43.琥珀糖と薔薇
デルファ侯爵邸の庭はよく手入れされ、小さく愛らしい動物をかたどったトピアリーが目を引いた。様々な色の薔薇で飾られた華やかなアーチをくぐると、御伽噺の世界に迷い込んでしまったような感覚になる。
案内された東屋にはすでに、デルファ侯爵夫人とシェリルの姿があった。
「ようこそ、シュネーヴァイスさん」
「お招きありがとうございます、デルファ侯爵夫人。お初にお目にかかります、ディーナ・シュネーヴァイスと申します」
「さあ、こちらにお座りになって」
シェリルはディーナを見ておらず、俯いたままだった。
キャンディピンクの髪を美しく結い上げ、庭園に咲く花にも負けない華やかな赤いドレスを纏っている。しかし装いの鮮やかさと違い、以前に見せていた咲き誇るような勝気さが感じられず、生気を失った切り花のようだ。
ディーナが座ったと同時にテーブルに置かれた茶器が入れ替えられ、新しい紅茶が用意される。
侯爵夫人は立ったまま、シェリルの横に並んでディーナに微笑みかけた。
「今日は来てくださって本当にうれしいわ。ご存じでしょうけれど、シェリルは凶悪な魔獣と遭遇してとても怖い思いをしたの。それ以来すっかりふさぎ込んでしまって………。かわいそうでしょう? この子が大変な目に遭ったというのに、こんな時に限って夫も不在で、困ったものだわ。この子のお友達もこの魔獣騒ぎですくみ上がってしまって、招待に応じてくれないのだもの。友達甲斐のないことね」
シェリルの髪色を少し燻ませたようなピンク色の髪の侯爵夫人は、頬に手を添えてほうと溜息を吐く。
「でもシュネーヴァイスさん、あなたは素敵ね。ちゃんと貴族の嗜みを心得ているもの。………シェリルは、わたくしの自慢の娘なの。風の公子様は確かにハンサムでお家柄も素晴らしいけれど、たくさんの女性を侍らせていらっしゃるから………不誠実なのではないかしら? 婚姻までたどり着かずに見放されては、男性は甲斐性と言われても、女性はいらぬ傷がつくだけだわ。それでは困るの」
シェリルの両肩にそっと手を添え、ひとり笑顔で話し続ける。
「わたくしのシェリルには、もっとふさわしい方がいらっしゃるわ。同じ四大公爵家のご嫡男で、二つとない素晴らしい力をお持ちの方が。あの方は浮いた話もないから、縁組が整えばきっとシェリルを大切にしてくださるわ。………ねえ、シュネーヴァイスさん、あなたはシェリルの友人だもの。シェリルを応援してくれるでしょう?」
「………」
ディーナは肯定も否定もしなかった。
デルファ侯爵夫人は、シェリルと『四大公爵家のご嫡男』の縁組を望んでいる口ぶりだ。ディーナとオスカーの噂を百も承知で、口を挟む暇も与えず、上位貴族に対する嗜みとシェリルへの友情という言葉でディーナを押しつぶそうとしている。
(なるほど………とても貴族的なお茶会だったというわけね)
おまけに招待客はディーナひとりだけのようだ。
内心、深々とため息を吐いた。
ディーナの精神はこの程度の言葉遊びで右往左往するほど繊細ではない。
なにより、オスカーの血を吐くような想いを聞いたディーナは、つまらない外野の妄言などより信じるに足るものがあった。
それに、デルファ侯爵夫人がディーナを格下と侮る様子から、シュネーヴァイス辺境伯家の地位を量り違えていることがわかる。
さて、なんと返すべきか。
そう考えていたとき、今まで黙ったままだったシェリルがぼそりと呟いた。
「………お母さま。今日は、わたくしと彼女の二人だけのお茶会のはずでしょう?」
すうっと顔を上げて隣に立つ母を見上げたシェリルの横顔を見て、ディーナは驚きを顔に出しそうになった。
陽にあたらないよう慎重に手入れされていたはずの肌には、化粧では隠せない隈が浮いている。身体つきも以前よりひとまわり細く感じ、今にも貧血を起こしそうな儚さだ。
「御用ができたら、またあとでお母さまをお呼びしますから」
「あら、そうね。そうだったわ。お友達との楽しい時間をお邪魔してはいけないわね。では、シュネーヴァイスさん。ゆっくりしていらしてね」
「………ありがとうございます」
シェリルに窘められた夫人は、どこかあわてた様子でアーチをくぐってそそくさと庭園を後にした。
給仕も下がり、東屋にはディーナとシェリルのふたりだけが残された。
気持ちの良い陽光が庭園を照らし、見頃の薔薇からは良い香りが漂っている。
まだ昼過ぎなのに、ここは不思議なほど静かだ。
シェリルが息を吐いた音が、やけにはっきり耳に届いた。
覇気のない声で、前置きもなくシェリルが話し始める。
「………お母さまはお若い頃、風の公爵家の現当主さまの婚約者候補になったことがあったそうなの。でも、もちろん候補は他にもたくさんいて、結局お母さまが選ばれることはなかったわ。だから、お母さまは夢見ているんですの。自分の娘を、今度こそ四大公爵家に嫁がせることを」
シェリルが音もなく紅茶を飲み、カップを戻した。
彼女はディーナに顔を向けず、カップの中で揺れる紅茶に目を落としている。
その様子に、なぜかディーナはチリッと首筋が粟立つのを感じた。
「お母さまは、ご自分を選ばなかったローデリヒさまにあまり良い感情を持っていないんですの。だからローデリヒさまの息子であるミハエルさまよりも、祝福者のオスカーさまとわたくしが結ばれた方が望ましいとお思いなのでしょうね。でも、わたくしがお慕いしているのはミハエルさまだけですわ」
顔を上げたシェリルの檸檬色の瞳がディーナを見ている。
しかし夢見るような瞳に映っているのは、ここにはいない想い人なのだろう。
シェリルは落ちくぼんだ目を細めて幸せそうに笑った。
「わたくしがデビュタントを迎えた大夜会のとき、緊張してドレスを踏んで、転んでしまったの。みっともなくて、惨めで、恥ずかしくて、死んでしまいそうだった。周りも馬鹿にしたように笑うばかりで、誰も助けてくれませんでしたわ。でもそのとき、ミハエルさまだけが手を差し伸べてくださったの。わたくしを立ち上がらせてすぐにその場を立ち去ってしまわれたけれど………あれが、わたくしの初恋でしたわ」
シェリルはテーブルの上に置かれていた、品の良い小さな箱を青白い手に取り、蓋を開いた。小箱の中には、高価そうな、色鮮やかで宝石のように美しい砂糖菓子が行儀よく並べられている。
「琥珀糖というそうよ。綺麗でしょう? 高貴な方からの頂き物なの。貴重な品だから、特別なお友達のあなたにだけよ?」
うっとりとした表情でディーナに琥珀糖を勧めるシェリルの檸檬色の瞳が、爛々と光るのを目にしたとき。
ディーナは目隠しをされていた紗がさらりと取り払われたような気がした。
(ああ………!)
ディーナは目を強く閉じ、膝上で握りしめた両手に力を込めた。
肌に爪が食い込むほどに。
(見つけたわ。なくしていたものを)
欠け落ちていた前世の記憶が、温いまどろみを切り裂くように鮮烈に蘇る。
王宮を訪れたディーナと偶然のように鉢合わせた、キャンディピンクの髪の令嬢。話したことはなかったけれど、この特徴的な髪の色は、幾度かミハエルの側にいるのを見かけた覚えがある。
『見事な青薔薇の庭園があると聞いて登城のついでに探そうとしたが、道に迷ってしまった』と彼女は困り顔で言った。ディーナは青薔薇のことは知らなかったが、聞けば一般に開放されている区域であることが分かったので、道案内をしたのだ。
見事な青薔薇に目を奪われたあと、案内のお礼にと差し出された宝石のような砂糖菓子。
檸檬色の瞳が妖しく嗤った。
『おひとついかが?』
ディーナは静かに目を開いた。
シェリルの顔が、今までとはまるで違うものに見えた。
いつ、道を違えてしまったのかはわからない。
しかしすでに目の前にあるのは、友情とは無縁の感情だった。
「こんなに綺麗な食べ物を粗末に扱うのは感心しませんね」
「………え?」
ディーナは宝石のような琥珀糖をちらりと見てから、首を傾げたシェリルを真正面から見つめる。
これがおそらく、訣別の言葉になるだろう。
「『真昼の悪夢』、ですか?」
庭園の片隅では、蕾をつけた青薔薇が、咲くべき季節を待ち焦がれていた。