29.雨と手紙と物思い
雨が降る。
無数の銀の雫が、絶え間なく窓を叩いている。
季節はすでに夏だというのに、妙にひやりと肌寒い。
空は灰色の雲に隙間なく覆いつくされ、暗幕を下ろしたように薄暗かった。
ここ数日続く、天の底が抜けたかのような大雨のために屋外へ出ることもままならず、屋敷で働く者たちの顔も曇りがちだった。
ディーナは窓辺に寄って外の庭を見下ろした。
初夏の瑞々しい緑をまとった樹々も、雨の帳に霞み色褪せて見える。庭師が丹精した鮮やかな色の花々も、この雨で駄目になってしまわないか心配だ。
ソファに腰かけ、ケイトが入れてくれた温かいハーブティーに口をつける。
立ち上る優しい香りに、緊張していた身体が少し解れてほっと息を吐いた。
ディーナはテーブルの上に置かれた手紙をもう一度手に取り、ゆっくりと読み返す。
◇◇◇◇◇◇
愛する姉さま
お元気ですか。
こちらはぼくも母上も変わりなく過ごしています。
姉さまにとっては十年ぶりの王都でしょう。
きっと華やかで、シュネーヴァイスとはなにもかもちがうのでしょうね。
姉さまがいない毎日はとてもたいくつです。
授業中に思わずあくびをしてしまい、先生に「集中力が足りない」と注意されてしまいました。
ぼくも姉さまについていけたらよかったのに。
成人するまでおあずけなんて、とてもがまんできません。来年こそは、お父さまのお許しをいただいて、かならず姉さまといっしょに王都へまいります。
ところで最近、地方で魔獣の被害が増えているのをごぞんじですか。
いまのところシュネーヴァイスに異変はありませんが、国境地帯や町の周辺では警備を強化し、警戒を強めています。
いままで魔獣の現れたことがない隣の領で小型の魔獣の群れが出たり、他領でも中型の魔獣が複数同時に出た場所もあって、そこは被害も大きかったようです。
王都は女神様が見守っていらっしゃるし、精霊様の加護もあついし、祝福者もいらっしゃるし、王国騎士団もあるし。
きっと国のどこにいるよりも安全だとは思うけど、念のため気をつけてください。
また手紙書きます。お返事待っていますね。
姉さまの可愛い弟、リアムより
追伸
姉さまの恋人になる人は、ぼくより可愛くて、お父さまより強い人しかだめです。
お母さまもそう言ってます。
◇◇◇◇◇◇
少し拙い手で書かれた不穏な言葉を、確かめるように何度も目でたどる。
そこには確かに、中型魔獣の複数同時出現、と記されていた。
(やはり、何かがおかしい………)
ディーナの知っている限りで、中型が一度に何体も出たという話は初耳だった。
前世でディーナが死を迎える直前、中型が一体出現したことだけでも、精霊の加護を受けたガイスト王国にとっては大事だったのだ。
それが複数同時に出現して、しかも場所によっては少なくない被害を出しているという。
以前に魔獣被害の話が耳に入ったときも違和感を覚えたが、ディーナが経験した魔獣被害よりも時期が早まり、規模が大きくなっていると感じる。
現世で起こる出来事の多くは、誤差はあるものの、基本的に前世と同じ流れで起こっている。
筋書きの通りに進む芝居のようなものだ。
だから、大きな変化が起こるのは、ディーナが故意に筋書きを動かしたときだけだと思っていた。
魔獣の活動は、ディーナの生み出す筋書きの外側の話だ。
一体なにが起こっているのか。
(精霊の加護のない国境を越えた隣国は、日常的に魔獣の脅威があるから対処法もある程度確立されているわ。けれど、精霊の加護を当然のものとして享受してきたこの国は、大規模な魔獣の襲撃に対する備えが十分であるとは言えない。お母様とリアムは大丈夫かしら。使用人のみんなは、領民は………)
ディーナは不吉な考えに首を振る。
まだシュネーヴァイス領に魔獣は出ていない。
ノルベルトの元へは、さらに詳細な報告も入っているはずだ。領地を護るために、速やかに手を打つだろう。
ノルベルトが束ねるシュネーヴァイス騎士団は高い練度を誇る。不測の事態が起こっても、易々と後れを取ることはない。
不安に備えることと、不安に呑まれることはまったく違う。後ほどノルベルトに詳しく話を聞き、ディーナが領のためにできることがあれば力を尽くそうと思い定めた。
可愛い弟が丁寧に書いた愛らしい文字を、指でなぞる。
『ぼくより可愛くて、お父さまより強い人しかだめです』
しっかりもので姉思いのリアムらしい文面に、思わず笑みが零れる。
ディーナと同じダークブラウンの髪と、ディーナより濃い夏空の青い瞳を思い出す。
「ふふ。リアムより可愛くてお父様より強い人なんて、そんな人………」
しかし言葉は最後まで続かなかった。
バルコニーでオスカーが言った言葉が再び脳裏に浮かんだ。
『貴女を護る権利を、僕に』
夜会が終わり屋敷へ戻り自室でひとりになると、それまでどうにか意志の力で堪えていた涙が、堰を切ったように溢れ出した。
あとからあとから零れ落ちて、なかなか止めることができなかった。
理由は自分でも上手く説明できない。
喜びか、哀しみか、それともただの感傷か。
音もなく涙が落ち続け、夜半を過ぎ、月が陰り、雨音が響きだしても。健やかな眠りは訪れなかった。
いつからと考えても、意味はないのかもしれない。
きっと、最初からだから。
窓硝子に映る思いのほか落ち着いた自分の顔を見て、諦めのような、けれども腑に落ちたような、自然な笑みが口元に宿る。
想うだけなら、赦されるだろうか。
脅威が去れば、手を離すと彼は言った。
ともに歩きたいとは言わない。
彼の選ぶ道を妨げはしない。
だから。
この気持ちを捨てられなかったことだけは、見逃してほしい。
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