41.空色の姫君
オスカーの父、クリストフ視点。
火の公爵家現当主クリストフは、王宮にある火の公爵家の執務室で領地から上がってくる報告書に目を通していた。
治めている街を繋ぐ街道に魔獣が現れ、橋の一部が損傷し、通行に支障が出ている場所があるらしい。早急に復旧が必要だという嘆願を見て決裁印を押しながら、悩ましいため息を吐く。
魔獣の被害は物理的に、そして精神的に、じわじわと国を蝕み始めている。
一人息子であり火の祝福者であるオスカーは、今日も魔獣の討伐に駆り出されて不在だった。
近年、顕著に産まれる数を減らしている祝福者は、負わなければならない責任も重くなりがちだ。水の公爵家と地の公爵家にも祝福者はいるが、生死を懸けた戦場へ出ることが可能な年齢の者は、現在オスカー唯一人。
クリストフは火の公爵家の当主だが、祝福者ではない。
幼い頃より重い責務を課せられる息子にもどかしい思いをしたことも一度や二度ではなかった。
しかし………。
書類から手を離し、クリストフは先日オスカーに聞かされた話を思い返した。
オスカーは祝福者という特別な立場から、幼いころから王宮へ上がる機会も多かった。
十歳のころ、周囲に比べ大人びたところのある子供だったが、その日王宮の庭園からこの執務室へ戻ってきたオスカーは頬を上気させ、子供らしく、どこか呆けたような顔をしていた。
そして驚いたことに、瞳までが紅かった。
「オスカー? 王宮内で精霊力を使ったのかい?」
もしや何かあったのではと危惧するクリストフに、オスカーはあわてて首を振った。
「いいえ! 精霊たちがいたずらをしたのです。なにも危ないことはありませんでした」
「危険がなかったのならよかった。ところで、いたずらとはなんだい?」
「その、空色の姫が………」
「『空色の姫』?」
言い淀んで俯いたオスカーは耳まで赤く染まっていた。
クリストフは、一人息子になにが起こったのか、わかったような気がした。
「名前を聞かなかったのかい?」
ひっそりと微笑みを浮かべたクリストフの問いにがばりと顔を上げたオスカーは、あわてて首を振った。精霊の耳環がシャラシャラと忙しなく揺れる。
「私の助けが必要かい?」
続けた言葉にオスカーは少しだけ逡巡し、やはり首を振った。今度はゆっくりと。
「いいえ。いずれ、自分で探します」
オスカーはそれ以上『空色の姫』について詳しく話すことはなかった。
クリストフは、オスカーには内密に、その日王宮にいた『姫君』にあたる人物について少しだけ調べてみた。しかし『空色』が髪色なのか、瞳の色なのか、ドレスの色なのかも定かではない。結局それらしい人物を見つけ出すことはできなかった。
数年して、徐々に具体的な縁談が舞い込み始めたとき、オスカーは「空色の姫君が見つかるまで待って欲しい」とクリストフに願った。すでに記憶から薄れていたその呼び名を久しぶりに耳にしたクリストフは驚いたが、オスカーの意思を尊重することにした。
オスカーはクリストフにとってただひとりの嫡子で、次代に血を繋ぐために、早い時期の婚姻が望ましいのは確かだ。
しかし、オスカーと『姫君』が出会ったとき、『精霊のいたずら』があったとも聞いた。
オスカーは火の祝福者である。ふたりの縁は、精霊が結んだものである可能性も考えられる。
そしてなにより、クリストフは愛する息子の幸せを心から望んでいた。
ほんの短い逢瀬であったはずの『空色の姫君』を一途に思い続けるオスカーを、見守りたいと思ったのだ。
そして、最初の出会いから十年が経った今。オスカーが階段から落ちた辺境伯令嬢を庇い、負傷するという出来事があった。
その令嬢が澄んだ空色の瞳を持つ少女であることに気づいたとき、クリストフは驚くと同時に嬉しかった。
オスカーはとうとう見つけたのだと。
あとはオスカーの口から、彼女を娶りたいという言葉が出るのを待つだけだと思った。
とはいえ、彼らの道行はそれほど平坦なものではないらしい。
身分の釣合も支障はなく、さらには大夜会の日に賊の手からオスカーを救ったのは彼の令嬢であったと聞かされれば、否やがあろうはずもない。
しかし皮肉なことに、その件でよからぬところに目をつけられた彼女は、命の危険に晒されているようだ。
彼女が階段から足を踏み外したと言われている出来事さえ、実は何者かの悪意の所業であったと聞かされ、未来の娘になんということをしてくれたのかとクリストフは憤慨した。
先日、「空色の姫君が見つかったのか」と尋ねたとき、クリストフはからかい半分の気持ちであって、本当のことを聞き出そうとしていたわけではなかった。
階段の事件でクリストフはすでにディーナの存在を認知しており、それをどう切り出すかはオスカーのタイミングに委ねていたからだ。
しかし、クリストフのからかいを好機と見たのか、オスカーはクリストフにいくつかの願い事を申し出た。
『階段で辺境伯令嬢を突き落としたのは誰なのか』。
『大夜会で使用された真昼の悪夢の入手ルートの調査』。
『風の公爵家の内情』。
そして追加で、『第四王女殿下の婚約破棄を知っている人間のリストアップ』と、『ミハエル・エーデルシュタインの使用する香水の詳細』。
オスカーはその意図を詳しく語らなかったが、可能な限り調べるとクリストフは約束した。
『真昼の悪夢』についてはそもそも調べを進めていたので、確実に情報は集まっている。ウラの商人の絡むルートのようだが、わずかに風の公爵家との繋がりが見え隠れする。真昼の悪夢についての取引があった証拠は出ていないが、グレーゾーンといったところだ。
そして、香水の件もある。
(オスカーは、風の公爵家に目を向けているのか………?)
ヴァールハイト家にとっての政敵はエーデルシュタイン家だけというわけではない。しかし、エーデルシュタイン家が鬱陶しいのは確かだ。
(ローデリヒ………面倒な男だからなあ………)
苦い笑いが顔に浮かぶ。
クリストフは、ローデリヒ・エーデルシュタインが心底苦手だった。
クリストフは火の公爵家当主という国の中枢を担う人物でありながら、権力欲を持たず、政治の汚濁を厭み、家で妻とのんびりお茶を飲んでいることが何よりの楽しみだという、極めて平和主義の人物だ。
政治手腕がないわけではないが、得意なわけでもない。
なので、一見そうでもない素振りで、実は権力欲と支配欲の塊というローデリヒのような人物の相手をしなければならないのが心底煩わしかった。
可能なら、さっさとオスカーに家督を譲ってしまいたいと思っている。
扉をノックする音が響いた。招き入れると、配下の者が入室してくる。
「旦那様、お耳に入れたいことが」
「なんだい?」
ひっそりともたらされた凶報に、クリストフは難しい顔で腕組みをする。
―――大夜会で捕縛された賊が、収監されていた牢獄で不審死を遂げた。
(王宮の牢獄に手を伸ばせる者、か)
「影を追加で二人、『風』の中に潜り込ませなさい」
「なにをお探しですか」
「すべてだよ。どんなつまらないことでも。ああ、ついでだから、ローデリヒの嫌いな食べ物も調べておいてくれないか」
「畏まりまして」
配下の者は真面目な顔で礼をし、部屋を去る。
足音ひとつなく。
面倒なことはまったく好まないが、可愛いが可愛げのないしっかり者の息子が、めずらしく父を頼ってくれたのだ。
それも、幼く一途な初恋を成就させるために。
恰好悪いところは見せられないではないか。
クリストフは、オスカーによく似た色の瞳に楽しげな笑みをひとつ浮かべてから、再び執務机に積まれた書類の束に手を伸ばした。
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