22.男子とお茶を1
アレクシアとお茶をした翌週、ディーナは再び国立図書館へ出向いた。
今度こそ、念願通りに時間の巻き戻りについて調べることができたが、結局のところ期待していたような情報を見つけることはできなかった。
時間の流れに干渉するという概念に触れた記述もないわけではなかったが、どれも『それは禁忌であると同時に、不可能な夢物語だ』という結論で結ばれていた。
そこから読み取れることがあるとすれば、ディーナの身の上に起こったことは容易に他人と共有できるものではない、ということだけだ。
存在するはずのない事象、あるいは触れてはならない禁忌。
これはそういった類のものなのだろう。
微かな失望を感じはしたが、こうなることはどこかで分かっていたような気もする。
最後の本を閉じると、立ち上がって受付カウンターに目を向ける。
今日はアレクシアやオスカーと遭遇することもなく、前回お世話になった司書の姿さえない。
ここへ入ってから出るまで、誰とも会話をしないままだった。
(タイミングが違うと、同じ場所でもこんなに違うのね)
前世では縁がなかったアレクシアとここで知り合えたことは、思いがけない幸運だったのだろう。
ディーナは気持ちを切り替え、国立図書館を後にした。
人はどれほど望んでも、一日先の未来でさえ見通すことはできない。
しかし奇妙なことに、ディーナは遠くない未来、自分が寿命以外の理由で命を失う可能性があることを経験として知っている。
青い薔薇の咲く時期まで、残された時間はそれほど多くない。
不本意な結末に後悔することだけはないように、しっかり見極めなければならないだろう。
大切な人たちを、悲しませないためにも。
(本当に………おちおち気を抜いていられないのね)
気取られないようにそっとため息を吐く。
ディーナは歩調を緩めず振り返らないまま、慎重に背後の気配を探った。
人通りの少ない道を歩いていたのが良くなかったのか、考えごとをしながら歩いていたのが隙だと見られたのか。
(………このあたりって、治安が悪いのかしら?)
図書館から出たあたりから、一定距離を保ってよろしくない気配が後をつけてきている。
しかし気配がうるさいので、わかりやすい。本職の者ではなさそうだ。
誰もいない細い路地へ入ったところで、足音を忍ばせることをやめたらしい。
害意をむき出しに駆け寄る乱暴な足音に、ディーナは瞬時にバネのように足に力を貯め、鋭く視線を走らせた。
肩から下げていたバッグに伸ばされた無礼な手をあっさりと捕えると、相手の男の驚いた表情が目に入った。
そのまま手首をねじり上げ、相手が怯んで体勢を崩したところで、地を蹴ってそろえた両膝に全体重をかけて男の背中に圧し掛かる。
ディーナの体重だけではそこまで破壊力はないが、地を蹴った脚力も加算されて、男はカエルが潰れるような汚い悲鳴をあげながら勢いよく地面に倒れ込んだ。
関節を極められ脂汗を流す男の歪んだ顔を覗き込み、ディーナはにっこりと微笑む。
「カモになりそうな相手を見繕ってわたしを引き当てるなんて、目が曇っているのね。ひったくりは廃業した方が身のためじゃないかしら?」
「こ、んの、アマ………ッ、ぐああっ!」
抵抗する気配を見せたひったくりの関節をさらにねじり上げると、悲鳴をあげて大人しくなる。
父直伝の関節技は、人体を知り尽くし、力のない女性でも大男を制圧可能にするものだ。
巡回の騎士を呼んでもらうために顔を上げようとしたところで、誰かがディーナの横に並んで膝を折り、ひったくりの腕を抑え込んだ。
知った気配に驚いて真横を見ると、どこか呆れたような表情のオスカーがいた。
「オスカー様? どうしてここに」
「変わってください。僕がやりますから。貴女ではこの男を抑え続けるには身体が軽すぎます。僕の手の者に巡回の騎士を呼びに行かせましたから、すぐに来るでしょう」
「………ありがとうございます」
素直にオスカーに任せて、ひったくり犯の手を離した。立ち上がって、乱れたスカートの裾を払う。
またもや荒事の現場を見られてしまい、少し気まずい。
「それで? コレは一体何事ですか?」
「ひったくり、でしょうか。ひったくられる前に取り押さえてしまったので未遂ですが」
どうやらオスカーは全部を見ていたわけではないらしい。
ディーナが男を引き倒したのを遠目で見かけて、あわてて駆け寄ったというところだろうか。
「相変わらず素晴らしい手腕………と言いたいところですが、あまり危険なことはしないでいただきたい」
「わたしから襲い掛かったわけではありません。あくまで自衛です。仕方ないでしょう?」
「貴女が勇敢な方だということは、誰よりも知っているつもりです。でも、それでも。貴女は不死身ではないのですから」
静かな声の奥に少しだけ苛立ちを滲ませた黒髪の貴公子は、榛色の瞳を眇める。
そこへ、重い足音とともに数人の騎士が現れた。
オスカーが簡単に経緯を話すと、ひったくり犯はその場でがっちりと拘束され、大柄の騎士数人に問答無用で連行されていく。
聞けば、裕福そうな女性ばかりを狙う手配中の常習犯だったらしい。手口が荒っぽく、抵抗した相手をしたたかに殴って逃げるので、かなり悪質な犯人だったと言える。
捕まえたのは成り行きだったが、騎士にはとても感謝された。
前世ではあんな男に遭遇しなかったし、連続ひったくり事件が起こっていた事自体を知らなかった。
この先被害に遭う予定だった幾人かが救われたのだとしたら、今日ここでディーナが犯人を捕まえることができて良かったのだと思う。
選ばなかった選択の先を見ることはできないから、ディーナがひったくりを捕まえなかった前世でこの事件がどう決着したのか、もう確かめようがないけれど。
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ディーナはまた、『深淵の最果て』を訪れていた。
そして向かいの席には、輝くばかりに美しい男性が座っている。
ひったくり犯が連行されたあと、「少し話をしませんか」とオスカーに誘われ、断り切れなかった。
今いる場所が魔塔の近くであることに気づき、ディーナは最近お気に入りとなったこのカフェへオスカーを案内したのだ。
今日のオスカーは、白いシャツと黒のトラウザーズというシンプルな服装で、一見して貴族とわかるような恰好ではない。
にもかかわらず、整った容貌とすらりと伸びた長い手足だけではなく、崩れぬ姿勢や洗練された仕草は、明らかに庶民と一線を画する気品を醸し出している。
ディーナは密かに思った。
(う、浮いてる………)
以前この街でミハエルと偶然会ったときは、確かに整った容姿ではあるものの、不思議なほど市井の雰囲気に溶け込んで違和感がなかった。
服装だけでなく、彼のくだけた仕草や口調がそうさせていたのだろう。
しかしオスカーは、たとえ装いが平民のそれであったとしても、ただ立っているだけ、座っているだけで、存在があまりにも浮世離れしている。
(この方、なんでもできると思っていたけれど………変装の才能は皆無だわ)
店内のそこかしこからの視線を感じるが、他人の目に晒されることに慣れているオスカーが気にする様子はない。
客の中には、この黒髪の美しい男性が何者なのか、ひと目でわかってしまう者もいるに違いない。
ディーナがすでにちょっと帰りたくなっているのは秘密である。
「夜会であんなことがあった後なのに、護衛もつけずに外出を繰り返すのは、不用心だと思わないのですか?」
「オスカー様こそ、大夜会でご自身の身に危険が及んだこと、お忘れではありませんよね?」
自分のことを棚に上げた発言にディーナがさらりと反撃すると、オスカーが眉を顰めた。
「『オスカー』」
「え?」
「『オスカー』、ですよ。ディーナ。以前了承してくださったでしょう? 非公式な場だけでも構いませんから」
「………」
確かに、以前から何度も名前の呼び捨てを請われている。
これ以上強く断るのは、相手を拒絶する意思と取られてしまうだろう。
しばしの沈黙のあと、ディーナは押し切られる形で仕方なくこくりと頷いた。
 




