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1.春を待つ時計塔

「う………」


 身体がたまらなく熱い。

 ディーナは籠った熱を逃がそうと身を(よじ)った。

 そのはずみで、額に乗せられていた水気を含んだタオルが、枕脇にぱさりと落ちる。

 つい先程まで凍えるほど寒かった気がするのに、どういうわけか今は焼けつくような熱が身を苛む。


「………さま、お嬢様! 気がつかれましたか⁉」


 焦りを滲ませた誰かの声が、ディーナの濁った意識を無遠慮に揺さぶった。

 しかしそれが男性の声ではないことに戸惑い、そんな自分の心の動きにまた少し困惑する。


(………ケイ、ト………?)


 声は、ディーナ付きのメイドであるケイトのものだった。

 しかし先程まで一緒にいたのは、本当にケイトだっただろうか。


 ディーナは鉛のように重い(まぶた)を無理やり持ち上げ、うっすらと見える周囲に視線を彷徨わせた。


 お気に入りの水色のカーテンはきちんと閉じられており、隙間から陽光が射す様子はない。

 代わりに、光量を抑えた魔術灯が室内をやわらかく照らしている。

 はっきりとはわからないが、夜と言って差し支えのない時間帯なのだろう。


 目に映るのはよく見知ったディーナ自身の部屋で、いつの間にか眠っていたようだ。

 ひどく悲しい夢を見ていた気もするが、ぼんやりとして考えがまとまらない。

 寝台の中で身じろぎすると、胸の奥に凝っていた熱が押し出されて小さく咳き込んだ。


「ああ、やっと目を覚まされて……! でも熱がまだ下がりませんね……。おつらいところはございますか? あっ、旦那様に報告しなくては……」


 ケイトは枕元に寄り添って、額に手を置いて熱を確かめたり、手を取って脈を診たり、落ちたタオルを回収して冷たい水に浸しなおしたりとせわしなく動く。

 やや落ち着きのない話し声は決して大きくはなかったが、熱に倦んだディーナの頭にガンガンと響いた。

 もう少し声を抑えて欲しいと思ったが、それを声に出して言う気力もない。


(喉、乾いた………)


 切実に水が欲しい。

 喉が焼け、身体が干からびてしまいそうだ。


 無意識にふらふらと手を泳がせたディーナの意図を察してか、ケイトは急いでベッドに横たわるディーナの口元へと水を差し出した。

 クラクラする頭を枕から少しだけ持ち上げ、ケイトに支えられながら、グラスの水をゆっくりと口へ含む。

 冷たすぎない水が、乾いて張りついた喉をじんわりと潤し、呼吸が格段に楽になった。

 時間をかけて欲しいだけの水を飲み終わると、大きく息をついて、再びぱたりと枕へ頭を落とす。


「あっ、お嬢様⁉ ディーナ様⁉」


(もすこし、ねかせて……)


 慌てるケイトの声を置き去りにし、ディーナの意識は再び、夢も見ない深さへゆっくりと沈んでいった。



 ******



 ディーナがはっきりと目を覚ましたのは、水を飲んで再び眠ってから、さらに丸一日以上経ったあとだった。

 全部で三日間ほど意識がなかったらしい。

 途中何度か目を覚ましたようだが、自分ではあまり覚えていない。


「もう、本っっ当~に心配したんですよ⁉」


 ケイトは文句を言いながらも、憂いの晴れた顔で甲斐甲斐しくディーナの世話をしている。

 まだ微熱はあるが、体調は悪くない。

 しっかり静養すれば、すぐに体力も回復するだろう。


「悪かったわ。……お父様とお母様、それにリアムにも、心配をかけてしまったわね」


 ディーナは年齢の離れた可愛い弟の顔を思い浮かべて眉を下げた。


「本当ですよ。『姉さまをお見舞いするんだ』って部屋に押し入ろうとするリアム様をお止めするの大変だったんですから。しっかり治して、元気なお姿をお見せしなければなりませんよ」


 ケイトが作業の手を止めて、ディーナをじろりと睨んだ。


「まったく………。極寒の早朝、おひとりで屋敷を抜け出した挙句、湖まで馬を駆ってダイヤモンドダストを見に行くなんて! いくら弟君がお生まれになるまで後継者教育を受けておられたとはいえ………。毎日毎日とんでもないことばかりですが、今回はさすがにやりすぎです!」


 ケイトががみがみと小言をたたみかけた。

 ディーナは思わず首を竦める。


 ケイトは長くディーナに仕えているので、ディーナが貴族令嬢の規格から著しく離れてしまっていることには、それなりに慣れている。

 しかし朝起こしに行ったら、部屋にいないどころか屋敷からも消えてしまっていたのはさすがに肝が冷えたらしい。

 おまけに帰宅後、高熱で倒れてしまったのであればなおさらだ。


 たくさんの人に、ずいぶんと心配をかけてしまったらしい。

 だからディーナは愚かしく反論したりせず、黙って苦笑いをするだけにとどめた。



 ******



 ケイトが「軽食をご用意しますね」と機嫌良く告げて部屋から出ていく姿を笑顔で見送ったあと、ディーナは静かになった部屋を見回して眉根を下げた。


 天蓋を持つ広々とした寝心地の良い寝台には、冬用の温かい毛布。

 雪の結晶の模様が織り込まれた厚手のカーテンと、毛足の長い上質な濃紺のカーペット。

 そして、ぱちぱちと音を立てやわらかく爆ぜる暖炉の炎。


 水色のカーテンが開かれた窓の外に視線を移せば、曇天の隙間から漏れる淡い陽光を受ける雪景色の街並みが見えた。

 窓を開ければ、まだひやりと冷たい風が頬を撫でるに違いない。


(いったい、どういうことなの?)


 なにもかもがおかしかった。


 ディーナが意識を失う前の季節は初夏で、場所は王都だった。

 なのに今は冬の終わりで、ここは生まれ育った領地『シュネーヴァイス辺境伯領』のカントリーハウスなのだ。


 ディーナはダイヤモンドダストを見にいって帰宅したあと、高熱で倒れたのだそうだ。

 しかしディーナの知る限り、ダイヤモンドダストを見に行ったのは半年前であって、決して数日前ではないし、そのときに熱で倒れた覚えもない。


 そしてなにより。


(わたし………確かに死んだはず、なのに)


 ディーナは無意識に胸元を押さえた。


 掃き出し窓から見える風景の中に、背の高い時計塔がある。

 街のシンボルにもなっている時計塔は今、老朽化による崩落の修理のため、足場が組まれ幕も張られて全容が見えなくなっている。


 しかしあの時計塔の修理は、すでに完了していたはずなのだ。

 ――――――数か月前、ディーナが故郷を離れる前に。




 高熱から目が覚めた後に、熱で混乱したふりをして、家族や使用人たちに何度も確かめた。

 どういうわけか、ディーナが過去として認識している『社交界デビューのために父とともに領地を離れ、王都に住まい、初夏までの時間を過ごした』という出来事は、ディーナの記憶の中にしか存在していなかった。


 ディーナ以外の人々にとってそれはまだ起こっていない、そしてこれから起こる予定の出来事なのだ。



 信じがたいことに、『時間が巻き戻った』らしい。


 そして……ディーナを裏切り、殺した男。

 オスカー・ヴァールハイトとの間に起こったすべての出来事もまた、時間の狭間に消え失せたのだ。




 他人に聞かせたところで、高熱に浮かされて夢を見たか、気が触れたと思われるだけだろう。

 自分の身に起こったことでも、自身の正気を疑いたくなるほどだ。


 しかし、これは夢でも幻でもない。

 視線を落とし、夜着の胸元をぎゅっと右手で掴んだ。

 その奥に隠されたものが、ディーナに残酷な真実を突き付ける。


 これに気づいたとき、ディーナは全身の血と呼吸までが凍ったような気がした。


 深紅の刃物傷。


 傷というには、凹凸もなくなめらかで痛みもない。

 しかし奇妙なことに、刃物の形がはっきりと残る痕はひどく瑞々しく、今にも血が零れそうな色をしている。

 傷痕というよりは、なにかの刻印のようだ。


 この傷を目にしたとき、ディーナは『死』の衝撃を克明に思い出した。


 ゆっくりと冷えていく身体に凍えるディーナの唇と心臓に与えられた、苛烈な熱と衝撃。

 それが、最期だった。


 しかし気づくと、ここへ戻ってきていた。

 王都で過ごした数ヶ月の時間が、すべて幻であったかのように。


 ディーナは今、生きている。

 どんな存在のどういった気まぐれなのかはわからないが、きっとこれはチャンスなのだ。



「お嬢様、お苦しいのですか? 顔色も少し……。お医師をお呼びしましょうか?」


 いつの間にか戻ってきていたケイトが、胸元を掴んで俯いたままのディーナを心配そうに覗き込んだ。

 小さく首を振り、力強く笑ってみせる。


「大丈夫よ。苦しくないわ。もう、十分休んだから」


 今度こそ、奪わせはしない。


(二度と、殺されてなんてやるものですか)


 ディーナは自分自身に固く誓って、窓の外の幕に覆われた時計塔を見据えた。


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