2.シスコンとブラコンは紙一重
冬が明けると、王都の社交界は本格的な『シーズン』を迎える。
主だった貴族たちが王都に集い、政治や社交に力を注ぐ季節となるのだ。
そして、これまで人生のほとんどの時間を故郷で過ごしてきたディーナも十七歳を迎え、いよいよ社交界デビューが決まった。
デビューすべき年齢がはっきりと決められているわけではないが、男女ともに十五歳を超えると「そろそろかな」となることが多い。
成人前ではあるが、子供すぎもしない。そんな時期になると、身内やツテのある有力者に伴われ、少しずつ社交界へ顔を出し人脈を広げていくのだ。
十七歳でのデビューは遅すぎるとまでは言えないが、若さを武器により良い縁談を求める貴族令嬢としては、いささか気合が足りないと思われるかもしれない。
しかしこれは、愛娘の結婚に積極的とは言えない父と、結婚はともかく見分を広めるためにこそ王都へ行くべきだと主張する母と、自分の結婚にあまり関心を持てず、のらりくらりと先延ばしにしたい娘との折衷案とも言える年齢であった。
そしてもうひとり、ディーナの王都行きを渋る者がここにいる。
「姉さま」
ディーナのドレスに、まだ小さな子供の手できゅっとしがみついているのは、ディーナの最愛の弟リアムだ。
リアムは敬愛する姉を悲しげな目で見上げていた。
「ぼくを捨てていかれるのですか」
ディーナより濃い、夏空のような青色の瞳を不安げに揺らしながら、こてりと小首を傾げてこの世の終わりのような顔をしてみせる。
ディーナの心臓が、ぎゅんとおかしな音を立てた。
さらりと揺れた、自分と同じダークブラウンの髪を手で梳いてやりながら、ディーナは困り果てる。
「大袈裟よ、可愛いリアム。なぜそんな風に思ったの? 毎年のお父様と同じよ。シーズンだから王都へ行くの。シーズンが終われば、お父様と一緒にまたここへ帰ってくるわ」
姉弟の父であるシュネーヴァイス辺境伯は、例年のシーズンには領地に妻と子供たちを残し、ひとりで王都へ向かうことがほとんどだった。
政治に携わる夫たちがシーズンを王都で過ごすのは当然だったが、その妻たちも王都へ付いていくことが多い。
社交に積極的な妻たちは王都で華やかにお茶会や夜会に勤しみ、それが夫の政治的な助けとなったりするのだ。
しかしシュネーヴァイス辺境伯は、夫人を社交界へ出したがらないことで有名だった。
なぜなら、彼は周囲が引くほどの大変な愛妻家だからだ。
魑魅魍魎が集い、狐と狸が化かしあう。そんな社交界に『か弱く美しい』妻を投げ込むような真似をしたくないと公言して憚らない。
辺境伯が思っているほど彼の妻が『か弱く美しい』かどうかは議論が必要なところだが、辺境伯はそのように信じていたし、彼の妻もそれで何の不満もなかったから問題はない。
そのような理由で、辺境伯は毎年シーズン開始ギリギリに渋々と王都へ向かい、シーズンが終了すると脱兎のごとく領地へ帰るのが恒例となっていた。
一部では『恐妻家の獅子』と陰口を叩かれているらしい。
「お父様のことだから、長居はせずに夏が終わる頃には帰ってくるわ。きっとあっという間よ。そうしたらまたここで一緒に過ごせるから」
「でも! もし……もし、王都で結婚するようなお相手が見つかってしまったら。………姉さまはもうここへは帰って来ないのではありませんか?」
切羽詰まったようなリアムの言葉に、はっと息を呑んだ。
結婚について考えたからではなく、ディーナを殺した男の顔を思い浮かべたからだ。
ディーナはオスカーと王都で出会った。
そして結果、確かに………ここへ帰ってくることができなくなったのだ。
視界が揺らいだように感じ、無意識のうちに額に手をあてた。
今立っている場所と時間の感覚が遠のき、あの最期の瞬間の出来事が、頭の中で激しく明滅する。
その鮮烈さに、ディーナは思わず固く目を瞑った。
(いいえ。まだなにも、始まってすらいないわ)
気弱な思考に捕らわれないように、自分を叱咤する。
「姉さま……?」
快活な姉の表情が曇ったことに気づいたリアムが、心配そうに顔を覗き込む。
ディーナはこわばった身体から力を抜き、不吉な幻を振り払うように頭を振った。
これ以上リアムを不安にさせてはいけない。
気持ちを切り替えてしっかり目を開き、可愛い弟のやわらかな頬を両手で包む。
ふくふくとした感触に癒され、自然と表情が綻んだ。
「たとえ何かのはずみで結婚の話が持ち上がったとしても、準備もなく嫁ぐことにはならないでしょう。ちゃんとここへ帰ってくるわ。それに、そんな物好きがそうそう現れるとも思えないし。むしろ、引き取り手のない姉をどう厄介払いすべきかを、次期辺境伯として危惧すべきではないかしら」
ディーナがいたずらっぽく笑う。
将来、この辺境伯領を引き継ぎ、担っていくのはリアムの役割だ。
まだまだ先の話ではあるが、いずれ妻を娶るときが来るだろう。そのときに行き遅れた姉が居座っていては困るはずだ。
そんな意図を込めて言ったのだが、可愛い弟の可愛い青い眼はキリリと吊り上がった。
「姉さまは世界で一番素敵な女性です! 王都へ行かれれば姉さまを妻にと望む者は掃いて捨てるほど現れるでしょう。でも無理に結婚されることはありません。ずっとこのシュネーヴァイスにいてくださればよいのです」
「え………でも、あなたの未来の奥様が困るのではない?」
「姉さまを認めてくださる方とでなければ、結婚はしません!」
やや頑固ともいえる表情で力説するリアムを見つめながら、ディーナは内心冷汗を流す。
薄々感じてはいたのだが、シュネーヴァイスの男性陣は身内への愛情が重すぎはしないだろうか。
まさか遺伝なのかと家系図に想いを馳せかけ、思考の迷路へ迷い込みそうになったディーナは慌てて目の前のリアムに視線を戻す。
リアムの将来に一抹の不安を覚えたが、幼い弟もいずれ成人し、素敵な令嬢と出会う時期が来れば自然と優先順位も変化するだろう。
姉にではなく、未来の妻に対して愛情が重いのは悪いことではないはずだ。
多分。
ディーナは時間をかけて、姉と数か月離れて過ごすことに不満タラタラの弟をなだめ、「わたしとお父様の代わりにあなたがお母様と領地を守るのよ!」という言葉でどうにか留守番を承諾させたのだった。
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ディーナの王都行きについて、時間が巻き戻る前………『前世』のリアムも多少の不満を言ってはいた。
それは、ディーナの王都行きを変更できないと承知した上で少し拗ねてみせる程度の、いわば甘えのようなものだ。
ところが『現世』でのリアムの抵抗はやや本気ともいえるもので、しばしの離別を納得させるまでに、かなりの時間が必要だった。
それがなぜなのか、ディーナはなんとなくわかるような気がした。
二週間前、ディーナは高熱で数日床に臥せた。
原因は、極寒の中、ダイヤモンドダストを見に行き身体を冷やしたせいだとケイトに言われたが、実際は違う。
前世ではダイヤモンドダストを見たあとに熱など出してはいなかった。
おそらく発熱は、時間の巻き戻りと何らかの関係があったのだろう。
健康で過ごしたディーナと、高熱で倒れたディーナ。
その出来事の差異が、わずかにリアムの言動を変えさせたのだ。
今回の変化はごく小さく、結局前世と同じようにディーナは父と王都へ向かうし、リアムと母は領地へ残る。大筋はなにも変わっていない。
しかしこの先、なにかの選択肢を与えられたとき、以前と真逆を選んだとしたらどうなるだろう。
―――前世で起こらなかったことが起これば、そのあとの出来事にも変化が起こる。
リアムに起きた小さな変化は、ディーナに確かな希望をもたらした。
前世で起きた、ここから未来の時間に訪れるディーナの死。
しかし未来が変化する可能性を持つのなら、死もまた確定された運命ではないはずだ。
(これからの行動しだいで、きっと変えられるわ)
ディーナに残った前世の記憶は完全なものとは言えない。
些細なことまではさすがに覚えていないし、印象に残るはずの出来事であっても、霞がかかったように思い出せない部分もある。
とはいえ、これから起こることがある程度わかるというのは大きな力であることに間違いない。
ディーナは、自分の生死を分ける最大の分岐点をすでに理解していた。
―――王都で、オスカー・ヴァールハイトと出会わないようにする。
そうすれば、あの悲劇は起こらないに違いないのだ。
遅筆なのですが、ストックがあるので手直ししつつ投稿しています。
次回より、舞台は王都へ移ります。