38.罪の名前2
ディーナの目から涙が溢れ、幾筋も流れ落ちる。
なぜその矛盾に少しも気づかなかったのだろう。
あのとき、オスカーが庭園を訪れディーナのもとへたどり着くよりも前に、ディーナは死にかけていたのに。
―――彼以外の、『他の誰か』に刺されて。
しかしオスカーは俯いて首を振った。黒髪がさらさらと揺れる。
「とどめを刺したのは、間違いなく僕です。僕が貴女の元へたどり着いたときはすでに聖剣の刀身が光っていて、死は避けられませんでした。苦しみを、長引かせたくなかった。………いや、言い訳ですね。僕が、それ以上貴女が苦しむ姿に耐えられませんでした」
ゆるゆると顔を上げディーナを見たオスカーは、不思議とどこか笑っているようにも見えた。
しかし彼の目の中に揺れているのは、奪われ、失い、足掻き、届かず、打ちのめされ、打ちひしがれ、それでも諦めることを己に許さなかった者の深い孤独。
途方もない道行きの果てに宿った、ある種の狂気だった。
「どの回帰でも、いつも怯えていました。いつ、聖剣の刀身が青白く光りだすのかと。繰り返す生の中で、何度も貴女の死を見ました。何度も、貴女の冷たい亡骸をこの腕に抱きました。けれど……あのとき、まだ息のある貴女が、僕の腕の中で苦しそうにもがいて、血を、たくさん吐いて………っ、だから」
―――楽に、してあげたくて。
聞き取れないほど掠れた小さな声で。
拭えない罪を告白するように、オスカーは呟いた。
高ぶった感情を鎮めるように何度か震える息を整え、また言葉を続ける。
「聖剣を使って巻き戻るのはいつも、水の精霊の日の、王宮の大夜会が終わった翌日です。今回も同じ。だから、大夜会で貴女に助けられたのは、まだ『何も知らない僕』です。でも翌日、いつものように回帰したとき、今までと異なった流れになっていることに気づきました。今まではデビュタントの貴女をダンスに誘っていたのに、今回はホールで貴女と顔を合わせなかった。それに、あんな襲撃事件が起こったのも初めてです。なにかが、おかしいと感じていました」
オスカーが顔を上げ淡い苦笑いを浮かべた。
「でも、今ならわかります。あのときすでに、貴女は巻き戻っていたのですね。そして、意図的に僕を避けた。そのことで因果が変わり、事象に変化が生まれたのでしょう。貴女は『いつ』に巻き戻ったのですか?」
「今年の、一月です」
「………不思議ですね。ずいぶんと前だ。僕は、巻き戻った直後はかなりの高熱を出すのですが、貴女は大丈夫でしたか?」
「わたしも出ました。やはりあの熱は、巻き戻りと関係があるものだったのですね」
「申し訳ありません。辛い思いをさせて。それも、僕の所為ですね………」
あれは巻き戻りの副作用のようなものらしい。
そういえば、オスカーも大夜会のあと数日間臥せっていたのだったと思い出した。
彼が体調を崩していたのは『真昼の悪夢』の所為ばかりではなかったのだ。
「僕が手放しさえすれば貴女が死ぬことはないのかもしれないと、試してみたこともありました。けれど出会わないように立ち回っても、行きつく結果は変わらなかった。だから僕はそれを言い訳に………貴女の側から離れずに、足掻き続けました」
オスカーの手の中にあった聖剣が、部屋の薄闇に溶けるように消える。
呻きながら、オスカーは両手で青褪めた顔を覆った。
「………こんな感情は、貴女にとって毒でしかない。執着、強欲、妄言………。でも、どれほど己を詰り蔑み否定しても………っ、僕の中から貴女へ向かう感情を消すことができない………!」
「オスカー………」
「あのときから、貴女を刺した感触がずっと消えないのです。きっとこれは、罰だ。………貴女を本当の意味で殺し続けているのは、間違いなく僕です。僕は、精霊の化身などではありません。貴女に死をもたらす、呪いそのものだ」
精霊の加護を映した瞳を閉じて微笑み、オスカーは深く頭を下げた。
「………貴女を護り切ることができたら、今度こそ、貴女を、この呪われた手から解放します。………………これが………僕の話の、すべてです」
話を聞き終えたディーナは、胸に手を当て長く息を吐いた。
(ああ………こんなことって………)
前世の、そして現世のオスカーを思い返す。
彼に殺されたのだと思い込んで曇っていた目をぎゅうっと閉じた。
いったい自分は何を見ていたのだろう。
罪があるとすればそれは、彼をこんな救いのない地獄へ叩き落とした自分にこそある。
どうしたら報いることができるだろう。
彼の、痛ましく狂おしいほどの献身に。
ディーナは、たったひとつの傷痕しか持っていない。
繰り返し訪れる絶望の中で彼が精神から欠いていったものを埋めるには、あまりにも足りないものが多すぎる。
しかしそれでも、彼の空虚を埋めるものがディーナしかないのであれば。
(オスカー………。あなたに、わたしの心の、魂のすべてを)
それが償いであり。
ディーナの喜びでもあるから。
ディーナは寝台から身を起こすと、顔を覆ったままのオスカーの身体をそっと抱きしめた。
震えていたオスカーが顔を上げる。
「………ディーナ………?」
「わたしは前回しか覚えていませんが、オスカーは覚えていらっしゃるのでしょう? 前々回も、その前も、さらにその前もずっと。すべてのわたしを、見ていらしたのでしょう? わたしがいつも、あなたの側にいることを選ぶということを。あなたがわたしを殺したのだと思い込み、憎むべき理由があった今回でさえも」
オスカーが頭を起こしてディーナを見つめた。刻々と色を変える精霊眼が痛いほどの悲しみを抱えてディーナを見上げている。
(ああ、この色だ………)
幼い日、王宮で見た、命の輝きそのもののような美しい紅。
ずっと見つめていたいと心躍ったあの瞬間。
あの日と同じように、両手でオスカーの頬を包む。
「あなたと運命が結ばれているのは、強制されたものなどではありません。わたし自身の意思なのです。わたしが、あなたとともにいたいから。あなたの隣を歩く未来を手放せないから。受け入れなければ………、いいえ、戦わなければいけない運命だったんです。だから決して、あなたの所為などではありません」
ディーナはきっぱりと言い切った。
「わたしが間違えていたんです。断片的な記憶しか思い出せず、あなたに裏切られたのだとひどい思い違いをしていました。愚かなわたしを、赦してくださいますか?」
「赦すだなんて。僕の方がどれほど………」
「オスカー」
ディーナはオスカーの目を真っ直ぐに見た。
嘘偽りなく、伝わるように。
「あなたが好きです」
言われたことがすぐには飲み込めなかったオスカーは呆けた表情をしたが、意味を理解すると耳にした言葉が信じられないように大きく目を見開いた。
きっと、どのときのディーナも彼に恋をせずにはいられなかった。
どんな風に出会っても。どんな風に過ごしても。
オスカーの存在は、時間と共にディーナの中で大きく育ってしまうに違いない。
もう、彼だけに苦しい思いをさせない。
これは他でもなく、ディーナに課せられた運命なのだ。
ならば、自分の手で勝ち取らなければ。
「人間であるならば、永遠に生き続けるのは無理です。どんなにあがいても、いずれは終わりがやってきます。でも、それは今じゃない。理不尽に手折られるのはわたしも納得がいきません。………だから、一緒に戦ってくださいますか? わたしと一緒に、生きて、くださいますか?」
オスカーの目から、透き通った雫が零れた。
魅入られたようにディーナを見つめたまま、音もなく零れ続ける涙は、まるで紅い宝石から透明な宝石が生み出されているようだ。
ディーナが零れ落ちる宝石を掬い取るように唇を寄せた。
オスカーが驚いて瞬くと、また雫がほろほろと落ちる。
ふたりの視線が合うと、どちらともなく近づき、わずかに唇が触れ、離れた。
しかし焦点が合わないほどにしか離れず、またすぐに重なる。
不安は去り、ディーナの心はただ、オスカーを愛おしいという気持ちだけで満たされた。
ふたりが静かに身体を離すと、オスカーの目は潤んでいたが、もう涙はなかった。
ディーナが安心したように笑い、オスカーもつられてやわらかく微笑む。
大きな手がもう一度ディーナの身体をそっと包み込んだ。
分け合う熱と香りが、ふたりの心をやわらかく満たす。
「ずっと………貴女が恋しかった………。貴女だけが、僕の生きる理由です。………愛しています。僕の女神」




