27.貴女に請う、あるいは、あなたを恋う2
「それで、だな」
ミハエルは表情を険しくした。しかしどういうわけか、そのあとの話が続かない。
なにかを言おうと口を開け、なにも言わぬまま口を閉じ、ディーナをじっと見たかと思えば腕を組んで難しい顔で首を傾げる。
そしてやっとミハエルの口から出た言葉を、今度はディーナが理解できなかった。
「あ~………、アレは、なんだったんだ?」
「あれ?とは? なんのことでしょう?」
「アレはアレだ」
「はあ………?」
「いったい、なにをしたんだ?」
「?……申し訳ありません、おっしゃる意味がわからないのですが」
「……」
「………???」
どうにも要領を得ない。
ふたりはお互いに、苦虫を噛みつぶしたようななんとも言えない表情で見つめあった。
ミハエルと接触したのは二度だけだ。夜会でダンスを断ったときと、城下町で鉢合わせたとき。
そこまで考えて、ディーナははっと思い至った。
(もしかして。銅貨の噴水で吹いた風のこと………?)
ミハエルが言おうとしていることはわかったが、しかしあれは公の場で追及されると少しまずい気もする。
さてどうはぐらかすべきかとちらりと様子を窺うと、ディーナの困惑を知ってか知らずか、ミハエルの眉がぴくりと上がる。
彼はしばらく顔を顰めて考え込んだあと、天井を仰いで大きなため息をついた。
どうやらその話題について、この場で追求することは諦めてくれたようだ。
ディーナは穏便に済みそうな気配を感じ、内心ほっとした。
すると今度は、萌黄色の瞳がディーナの顔を不思議そうに覗き込んだ。
今気づいたというように、ミハエルが自分の額を指さしながらディーナの額に視線を注ぐ。
「なんか、おでこが赤くなってないか?」
その表情には、転んで膝を擦りむいた子供を案ずるような純粋な心配が浮かんでいる。
そういえば、額を扇でパチリとやったことを思い出す。
手で擦ると額がぴりぴりと痛んだが、さすがにたんこぶにはなっていない。
「先程、自らを叱咤激励したのです」
「はあ? どういうことだよ?」
ディーナの珍妙な答えに、ミハエルが噴き出して可笑しそうに笑う。
そのとき、すぐそばでコツリと靴音が止まり、ふたりははっとしてそちらへ視線を向けた。
「ずいぶん楽しそうにしているな? 笑い声など、聞いたことはなかったが」
低い声の主は、どこか排他的で威圧感のある空気をまとっていた。
藁色の髪と、濃い錆色の瞳を持つ、背の高い壮年の男性だ。
青年期はさぞかし令嬢たちの思慕を集めたに違いないと思わせる、整った面立ちである。しかし過ごした年月が色濃く刻まれた相貌は、彼が油断のならない人物であることを匂わせていた。
纏う雰囲気が驚くほど違い、彼らが親子であることを証明するのは髪の色だけのように感じられる。
「………父上」
返すミハエルの声は、どこか苦いものを含んでいるように聞こえた。
風の公爵ローデリヒ・エーデルシュタインは、片側の口角を上げて一度だけ息子を見たあと、錆色の視線をディーナに移した。
「これは可愛らしい令嬢だ。どちらの家門のお嬢さんかな?」
笑みを浮かべ寛容に話しかけているように見えるが、その声には人を支配することに慣れた強さがある。皺を刻んだ目じりに親しみはなく、値踏みするような容赦のない視線が絡みつく。
ちらりと隣を窺うとミハエルと目が合い、どこか困惑した様子が感じられた。
そこまでを冷静に見ていたディーナは、はたと気づく。
(そういえばわたし、現世でミハエル様に名乗ったことあったかしら?)
もしかすると彼は、ディーナの家名どころか名前さえまだ知らないのかもしれない。それなら紹介のしようもないのは当然だ。
しかしそれだけではなく、ミハエルの表情にはローデリヒとディーナを関わらせて良いものかと案じる様子も確かに感じられる。
この親子の間には、やや複雑なものがありそうだ。
視線を正面へ戻したディーナは、背筋を正すと深く腰を落としてカーテシーを披露し、緊張を感じさせない落ち着いた声で名乗った。
「ノルベルト・シュネーヴァイス辺境伯が長子、ディーナにございます」
ディーナの堂に入った挨拶にローデリヒは一瞬目を瞠ったが、再び笑みを深めると口を開いた。
「ああ……シュネーヴァイスの。父君のことは知っている。大変な愛妻家で、妻を想うと執務も上の空になりがちだとね。そういえば、君の噂も最近聞いたな。ずいぶん情熱的な一族のようだ。なんでも………火の公子を篭絡したとか」
ローデリヒはディーナをひたりと見つめて冷酷に微笑んだ。
「だからと言って、我が息子にまで手を伸ばすのは容赦願えないだろうか。息子は浮名を流すが、存外初心なところがあってね。君のような手練れには物足りないだろう?」
「父上! そのような……!」
ミハエルがローデリヒの侮蔑の言葉に抗議の声を上げかけたとき、張り詰めた空気の中に場違いなほどおだやかな声が落とされた。
「エーデルシュタイン公爵閣下、ご無沙汰しております」
思いがけない人物の登場に、三人の視線が声の主へと吸い寄せられるように集まる。
誰かが近づく気配も感じなかったが、いつの間にかそこには、清廉な笑みを湛えたオスカーが静かに佇んでいた。
片側だけを後ろへ流した黒髪が艶めき、落ち着いた色合いのジュストコールは緻密な刺繍が施され、彼の魅力を存分に引き立てている。
左耳には、祝福者の証である精霊の耳環が紅く輝いていた。
「これは、火の………」
「先ほど来場したばかりでして。ご挨拶が遅れ申し訳ありません」
オスカーは先程のローデリヒの発言をなにも知らぬかのように悠然と会釈した。
「恐れながら実は本日、シュネーヴァイス嬢を私の家族に引き合わせる約束がありまして。彼女の姿が見えないので探していたのです」
「ああそれは……引き留めてすまなかったね。こちらの話は済んだ。連れて行って差し上げなさい」
「ありがとうございます」
ローデリヒが腹の底の読めない表情でディーナの退出を認める。
火の公爵家は風の公爵家と同格だ。ローデリヒといえど、蔑ろにすることはできない。
薄い笑みを面に張り付けたローデリヒが立ち去ろうと背を向けたとき、しかしなぜか、オスカーが彼を引き留めた。
「公爵閣下」
「………なにかね?」
ローデリヒが振り返ると、オスカーはディーナの右手をそっと掬い上げ、美しい貌に目が眩むほどの艶やかな微笑を浮かべる。
そして、かろうじて成立していた見せかけの平穏を叩き壊すように、傲然と言い放った。
「篭絡したいと望んでいるのは、私の方なのです。力及ばず、未だ叶いませんが」
そして零れそうなほど目を見開くディーナの指先に、恭しく口づけを落とした。
手袋越しにオスカーのやわらかな熱を感じ、ディーナの背に甘い痺れが走る。
オスカーは先程の会話をすべて聞いていたのだろう。
そして、たとえ相手が風の公爵であっても、ディーナへの侮辱を許容しないという意志を示したのだ。
ローデリヒは少しの間ディーナたちを強い視線で見ていたが、しかしそれ以上なにも言うことなくその場を立ち去った。
ディーナはあまりの出来事に呆気に取られ、手袋に包まれた自分の右手を見つめたまま動けない。
(あれではむしろ、わたしがオスカーを篭絡したことの証明のように見えたのでは………)
ミハエルもまた、顎が外れたかと思うほどに口を開けてオスカーを凝視していた。しかし頭を振っていち早く回復すると、苦々しい表情でディーナに父親の無礼を詫びる。
「すまなかった。あんな……。詫びて済むことではないが……。くそっ、なんてことを………」
ミハエルは貴族としての言葉遣いも忘れ、ローデリヒの行いに対して憎々し気に悪態をついた。
確かにローデリヒの侮辱は非常に不快なものだったが、少なくともミハエル自身の考えは彼の父親とは違うように見える。
彼に咎があるとは思えなかった。
「あなたのせいではありません、ミハエル様。そんなに……」
気になさらないで、と続けようとしたディーナの言葉を攫うように、オスカーが言葉を継いだ。
鋭い目でミハエルを見つめる。
「心配は杞憂だと父君に伝えてください。ディーナは興味もない男を弄ぶような不道徳な女性ではありませんから。彼の息子とは違ってね」
オスカーの強烈な当てこすりに一瞬ミハエルの顔に朱が上る。しかし言い返すことはせず、悔しそうに奥歯を噛みしめて俯いただけだった。
「では、失礼」
それ以上ミハエルを見もせず、オスカーはやや強引にディーナを引き寄せエスコートすると、速やかにその場を離れた。