾になることができる。せめて、事件背景が詳らかになり、ディーナ嬢の身の安全が確信できるまでは………」
「失礼ながら、娘を釣り餌になさるおつもりなら、父親として承服しかねます」
「決してそのような意図はありません。ディーナ嬢と辺境伯家が不利益を被らないよう、魔術契約で誓いを立てても構いません」
オスカーの思わぬ申し出に目を瞠ったノルベルトは、ディーナの顔をちらりと見たあと、難しい顔をして顎を擦った。
ディーナを一時的な囮にして厄介な黒幕を引きずり出す腹積もりなのかと訝しめば、そうでもないらしい。
魔術契約を結んで契約を反故にすれば、代償が課せられる。
契約の内容によって対価の重さは異なるが、保証するものが身の安全や命そのものとなれば、差し出す対価は似たようなものとなる。軽い気持ちで持ち出すものではないのだ。
オスカーの提案が思いのほか本気であるとわかるが、その分こちら側は断ることが難しくなってくる。
ノルベルトが腕組みをし、苦々しい顔をする。
「それは、ヴァールハイト公爵家の総意なのでしょうか」
「いえ、私は意識が回復して事件のあらましを確認次第、すぐにこちらへ向かってしまいましたから。しかし今頃私の部屋がもぬけの殻であることに気づいて、慌てているかもしれません」
「なんですって⁉」
あまりの発言に、思わず立ち上がりそうになる。
つまり彼は、ろくに回復したとも言えない状態でここへ来たのだ。
顔色がよくないのも当然ではないか。
おまけに、倒れていたはずのオスカーが行方をくらませたとなれば、公爵家の方が大騒ぎになるに違いない。
下手をすればこちらに公爵家嫡子誘拐の嫌疑がかかりかねない。
「心配無用です。従者には伝えてありますし、簡単な書置きは残してきましたから。こちらを巻き込む騒ぎにはなりません」
しかし何でもないことのように淡々と経緯を説明するオスカーに、ディーナたちはガクリと力が抜ける。
なんという無茶をするのだろう。
脱力したノルベルトは無作法にガリガリと頭をかいた。
「しかし……公爵家を通していないのであれば、この話はこれ以上ここだけでどうにかできるものではありませんよ」
「ええ、そうですね。帰って父に話を通します。今日は、助けていただいたことへの感謝と………私の意思をお伝えしたかったのです。それに」
オスカーはなにかを言いかけて、思い直したように首を振った。
どこか気だるそうな様子で立ち上がる。
「………いえ。今日はこれで失礼します。急な来訪で失礼しました」
ノルベルトに促され、見送りのために玄関までオスカーと並んで歩く。
ディーナは、前世で恋人同士だったときと比べると、歩くふたりの間には少し距離があることに気づいた。
こんなところも違いが出るのだな、とぼんやり考える。
オスカー自身の体調の所為か、ディーナの歩調に合わせてなのか、ゆっくりとした足取りで廊下を進んだ。
応接室から玄関ホールまでさほどの距離はないが、オスカーが口を開く様子はない。
ふたつの足音だけが、静かな廊下に響いている。
ディーナは顔を上げ、気になっていたことを問いかけた。
「本当は、どうやってあの日の人物がわたしだと気づいたのですか」
「………気になりますか」
「ええ」
ディーナはオスカーを見上げるが、オスカーは前を見たまま歩き続けている。
視線が合わない。
彼は、ディーナを見ない。
「では、貴女はなぜ、あの場に現れたのですか」
「え?」
なぜか質問に質問で返され、ディーナは瞬きをした。
訊かれたくなかった質問なのか。それとも、この質問がディーナの質問に対する回答へとつながるのか。
ディーナは、言葉を続けるオスカーの整った横顔をじっと見つめる。
「あの場所は、王宮のホールへの出入り口から離れています。庭園の奥まった位置で薄暗くて人気もなく、大夜会に参加した令嬢がひとりで歩くにはいささか不自然です」
「………」
「どうやって、あの場へたどり着いたのですか?」
ディーナはそれに答えることはできなかった。
只人に聞こえるはずのない精霊の声が、あなたを救ってほしいと求めた。
それを聞いて、何も考えずに走り出してしまっていたなどとは………言えるはずもなかった。
「息抜きに庭園を歩いていて………偶然、迷い込んだのです」
その言葉に説得力がないのは自分でもわかっていた。
衛兵に見とがめられて、不審者として捕縛されるかもしれないような真似を、王宮に不慣れなデビュタントがするはずもない。
しかしオスカーはディーナの怪しげな言い訳を咎めはしなかった。
「では………貴女が庭園で迷子になったおかげで、私は命を得たのですね」
去り際にオスカーがその言葉を言った時だけ、彼の目元が優しく緩んだように見えたが、気のせいだったのかもしれない。
そして、彼が結局ディーナの質問に答えをくれなかったことに気づいたのは、すでに彼の姿が見えなくなったあとのことだった。
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