26.貴女に請う、あるいは、あなたを恋う1
『水の公爵家』トゥーゲントヘルト家の夜会は、壮観の一言だった。
食道楽を謳われる水の公爵家だけあって、招待客をもてなすために用意された料理のテーブルには、王宮にも劣らない素晴らしいご馳走や飲み物、そしてお酒が所狭しと並んでいる。しかし、ディーナはそれらを口にすることはできない。
今夜は飲み物や食べ物など口にするものに気をつけること、人気のないところでの単独行動を避けること、移動する必要があるときは報告してから、といった注意事項がノルベルトからしっかりと言い含められている。
オスカーとの間に立てられた様々な噂を危惧してのことだろう。
もしかしたら単に、目の届かないところで暴走しがちなじゃじゃ馬をどうにか押さえたいだけなのかもしれないが。
とはいえ、自分の身の安全と、ディーナを案じる人たちの精神の安寧には変えられない。
今のところ危惧されたような身の危険は感じないものの、あちこちから向けられる好奇の視線に辟易していた。
いくつかのやらかしが原因だとわかってはいるが、自分が滑稽な見世物になったようであまりいい気分とは言えない。
オスカーが普段、大勢の無遠慮な視線に晒されても自然な振る舞いができることは、実は大変なことなのだとディーナは思い知った。
オスカーの姿をそれとなく探してみたが、まだ見当たらない。
先日カフェで気まずい雰囲気で別れたまま、今日まで直接顔を合わせる機会がなかった。
ディーナは楽しげな喧騒に包まれた広いホールをゆっくりと眺め渡す。
美しい装いの女性たちが己の魅力を誇示するように、優雅な音楽に合わせて蝶のようにひらひらと舞っていた。
男性たちも、誘いかける蝶たちに魅せられたように華麗なステップを踏む。
(オスカーの『気になる女性』が、今日このホールに現れたりするのかしら)
ディーナはその女性の容姿を知っているわけではない。オスカーは容姿については語らなかったから、この場にその女性がいたとしてもディーナが気づくことはできない。
しかし、これほど大規模な夜会はシーズン中でもそう何度もない。
時期的に考えて、今日ここでふたりが再会してもおかしくはないのだ。
(きっと、素敵な方なのでしょうね………)
オスカーは『祈らない』と言った。見合うだけの力がなければ、願いはかなわないとも。彼ならば、広大な砂山の中から、たった一粒の宝石を探すことを厭わないだろう。
そして必ず、望みのものを手に入れる。
ふたりが運命的な再会を喜びあい、微笑みを交わしながら優雅にダンスをする姿まで思い浮かべて、ディーナは自分の想像力の逞しさに少しうんざりした。
煮え切らない己の感情に業を煮やし、手に持った薄紫色の華奢な扇を閉じると、情けない己に活を入れる。
(ああもうっ! しっかりしなさいよ、ディーナ・フォン・シュネーヴァイス!)
手に持った扇で自分の額を一発豪快に打つと、繊細な扇が抗議をするかのようにピシリとひび割れた音を立てる。
目撃した周囲の何人かがぎょっと目を見開いたことに気づいたが、今更噂話に少しばかりのエッセンスが加わろうとも、たいしたことではないのだ。
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時折、珍獣でも見るような視線を向けられるものの、それで誰かが絡んでくるということもなく、表面的には平穏に時間が過ぎていった。
今はノルベルトとも別行動なので、話し相手がまったくいない。
こんな時にアレクシアがいてくれればいいのにと思うが、今夜彼女の姿は見かけなかった。
今頃、魔塔で忙しくしているのだろうか。
ぼんやり招待客を眺めていると、遠目に華やかなドレスをまとった令嬢の集団が見える。中心にいるのはミハエル・エーデルシュタインのようだ。
彼は、宴の華だ。
藁色の髪を後ろへ綺麗に撫でつけ、形のよい額があらわになっている。
クラヴァットを留めるエメラルドはエーデルシュタイン家を象徴する宝石で、ミハエルの優れた容姿にいっそうの華を添えていた。
街中ではなぜか市井に埋没し目立たなくなる特技を持つミハエルだが、やはり社交界においては多くの女性が熱を上げるのも無理はないという麗しさである。
令嬢たちの輪の中に綺麗に、結い上げたキャンディピンクの髪が見えた。
シェリルも他の多くの令嬢と同じように、ミハエルにうっとりと微笑みかけて幸せそうだった。
社交界の華やぎを外側から他人事のように眺めていると、その華やぎの中心であるミハエルが何かに気を取られたように顔を上げ、それなりの距離があったにもかかわらず、なぜかディーナと目が合った。
次の瞬間、彼は萌黄色の目が落っこちるのではないかと思うほど目を見開いた。
ミハエルのあまりに愕然とした表情に驚き、ディーナの方も唖然とする。
(え?)
彼はなんとも言えない表情で落ち着きなくアタフタしたあと、戸惑う周囲の令嬢に詫びながら人垣を割って歩き出した。
こちらへ近づいてくるつもりなのだと気付いたとき、ディーナは反射的に走って逃げそうになったが、そういうわけにもいかない。
戸惑っているうちに、気づけばあっという間に『物語の王子様』は目の前に立っていた。
とりあえず腹をくくり、ミハエルの背後に残された令嬢たちの方は見ないことに決める。恋人とかでは決してないから、どうにか大目に見ていただきたい。
「あー………元気だったか?」
意外にもというべきか、美麗な夜会服に身を包んだミハエルの態度は、城下町で帽子を拾ってくれたときと変わりないものだった。
それどころか、ディーナの自惚れでなければ、気安さや親しみの感情のようなものすら感じる。
まるで………友人にでも話しかけているような。
前世ではひたすらにケンカ腰で嫌味を投げつけてくるばかりだったのに、この変わりようはどうしたことだろう。
ディーナは噴き出して笑いそうになるのを懸命にこらえながら、礼儀正しく淑やかに挨拶をした。
「ごきげんよう、エーデルシュタイン公爵令息様。おかげさまで恙なく過ごしております」
「畏まりすぎだろう。……それに、その名で呼ばれるのは好きじゃない」
拗ねた子供のような表情でミハエルが眉根を寄せる。
「それでは、ミハエル様と呼ばせていただいてもよろしいでしょうか」
ディーナが笑いかけると、ミハエルはまだ不服がありそうな様子を見せたが、妥協したように首を縦に振った。