31.夏至祭2
(眼鏡⁉)
オスカーが眼鏡をかけている。
彼の目が悪いという話は聞いたことがなかった。
(もしかして、ダテ眼鏡………?)
フレームの薄い眼鏡が彼の気真面目さを際立たせ、かえって禁欲的な色香を漂わせている。
これが変装のつもりであるなら、逆効果であると大声で主張したい。
パリッとした白いシャツに黒のトラウザーズ、そしてディーナと合わせたような緋色のジレとシンプルな装いながら、佇まいだけでこの場にいる誰よりも高貴な存在であるとわかってしまう。
呆けたままオスカーを見ていた自分に気づいてあわてて瞬きすると、どういうわけかオスカーも無言でディーナを見下ろしている。
眼鏡の奥でいつもより少しだけ表情が読みづらいが、目を見開いているのがわかった。
「オスカー? どうしました?」
ディーナが小首を傾げると、オスカーははっと我に返って口元を手で覆った。
横を向いたオスカーの耳に、少し赤みがさしている。
「その………。貴女が、それほどはっきりとした赤を纏っているのを初めて見たので驚いて………」
「あまり似合いませんでしたか? やっぱり髪飾りくらいに抑えておいた方がよかったでしょうか」
「………いえ、とてもよくお似合いですよ。まるで、火の精霊のようです」
『精霊のようだ』というのは、精霊を神聖視するこの国ではかなりの誉め言葉になる。
しかし、いくら女性を褒めることが貴族の一般的なマナーであっても、平凡な容姿のディーナへの賛辞としてはさすがに盛り過ぎだと思う。
「スカートが赤いくらいで大袈裟です。オスカーこそが、火の精霊の化身そのものではありませんか」
赤色など纏わずとも、祝福者である彼こそが神話の体現者に他ならない。
優れた容姿も、圧倒的な精霊力も、知性的で強靭な精神も、彼の在り方すべてが。
貴族も平民もなく、誰もが彼に惹き寄せられてしまう。
しかしオスカーは首を振ってくすりと笑った。
「それこそ大袈裟ですディーナ。祝福者はそこまで気高い存在ではありません。僕も人間らしく、浅ましい私利私欲に塗れていますよ。………さてと、そろそろ移動しましょうか。どこから見に行きたいですか?」
オスカーはさも当然のようにディーナの手を取るとそのままゆっくりと歩き出した。
断る隙もなく繋がれている手に唖然としながら、彼と並んで歩く。
まるで、普通の恋人同士のように。
通りにはたくさんの屋台が並び、呼び込みの声が威勢よく響いている。
どこからか、食欲を刺激する香ばしい匂いや、甘い匂いが鼻をくすぐる。
久々に見る賑々しい祭りの光景に、ディーナも胸が躍った。
「王宮での儀式を済まされてきたのですよね。お疲れではありませんか?」
「型通りのことをするだけですから、どうということもありません。外野が想像するほど大層なものでもないのですよ」
そんなふうにあっさり言ってしまえるのは、彼が当事者であればこそだろうか。
「いいえ。四大公爵家の方々が儀式を通して精霊との絆を結び続けてくださるからこそ、この国も加護を得られているのです。この国に住まうひとりとして、感謝いたします」
ディーナが目礼をすると、オスカーはどこか苦い顔をしてから視線を落とした。
自分の掌を見つめて、独り言のように呟く。
「………。僕などより、貴女の方がよほど………。いや、やはり貴女がこのようなものを負うべきではないな」
強い孤独を湛えた横顔を見上げる。
どれほどのものが、その手に圧し掛かっているのだろう。
社交界にも、彼の生まれを、そして力を、ただ羨み妬むばかりの者もいる。
しかしそのような者たちは、自分の見たいものしか見ようとしないのだ。
(あなたの苦痛と孤独を癒すことができる女性が、早く現れればいい)
少し感傷的になった瞬間、見計らったようにディーナのお腹が「くううぅぅ~~」と鳴った。
空気を読まない自分のお腹に、ディーナは気まずさで顔が真っ赤になるのを自覚した。
「………ごめんなさい。匂いだけで、お腹が空いてきました」
胃の辺りをさわさわ撫でながらディーナが呟くと、目を丸くしたオスカーがあわてて顔を背けた。
だが隠しようもなく、小刻みに肩が揺れている。
しばらくしてようやく顔を戻したオスカーは頬が紅潮し、目じりに少し涙が滲んでいた。
………笑い過ぎである。
「失礼。まずは、なにかお腹に入れられるものを買いましょう。食事系がいいですか? それともデザート系?」
「お昼がまだなので、お食事系が食べたいです。オスカーはもう昼食は済まされましたか?」
「ええ、儀式のあと、王宮で会食するのが決まり事なので。すみません。貴女にも昼食を取ってから外出するように伝えるべきでしたね」
「いいえ。お気遣いはありがたいのですが、屋台の食べ物を楽しみにして、わざと食事を抜いてきたのです。ああ、お肉の焼けるいい匂い!」
ディーナたちは、最初に目についた串焼きの店で、甘辛いタレがたっぷりとかかった串焼肉と素焼きの野菜の串と炭酸果実水を買って、屋台横に設けられた飲食スペースに座った。
炭酸果実水に空腹がしゅわりと刺激されたあと熱々のお肉を頬張ると、香ばしいタレの匂いがふわっと鼻に抜ける。
「美味しい~! お祭りの味がします!」
幸せな味を堪能するディーナを見て、オスカーが楽しげにクスリと笑った。
「お祭りの味という言葉、初めて聞きました。ディーナは王都の夏至祭は初めてですよね? シュネーヴァイス領にも屋台は出るのですか?」
「ええもちろん。田舎ですし、こんなに規模は大きくありませんけど。夏至祭でしか作られない、特産の香草を練り込んだ焼き菓子の屋台があって、それが毎年の楽しみなのです」
「へえ、シュネーヴァイス特産の香草か。興味ありますすね」
オスカーが長い指先で眼鏡のブリッジを押し上げた。
眼鏡は苦し紛れの変装用らしく、もちろんダテ眼鏡で、うっすらと色が入っている。
オスカーは顔だけでなく体型もすらりと整っているので、眼鏡ひとつで美貌が隠しきれるはずもないのだが、精霊眼の発現をあまり人目に晒さないための苦肉の策でもあるらしい。
眼鏡に特別な魔術はかけられていないようなので、期待した効果があるかは甚だ疑問だ。
「柑橘系の果物と紅茶を混ぜたような芳香がするんです。上級ポーションの原料になるような高価な香草ですが、夏至祭のときだけは焼き菓子にたっぷりと練り込んで、カラフルにアイシングをするのがシュネーヴァイス流です」
「上級ポーションの原料⁉ それはまた贅沢というか………」
「だからこそ、夏至祭だけの特別なお菓子なんですよ」
領地のリアムは今頃、その焼き菓子を頬張っているのだろうか。
ディーナは少し遠い目をして果実水を飲み、不安を押し出すように息を吐いた。
「………領にいる弟から手紙が届きました。最近、シュネーヴァイス領の近隣でも中型魔獣の被害が出たそうです」
「確かに、地方の魔獣被害は中央も無視できない規模になっているようです。近いうちに国軍が動くことになると思います」
「そう、ですか………」
国が、魔獣被害は放置できないと判断をしたということだ。
被害の状況によっては国内が荒れるだけでなく、諸外国へ隙を見せることになりかねない。
長い間表立った戦争などは起こっていないが、精霊の加護を得ていた国が恩寵を失ったと思われれば、国家間の均衡が傾く恐れもあるのだ。
(この時期にそこまで魔獣被害が深刻になるなんて………)
「精霊の加護を持たない周辺国では、魔獣の脅威は日常的なものです。この国も、精霊に寄りかかるばかりではよくないというだけのことですよ。貴女が暗い顔をする必要はありません」
「………はい」
祝福者自らが語る『精霊に寄りかかるばかりではよくない』という言葉は軽くない。
聞く者によっては、この国が精霊に見放されつつあるという意味に捉えてしまうかもしれない。
すでにディーナが知る前世とは色々なことにズレが生じている。
もう、この先の出来事を正確に予測することは難しいだろう。
未来がわからないのは誰にとっても当たり前のことなのに、そして魔獣の問題は元々ディーナの手に負えることではないはずなのに、どうにも胸騒ぎがする。
そのとき、オスカーの優しい声が降ってきた。
「顔を上げてください」
「!」
「今日連れ出したのは、貴女に沈んだ顔をさせるためではありません。屋敷に閉じこもっていた方が安全だと言っても、貴女はそれを良しとしないでしょう。過保護な護衛付きで申し訳ありませんが、今日は、貴女に夏至祭を楽しんでもらいたいのです」
「オスカー………」
おだやかな榛色の目を細め、慈しむような微笑みをディーナに向ける。
「笑って、ください。………ディーナ」




