37.罪の名前1
水底から泡沫が浮かび上がるように、ディーナの意識がゆっくりと引き上げられる。
遠い日の夢を見ていた。
あんなに鮮烈な出来事だったのに、どうして思い出せずにいたのだろう。固く閉じられていた蕾がほころぶように、大切な記憶が鮮やかに花開いた。
優しいまどろみから引き戻されると、あたりは暗くて、静かだった。
ゆっくり二度、瞬きをする。見慣れた天井が目に映り、自分の部屋にいるのだとわかって小さく安堵の息を零した。
人の気配を感じて寝台の横を見ると、そこには俯いたオスカーの姿があった。
跪き、悄然と項垂れて、組んだ両手に額を押し当てている様子は、祈りを捧げているようにも、懺悔をしているようにも見える。
夢に現れた男の子の艶やかな黒髪が目の前にあり、ディーナは微笑んで無意識に手を伸ばした。
指先が少し触れただけで、オスカーは弾かれたように顔を上げた。
「ディーナ………! 気分はどうです? 痛むところはありますか⁉」
矢継ぎ早の質問に気圧され、思わず目を瞬く。
未だ夢見心地のディーナは、いつもよりはっきりしない頭で少し考えたあと、ゆるゆると首を振った。
「いいえ、どこも。夢を見ていたせいか、なんだかぼんやりして………。あれから、どれくらいの時間が経ちましたか?」
「………五、六時間といったところでしょうか。今は、真夜中を過ぎたあたりです。治癒は済んでいますが、少し熱があるようです。精神的な疲労の影響も大きいですから、休息が必要だと治癒者が話していました。もう少し、眠ったほうがいい」
「いえ……大丈夫です。お水を少し、いただきたいのですが………」
「これは、気づかずにすみません」
オスカーがグラスに水を注ぎ、ディーナに差し出した。支えられながら少しずつ飲むと、ゆっくりと眠気が引いていく。
ディーナの部屋で深夜にオスカーひとりだけで付き添っているのが不思議だったが、おそらくノルベルトが許可したのだろう。
ひどく気づかわしげにディーナを見つめるオスカーに、あらためて感謝を伝える。
「助けていただいて、ありがとうございました。オスカーに、お怪我はなかったのでしょうか」
「問題ありません。それよりも………貴女が意識を失ったのは、僕の無体の所為です。………それに、女性である貴女にひどく無礼な真似まで………本当に申し訳ありませんでした」
オスカーは寝台の脇で跪き、ディーナに深く頭を下げた。
やはり、最後の締め上げがとどめとなりディーナの意識が落ちてしまったことに責任を感じているようだ。そして、不埒な意図がなかったとはいえ、ブラウスのボタンを外したことについても。
(確かに驚いたけれど………ボタンふたつ分だけだったし………たぶん、大丈夫。ええ、きっと)
あのとき、ディーナは溺れた直後ですでに朦朧としていたし、オスカーも普通とは言えない状態だったようなので、色々仕方なかったと思う。
そしてディーナ自身、オスカーを正気付かせるための苦肉の策として彼の耳に嚙みついたことを思い出し、今になって顔が赤くなった。
(わ、わたしもとんでもないことを………。だって仕方ないじゃない! ぎゅうぎゅうに抱きしめられて、押しのける体力も残っていなかったのだもの!)
心の中で自分自身に必死に言い訳し、その滑稽さにますます顔が赤くなる。
頬の熱を散らすように、少しあわてて首を振った。
「あのときは衰弱していましたし、オスカーの所為ばかりではありません。あまり気になさらないでください。そもそもあなたがいなければ、わたしは確実に溺れ死んでいたのですから」
ディーナは落ち着くようにひとつ深呼吸をしてから、着ている夜着の上から胸の真ん中を手で押さえた。そして表情を改める。
彼に、どうしても聞かねばならないことがあった。
「それよりも。………オスカー、これについて、お聞きしてもよろしいですか」
眠っている間に着替えさせられたのだろう。今は着ているものに覆われて見えはしなかったが、それが何を指した言葉であるのかは明白だった。
オスカーは青ざめ硬直していたが、ディーナのゆるぎない表情を見ると、やがて諦めたように息をつき、重い口を開いた。
「長い、話になります。途中で疲れたら遠慮無く言ってください。すぐに中断しますし、いつでも続きを話しますから。貴女の体調を優先してください。いいですね?」
「わかりました」
ディーナはしっかりと頷く。
オスカーはディーナが無理をするのではないかと少し疑っている様子だったが、それ以上はなにも言わなかった。
寝台横に用意されていた椅子に深く腰かけ、オスカーはディーナの目を真っ直ぐに見つめた。
榛色の目を一度閉じ、再びゆっくりと開く。
そこには彼の強い想いが宿っていた。
遠い日に魅入られた、ディーナがこの世で最も美しいと思う紅い瞳だった。
薄暗い部屋の中で、ただひとつの燈火のように強い光を放っている。
「この部屋に、一時的に防音の術を敷きました。………これから話すことは、創世の神話と、精霊と、祝福者にまつわる秘蹟です。王族や四大公爵家でさえ知る者はいません。けれど………貴女には、聞く権利があると思います」
(創世の神話?)
思ってもみなかった話の出だしに驚くディーナの目の前で、オスカーは宙に手をかざした。
なにもなかったはずの空間に、音もなく一振りの見事な長剣が現れる。
しかし驚きはそこでとどまらず、銀色に輝く長剣は見る間に長さを縮め、見覚えのある短剣の姿に変わった。
ディーナは前世で自分の胸を貫いた短剣に、引き込まれるように目を奪われる。
「貴女は………これに、見覚えがあるのですね」
オスカーは短剣に視線を注ぐディーナを見つめ、想像だにしなかった物語を静かに語り始めた。
「これは、精霊王の力が宿った剣です。この剣に特別な銘があるのかどうかは、僕も知りません。だから僕はただ『聖剣』と呼んでいます」
「精霊王の、聖剣………?」
精霊王は、原初の女神の代行者であると神話に記されている。
この世界をお創りになった原初の女神より、女神の手を離れた後の世界を育み繫栄させる使命を託された、すべての精霊を統べる存在だ。
オスカーに加護を与える火の精霊も、そして水や風や地の精霊たちも、精霊王に仕えていると言われる。
「これは『火の祝福者』の『半身』とされる者が理から外れ歪められた死の運命に捕らわれたとき、その死の運命を断つために存在する剣です。貴女が最初に僕の前で命を落としたときに、この聖剣は僕の手の中に現れました。その瞬間、叡智が流れ込み、僕は理解させられた。これが『何』なのか。そしてどう使うのかも」
感情の抑えられた単調な声は、意識的なものなのか。不穏な予感が背を走るのを感じた。
オスカーが剣を持った手とは逆の手で、自分の胸元を鷲掴む。
「この聖剣で所有者が自らの心臓を貫くと、やり直すべき時まで、時間が巻き戻るのです」
精霊王の聖剣。
火の祝福者の『半身』。
ディーナが最初に死んだとき。
上手く話が飲み込めない。
しかし今、オスカーは聞き逃してはならないことを言わなかったか。
『巻き戻る』。
そして、『心臓を貫く』。
覚えのある言葉に、ディーナは戦慄する。
「半身は、伴侶と言い換えてもいい。この聖剣の存在は、王家や公爵家に伝わる禁書や文献、口伝にすら記されていません。これを受け取る祝福者のみがその存在を識り、そして否応なしに理解させられる。………聖剣が顕現したと言うことはすなわち、所有者の半身は近い将来、天寿以外の理由で命を失う運命にあるという証となります。そしてその死を覆すためにこそ、この聖剣は存在する」
オスカーは一度言葉を切り、苦しげに顔を歪めた。
「僕の半身は………貴女です。ディーナ」
魔術灯の灯りが一瞬揺れた。
「貴女を失いたくない。………けれど、どうしても、何度やり直しても………貴女は死に呑まれてしまう。刺客に襲われることも、偶然の馬車の事故に巻き込まれることもあった。あるときは何者かに階段から落とされ、別のときには劇場の火災に巻き込まれ、見知らぬ人間を救おうとしたせいで貴女は助からなかった」
ディーナは、劇場での観劇を控えろという伝言を思い出し、はっと息を呑んだ。
「………夏至祭の古道具屋で見た手鏡の呪具も、婉曲的に貴女を死に追いやったことがある。運命はあらゆる方法で貴女に牙を向けました。原因や犯人がはっきりしていれば、次の回帰で避けられるものはあります。しかし、物事の因果は複雑で………僕が手を出すごとに形を変え、一筋縄ではいきませんでした。そして結局最後には………」
オスカーは項垂れて頭を抱えると長い指で黒髪をかきむしり、血を吐くように叫んだ。
「貴女を、最後に殺す者がわからないんです。おそらく貴女は何度も、同じ相手に殺されています。いくつもの死の分岐をかいくぐってどうにかそこへたどり着いても、僕はいつも貴女を失ってしまう!」
そして虚ろな声が、聖なる剣の残酷な真実を語る。
「その回帰で貴女の死が確定すると、聖剣の刀身が青白く輝きます。そうなればもう、死を覆すことはできない。巻き戻すしかなくなるのです。刀身の光が失われないうちに聖剣を使わないと、時間を巻き戻すことが不可能になる。奇跡も、万能ではないのです。だからいつも………僕には、真相を探る時間の猶予が、ほとんどない」
聖剣を使うというオスカーの言葉を、ディーナは信じられない思いで聞いていた。
それは、オスカー自身が自分の心臓を聖剣で突いて、命を絶つという意味ではないのか。
語られる話の壮絶さに、目が眩む思いがする。
ディーナは聖剣が自分の胸に沈められたときのことをまざまざと思い出していた。痛みは覚えていなかったが、それはあのときのディーナがすでに死に瀕していたからだ。たとえ奇跡の剣であっても、突けば死に至る苦痛を伴うだろう。
オスカーの胸の傷痕は、ひとつやふたつなどの生易しいものではなかった。
傷痕は、大輪の薔薇のようだったではないか。
何度も、何度も、何度も。
繰り返し、命を擲ったというのだろうか。
ディーナを救うために。
ただ、それだけのために。
………それでは。
「………あなたが、わたしを殺したのではなかった………?」




