39.白紙の未来
オスカー視点。
神聖な火の精霊の日に国の中枢たる王都で魔獣の出現が確認されたことは、長く平穏に慣れ切った民心を震撼させた。
そしてその襲撃が号砲であったかのように、各地で魔獣が頻繁に出現するようになった。人的被害も無視できないものとなっており、民衆の不安と不満は日増しに高まっている。
これまでガイスト王国が魔獣の脅威から無縁でいられたのは、精霊の加護のおかげであると信じられていた。
それだけに今回の騒動は、精霊の加護が何らかの理由で失われてしまったためであり、その非は四大公爵家にあるのではないかという声が一部で囁かれ始めている。
国勢の不安定を嗅ぎ取った諸外国の動向にも気を配る必要があり、国の中枢はにわかに緊張の兆しを見せていた。
四大公爵家は事態の対応に追われるようになり、中でも火の公爵家は、火の精霊の日当日に行われた儀式に不審な点がなかったかの調査も加わり、多忙を極めることとなった。
******
四大公爵家はその地位の重要性から、王宮内に執務室を与えられている。
オスカーも父とともに連日王宮にある火の執務室に詰めており、各地から上がってくる魔獣被害についての報告を受け、王都近隣で魔獣が出現した場合には、祝福者の責務として討伐隊に加わることもある。
様々なことに忙殺され、ディーナの顔を見に行く時間さえ取れないでいる。
オスカーは読み終わった書類をテーブルに置くと、深いため息を漏らした。
(顔が見たい。声を聞きたい。それから………)
ディーナとオスカーが互いに真実を知った日から二週間ほどの時が流れた。
長い話のあとで、まだ体調が万全とは言えない彼女を休ませ、夜明けとともに辺境伯邸を辞した。
今は彼女の体調も問題なく回復し、日々恙なく過ごしているという報告は受けている。
今のところ、彼女の周囲に不審な動きは見られない。
これまでの回帰の中で、ディーナが辺境伯邸の中で亡くなったことは一度もない。だから、彼女が自宅を出ずに過ごしていればオスカーも少しは安心できた。
しかし、彼女の死はいつも思いがけないところから訪れる。今まで何もなかったからといって、これからも大丈夫だという保証はどこにもないのだ。
あの夏至祭の夜、涙に潤んだ空色の瞳の美しさはあまりにも鮮やかだった。
彼女の冷たい身体に何度も絶望を味わったオスカーにとって、温もりを持ったディーナを抱きしめることはこの上ない喜びだった。
微熱のため常より少し高かった体温も、彼女から立ち上る甘やかな香りも。
赦しを与える優しい口づけも。
すべてが、途方もなく幸せだった。
オスカーは、彼女が回帰する前の記憶をどこまで鮮明に持っているのか、まだ聞けていない。あの様子ならば、最期の瞬間をはっきりと覚えているに違いない。
彼女の穢れのない身体に、そして健やかな精神に、どれほどの苦痛を与えてしまっただろう。
思い返す度、あまりの業の深さに気が触れそうになる。
それでもディーナは、一緒に戦うと言ってくれた。
―――あなたが好きです。
想いを込めた温かな声が、ひび割れ壊れた心に慈雨のように染み込み、すべてを掬い上げてくれた。
永劫に続くかのような煉獄のなかで、ディーナの命の輝きだけがオスカーのゆるぎない標だった。そして愚かしい執着のすべてを知ってなお、一緒に生きたいと彼女は言ってくれた。
オスカーに赦しを与えられる、ただひとりの女性。
ただひとりの女神。
(翼を広げ、真白い未来を羽ばたく貴女が見たい)
それが最初から変わらない、オスカーの願いだった。
「誰のことを考えているんだい?」
ふいにかけられた声に少し驚いて顔を上げる。
マホガニー製の重厚な執務机で書類をさばきながら、オスカーの父であるクリストフが興味深そうにオスカーの様子を伺っていた。
「………申し訳ありません。仕事の手が止まっていました」
「構わないよ。私もそろそろ書類の山にうんざりしていたところだ。少し休憩しよう」
クリストフは執事にお茶の用意を指示した。執務机から離れ、長椅子に深く腰掛ける。そして対面に座ったオスカーに意味深に笑いかけた。
「『空色の姫君』、かな?」
「えっ⁉」
思ってもみなかった言葉に、オスカーの声がひっくり返る。
その呼び名はオスカーの心の中だけのものとして、もう何年も口に出していないはずだった。
思考を見透かしたようなクリストフの言動に、動揺を隠しきれない。
「ふふ、君は『彼女』のことを考えているときは、いつもそんな顔をしているよ。とても幸せそうな顔をね。十歳のときからずっとだ」
クリストフは、ひとり息子のめずらしくあわてた様子を興味深そうに見ている。
そんなにわかりやすいのか、自分は。
ばつが悪くて、オスカーは顔を顰めた。
「それで? 思い出の『姫君』がとうとう見つかったのかい?」
問われて、オスカーは一瞬押し黙った。
クリストフの言葉は、休憩中のただの雑談に過ぎない。
追及する意図はなく、「秘密です」とでも言えば「そうか」で終わってしまうような話だ。
しかし。
オスカーはしばし考え込む。
『精霊王の聖剣』の存在は秘匿事項だ。肉親であっても、そして火の公爵家の当主であったとしても、明かすことはできない。
わずかな口伝すら残っていないのだから、そういうことなのだろう。
これまでオスカーは、ひとりでディーナを救おうともがいてきた。
それが聖剣を与えられた者の役割であり、受け入れなければならない試練だと思っていたからだ。
だから、これに関して今までクリストフに協力を仰いだことは一度もなかった。
しかし今回は色々なことがイレギュラーに起こっている。
最たるものは、ディーナが回帰していることだ。
ディーナは聖剣の所有者ではないが、オスカーの定めた半身であり、図らずも聖剣が光っているときに心臓を刺されたことで、変則的に回帰を果たしたのだろう。
彼女が回帰の記憶をもとに行動を起こしたことで起きた大きな変化がいくつかある。
アレクシア・イーリスと出会い、手鏡の呪具を潰せたこともそのひとつであるし、なにより、彼女が回帰にまつわる事情を理解したことで、今後情報を共有し、積極的に危険を回避することも可能になった。
そして、なぜか回帰を重ねるたびに変化を見せる魔獣の活動が、今回著しい変化を見せていることも見逃せない。やはり魔獣の問題は、回帰になにかしらの関係があると思って間違いないだろう。
それがまだ、どのように繋がってくるのかは見えていないが………。
(これは、チャンスかもしれない)
それは最大の。もしくは最後の。
オスカーは顔を上げ、クリストフを見つめた。
「『姫君』が見つかったといったら、いかがなさいますか?」
「………なんと」
クリストフは紅茶を飲む手を止めてオスカーをまじまじと見た。
始めはからかいを含めた愉快そうな表情を浮かべたが、思いのほかオスカーの顔が真剣であることに気づき、表情をあらためる。
「なにか、話があるようだね?」
「はい。父上、お願いしたいことがあります」
オスカーは姿勢を正し、迫りくる運命を今度こそ打ち破るために、あらゆる手を尽くそうと己に誓った。
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