35.薔薇色の聖痕
苦しい。
必死に息を吸い込もうとするのに、何かがつかえて空気が通らない。
喉を掻きむしって咳き込み、身体を捩って悶絶する。
救いを求めて闇の中に手を伸ばすと、触れたなにかに強い力で握り返された。
今にも失われそうなものを、無理矢理繋ぎ止めるような切実さで。
「……ーナ! ディーナッ!」
誰かが、気も狂わんばかりの悲痛な声でディーナの名を叫んでいる。
それがオスカーの声だと気づくのに、そう時間はかからなかった。
「ディーナ! しっかりしてください! 息を吸って!」
オスカーの声に叱咤され、ぐらつく意識が緩慢に動き出す。
おぼろげながら自分が溺れたことを思い出し、呼吸がままならない理由を理解する。
脈打つような頭痛と、ひどい吐き気がした。咳き込み、喉につかえた水を吐き出しながら、荒い呼吸で身体が要求する空気をどうにか取り込んでいく。
「オ………ど…う……ゴホッ」
「無理にしゃべらないでください! 呼吸を落ち着かせることに集中して。………そう、ゆっくり………」
乱れた呼吸を整える間、オスカーは真剣な様子でディーナの背を擦り続ける。
少しずつ咳が鎮まり、なんとか呼吸が落ち着いたものになると、オスカーは握っていたディーナの手を額に押し頂き、掠れるような小声で呟いた。
「……ああ……どうなることかと………」
絞り出すような声も、ディーナの手を握る大きな手も、怯える子供のように震えている。ディーナは力の入らない手に少しだけ力を込めて、オスカーの手を握り返す。
「………貴女は、子供の身代わりに川に落ちて溺れたのです。心臓は動いていましたが、呼吸は止まっていました。処置が間に合ったからよかったものの、本当に貴女は………。貴女はいつもそうやって、誰かのために………っ!」
オスカーは苦しげに言葉を切ってディーナの手を引き、ぐっと抱き寄せた。
熱い空気が全身を包みこみ、ディーナの髪がふわりと持ち上がり、水を含んで身体にまとわりついていた服が軽くなった。オスカーが身体を離すと、一瞬前までずぶ濡れだったふたりの髪も服もからりと乾いている。
精霊力を使って水気を飛ばしてくれたのだとわかった。
オスカーの出した炎で自分たちの周りは照らされていたが、すでに陽は落ち、景色は闇に沈んでいた。
周囲に目をやると、ディーナは川岸から少し離れた場所に寝かされていたことに気づく。
川の水が勢いよく流れる音が、絶えず聞こえている。
どれほど流されたのだろう。
ディーナはオスカーに視線を戻し、まだ回らない口で、真っ先に伝えなければならない言葉を紡いだ。
「ご、めんなさ、い………」
ディーナが川へ落ちる瞬間に聞いたのは、確かにオスカーの声だった。
彼は溺れるディーナを救うために、後を追って増水した川へ身を投じたのだ。
この急流の中、意識のない人間を抱えて岸へたどり着くのは、たとえ祝福者であっても命がけだっただろう。
オスカーには、自分の身を護ることを優先しろと言われていたのに。
罪悪感で押しつぶされてしまいそうだった。
小さく咳き込み、つかえながら詫びると、オスカーは指先でディーナの唇を軽く押さえて首を振った。
「しゃべらないで。ずいぶん消耗しているでしょうから。少し落ち着いたら移動しましょう。ここでは治療もままならない。僕が抱いていきますから、辛ければ眠ってしまっても構いませんよ」
オスカーはディーナの唇から指を離し、労わるように頭を撫でた。
「貴女の助けた子供は無事でしたよ。中型魔獣二体は、僕が倒しました。小型の打ち漏らしがあったかもしれませんが、あとはあの場にいた騎士がどうにかできるでしょう。異変に気付いて何人か騎士が集まってきていましたから。だから貴女はもう、自分のことだけを考えてください」
気がかりだったことを説明してもらい、ディーナは安堵に表情を緩めて頷く。
あらためてオスカーを見ると、上半身に着ている緋色のジレと白いシャツが大きく裂けていることに気づいた。
魔獣との交戦の爪痕だろうと思われたが、出血の痕跡は見られない。
大きな怪我はなかったのだろうとほっとする。
しかし次の瞬間、そこから見えるものに目が吸い寄せられた。
(………?)
最初は、深紅の薔薇の入れ墨のようだと思った。
しかしそれは、薔薇色の傷痕が無数に集まってそのように見えるだけだ。
胸に刻まれた薔薇から今にも血が滴りそうに思えるが、傷に凹凸はなく滑らかなまま。
知っている。
これがどんなものであるのか。
だって。
ディーナは震える手で自分の胸元を押さえた。
落ち着いていたはずの息が、浅く、早くなる。
どうしてか、歯の根が合わない。
考えるよりも先に、前触れなく言葉が零れた。
「オスカー、も、巻き戻って………る………?」
それまで危なげなくディーナを支えていたオスカーの腕が、びくりと大きく揺れた。ゆっくりとディーナに顔を向けた彼が、これ以上ないほど紅い瞳を見開く。
青ざめた顔に浮かぶのは、まぎれもない恐怖。
「な……ぜ…………」
オスカーはあえぐように言葉を発したが、そのあとが続かなかった。
しかしディーナの胸元に目を留める。
「……すみません」
「えっ………」
胸元を抑えていたディーナの手をどけさせると、オスカーはブラウスのボタンをふたつ開いた。ディーナは突然のことに驚いたが、彼の鬼気迫る様子に気を呑まれて動けない。
「………‼」
あらわになった所を目にしたオスカーの顔色が、一層白くなっていく。
恐怖が伝染したようにディーナも顔色を失い、ただオスカーを見返すことしかできない。
痛いほどの沈黙が場を支配する。
ディーナの白い胸の中心に咲く、一枚だけの深紅の花弁のような傷痕。
「………………そんな………嘘だ………………」
オスカーの震える指がディーナの傷痕に触れる。
そして確かめるように指で擦った。
まるで、そうすれば汚れが落ちるとでも信じているかのように。
「だめだ……こんなの……そんなはずない………!」
「……オスカー………」
消えるはずもない傷痕を擦る手に触れ窘めると、オスカーははっとして手を止めた。鈍く光る紅い瞳がディーナを見つめているが、瞳孔が開き、焦点が合っていない。
「こんな………ことが………………ああ………」
呼吸も乱れ、浅い息を繰り返していた。
「…………………僕、が………そう。………僕の、罪だ。……僕の、醜い執着が。貴女を。繰り返し、繰り返し、何度も、何度も………貴女を」
錯乱し、我を失ったオスカーにしがみつくように抱きしめられる。
あまりの腕の強さに呼吸が上手くできない。
溺れるように再び朦朧としだした意識の中で、オスカーの言葉を反芻する。
僕の罪。
それが何を指すかはわからなかったけれど、きっと彼は勘違いをしているとディーナは思う。
(それがあなたの罪なのだとしたら、きっとわたしも……同じ…………)
ディーナは抱き寄せられて目の前にあったオスカーの耳朶に思いきり嚙みついた。
オスカーの身体がビクリと揺れて、締め付けていた腕の力が緩むのを感じる。
けれどそこがもう体力の限界で、ディーナの意識はすとんと落ちてしまった。
最後に、彼があまり責任を感じなければいいなと願いながら。




