46.終焉を告げるもの
いつからそこにいたのか、わからない。
まるで初めからそこに立ってすべてを見ていたかのように、彼女は静かに佇んでいた。
風の公爵夫人、ヘンリエッテ・エーデルシュタイン。
(公爵夫人⁉ ………どうしてここに………)
夜会で見た、儚く物思いに耽る彼女と同一人物であるとは、自分の目で見ても信じ難かった。自信に満ちた表情で、凍るように冷たい笑みを浮かべている。
「お久しぶりね? 夜会でお会いしたシュネーヴァイスのお嬢さん」
「公爵夫人………」
「どうして素直にお菓子を召し上がらなかったのかしら? 楽しみにしていた出し物が見られなくて、本当に残念だわ。ふふ。私、あなたが血をまき散らしながら苦しみ悶えて死ぬところが見たいの。さあ、早く死んで見せてちょうだいな」
「………っ!」
年齢にそぐわない、少女を思わせるあどけない表情で、恐ろしく残酷な言葉を投げかける。
ヘンリエッテはディーナを見つめ、やや不自然な動きでカクリと首を傾けた。
「私ね、あなたみたいな方が嫌いなの。とても嫌いよ。健康で、瑞々しくて、希望に満ちて光り輝いて。………美しい殿方に、大切にされて。憎いわ。とても、憎い………」
ヘンリエッテを囲む空気が少しずつ昏く気味の悪い色に染まっていき、蜃気楼が立ち上るようにゆらゆらと歪んで見える。
よく見ると、夜会で見た覚えのある見事な翡翠の首飾りから、不気味などす黒い瘴気が溢れ続けていた。
夏至祭の古道具屋でオスカーが燃やした手鏡が、閃くように脳裏に浮かぶ。
(公爵夫人の首飾り。あれ、呪具なんじゃ………)
思ってもみない事態に、ディーナはこくりと息を呑んだ。
噴き出す冷や汗に耐えながら、ヘンリエッテから目を逸らさずに、シェリルから取り上げた短剣を拾って構える。
すでに相手が常識的な話し合いの通じる相手ではないことは明らかだった。
見ている間にも、首飾りから染み出す瘴気はじわじわとヘンリエッテの肌を染め上げ、ついには全身を侵食すると、彼女は影絵から抜け出した人物のような奇妙な姿になった。輪郭も不自然にぼやけて、まるで人型の黒い霧の塊が、豪奢なドレスと首飾りを纏っているように見える。
顔と思われる部分で、口であろうものがパカリと開いたが、明らかに人間の口の大きさを超えていた。
「憎イ。憎イ。憎イィィィィィィイイイ………………」
「ひいぃっ……!」
恐ろしい唸り声を上げる化け物を直視して、限界を超えたシェリルが甲高い悲鳴をあげて気を失った。
しかしヘンリエッテだったものは、倒れたシェリルには興味を示さない。
正気を失っても、あくまで標的はディーナらしい。
ディーナは短剣を構えて化け物との距離を測りながら、少しづつシェリルから離れていく。ピリピリとした緊張が肌を刺すようだ。
突如、ひゅうっと黒い触手のようなものが伸びてディーナの手を捕えようとした。素早く短剣を振り抜いて、気味の悪い触手を両断する。
手ごたえが伝わり思わず身震いしたが、切り落とされた触手は地に落ちる前に霧が散るように霧散した。
しかし化け物はさほど堪えた様子もなく、切り落とされた部分も、何事もなかったように再生してしまう。
短剣で切り落とすことはできても、相手を弱らせることは容易ではないらしい。
ディーナは震えそうな足に力を入れた。
(こんなところで死ねない)
前世でディーナを刺し、命を奪ったのがシェリルであることは間違いない。
しかし、肌で感じる。
ディーナを本当の意味で殺し続けてきたのは、この『悪意』だ。
しかしこれに勝つのは容易ではない。ディーナはおそらく、今までの回帰でこれに勝てたことがないのだ。だからこそオスカーは回帰を繰り返している。
『僕は……、また、間に合わなかった』
オスカーの苦悶に満ちた表情を思い出す。
ここでディーナの命が失われれば、オスカーはまた真実にたどり着けないまま命を投げ出してしまうだろう。
そんな悲しいことは絶対に許さない。もう二度と。
(わたしは、オスカーと未来を生きるのよ!)
ディーナは息を大きく吸った。
「精霊よ! 応えて! あなたたちの愛する祝福者の切なる願いに! わたしはここにいる。生きて、彼を待ってる。彼が来るまで、持ちこたえてみせるから!」
ディーナは祝福者ではない。だから精霊の力をふるうことはできない。
けれど、銅貨の噴水でミハエルがいたときに、精霊たちはディーナの言葉に耳を傾けてくれた。
だから、オスカーのためになら、オスカーの願いになら。
きっと精霊は応えてくれる。
そのとき、ディーナの周りを熱い空気がごうっと走り抜けた。
ほんの一瞬だったが、ディーナは心からの笑みを浮かべる。
オスカーは精霊の警告に気づく。きっと、ここへ駆けつけてくれる。あとは、ディーナの頑張り次第だ。
ディーナはドレスの下からもう一本の短剣を取り出し、両手に双剣のように構えた。
「あなただったのね………わたしを散々殺してくれたのは。でももう、それもおしまいよ。あなたの思い通りにはいかない。だって、今度こそ、彼が間に合うもの。それまではわたしがお相手するわ。簡単にはやられないから、覚悟なさい!」
ディーナの挑発に煽られたように、何本もの触手が鋭く伸ばされた。
躱して、捌いて、切り落として。
得体のしれない化け物との戦いが続く。
魔術をほとんど使えないディーナは、研ぎ澄まされた剣術と身軽な身体だけが武器だ。
どうにか戦えているが、少しずつ体力が削られていく。
(呼吸を、整える隙が……ない………っ)
地を蹴って飛び、くるりと回転して受け身を取る。
すぐにまた飛びのくと、さっきまで立っていた場所にずぶりと触手が突き立てられた。
次の瞬間、駆け続けるディーナの足に追いついた触手が足首に巻き付いた。
(! しまった………!)
強い力で触手に引っ張られ、地面に勢いよく倒れる。
「くっ………」
短剣で絡みついた触手を切り落とし、打ち付け引きずられた痛みを無視してまた走り出す。
(負けられない………。一緒に生きるって、約束したもの………!)
体力が尽きかけ、萎えそうになる足を叱咤しながら双剣を握る力に手を込めたそのとき、突然強い風が吹き抜け、大きな影が頭上をよぎった。
そんな場合ではないのに反射的に天を振り仰ぐと、信じられない光景が目に入る。
陽光を透かす翼を悠々と広げ白く輝く美しい天馬が、ディーナの真上を旋回している。
天架ける馬は、生物というよりも、気泡を含んだ硝子で精巧に造られた工芸品のような質感だった。
その背にはふたりの男性を乗せており、そのうちのひとりはディーナの姿を見つけると、待ちきれないように天馬から飛び降りる。
「オスカー………!」
かなり高いところから飛び降りたが、ディーナのすぐ近くに危なげなく着地すると、素早く化け物とディーナを分断するように立ちはだかる。
顕現させた銀色の聖剣が、瘴気を払うように輝いた。
「ディーナ! 大丈夫ですか⁉」
声の切実さから、彼がどれほどの思いでここに辿り着いたかが伝わってくる。
ディーナは喉の奥が熱くなることに耐えながら、しっかりと答えた。
「大丈夫です。大きな怪我はありません」
「………あれがまさか、エーデルシュタイン公爵夫人ですか?」
「そうです」
目の前にあるのは不気味に輪郭が揺らぐ、黒い影の塊のような存在だ。
しかしオスカーはどうやってか、それがヘンリエッテであることを理解しているらしい。
女性物の上等なドレスと妖しく光る翡翠の首飾りの存在だけが、かつてその影が人間の女性であった片鱗をのぞかせていた。
口のような場所から漏れる奇妙な呻き声はおぞましく、歪な姿はこれまでに見たどんな生き物とも違っている。
もはや、生き物とは呼べないのかもしれない。
「たぶん、首飾りが呪具なんです」
「呪具! なんということだ………僕もこれほどの物は初めて見ます」
「首飾りを外せたら、なんとかなりませんか?」
「………もう遅い。アレはもう、人ではありえない。………貴女にもわかるでしょう。アレこそが、貴女を殺し続けたモノの正体です」
運命を真っ直ぐに見据えるオスカーの瞳が、紅蓮に染まる。
逆巻く青白い炎がオスカーの身体から嵐のように立ち上り、宙で結ばれ、それは燃え盛り眩く輝く炎の鳥の姿になった。
浄化の力を持つ輝く炎を纏い、神秘の鳥は大きな翼を悠々と広げる。
神々しい美しさにディーナは胸を打たれ、息をするのも忘れるほどだった。
火の祝福者は呪われた運命に銀色の聖剣を差し向け、厳かに宣告する。
「報いを受けよ、邪なる力と魂を結びしものよ。その命をもって、罪を贖うがいい!」




