17.輝く翼
波乱の一夜のあと。
夜会の最中、某辺境伯家の令嬢が階段をうっかり踏み外し、それを火の公爵家の令息が身を挺して救ったという顛末は、暇人ぞろいの社交界で格好の話題となった。
特に人々の関心を引いたのが、その令嬢は社交界の花形である四大公爵家の令息二人から同時にダンスを申し込まれ、身の程知らずにも両方を手酷く断ったらしいということだった。
オスカーが辺境伯令嬢にひとめぼれをして気を引くために身体を張ったのだとか、逆に令嬢がオスカーの気を引こうと自作自演を企てたのだとか、更には「公子様方のお情けを無下にした愚かな女が天罰を受けただけだというのに、よりにもよってその女の下敷きになるなんて………オスカー様本当におかわいそう!」だとか、好き放題の言われようらしい。
容姿が取り立てて見どころのない凡庸さであることも相まって、ディーナの社交界での評判は早々に芳しくないものとなってしまった。
ディーナが階段から落ちたことは、特に問題のない事故として処理されたようだ。
ひとりの令嬢が不注意から階段で足を踏み外し、偶然そこに居合わせた公爵令息が令嬢を救った。
それだけの美談だ。
夜会にいたほとんどの者がその美談を信じ、疑うことはない。
見抜いたのは、オスカーだけだ。
ディーナが自ら階段を踏み外したわけではなく、何者かに故意に突き落とされたのだということを。
事件のあとの控え室で追及されたとき、ディーナは言葉を濁したが、彼を誤魔化しきることはできなかった。
もちろん彼が懸念するように、大夜会の襲撃事件の余波でディーナに危険が及ぶ可能性があることは否定できない。
しかしあの事件の標的がオスカーであったことを考えると、計画の邪魔をしただけのディーナの方を優先して狙うのはおかしな話だ。
だから今回の件は、オスカーとはまったく無関係だということもあり得る。
迷った末、ディーナは事件を詳らかにすると主張したオスカーの口止めをし、ノルベルトにも真相を話さなかった。
証拠も目撃者もなく、不確かな責任問題で辺境伯家と公爵家の関係を微妙なものにしたくはない。
ただ、犯人の顔を見られなかったことが悔やまれた。
相手の目的がディーナを脅すことではなく、害することであったなら、目的は果たされなかったということになる。
あの瞬間に感じた明確な害意と突き飛ばされた感触を、簡単に忘れ去ることなどできない。
これ以上何も起きないと考えるほど、楽天的にはなれなかった。
******
ある晴れた日。
ディーナ宛にいつもの花束と小さな贈り物が届いた。差出人はもちろんオスカーだ。
添えられたメッセージカードには、オスカーの筆跡で『魂に翼をもつ君に』と短い言葉が記されていた。
ディーナはカードを手に取り小首を傾げる。
(翼を持つどころか、無様に階段から墜落したところを目にしたはずだけれど)
皮肉だとしたらずいぶん痛烈だが、オスカーはそのような当てこすりを好む人間ではない。
不思議に思いながら、ディーナは贈り物をひらいた。
「………きれい………」
自然と、感嘆の言葉が漏れる。
小箱の中に敷かれたビロードの中央に宝飾品のように納められていたのは、美しい栞だった。
透かし彫りのように薄く精緻な模様に造形された白銀色の金属は、鳥の片翼を模している。
透かし彫りの隙間の部分には、薄くなめらかに加工された宝石がステンドグラスのようにはめ込まれており、翼の先端からは細く繊細な鎖が垂れ、鎖の先に一粒の空色の宝石が輝いていた。
「わあ………素敵です! こんなにきれいな栞、初めて見ました。宝石がお嬢様の瞳と同じ色ですよ!」
ケイトが弾んだ声で言った。
確かにこの宝石の色は、ディーナの瞳の色に合わせたものだろう。
製作期間を考えれば、この品が宝飾店にオーダーされたのは、ディーナが階段から落ちた夜会よりももっと前のはずだ。
(図書館で会ったからかしら?)
読書好きだと思われたのかもしれない。
空想の翼を広げている、という意味だろうか。
前世では覚えのない贈り物だ。
前世では、国立図書館には一度も行くことはなかったし、ディーナが本好きかどうかという話を、オスカーとした覚えすらない。
行動を変えたことで、すでに前世とは異なる出来事がいくつも起きている。
この栞も、その変化の証のひとつだ。
この翼は、ディーナをどんな未来へ運ぶのだろう。
ディーナは自分の背に白銀色の翼が現れ、力強く羽ばたくイメージを思い描いた。
栞を指先でつまんで目線の高さまで持ち上げてみる。
淡いステンドグラスの光を内包する白銀色の翼と空色の宝石が、陽の光を受けてキラキラと輝いた。
(あのとき、なぜ殺したの? 今度は、なぜ助けたの? なぜ………)
ここにいない人に問いかける。
ディーナが突き落とされたとき、オスカーはディーナの真下に居合わせたわけではない。
落下するディーナを見て、祝福者としての驚異的な身体能力を駆使して飛び込んできたのだ。
迷いなく、己の犠牲を厭わず、すべてを擲って。
決死の覚悟を決めた瞳に炎の軌跡を描いて。
前世のオスカーと現世のオスカーが矛盾する。
ディーナが変わったことで、彼が影響を受けたのだろうか。
………そうではない。
オスカーはずっと、優しくて責任感の強い人だったはずだ。前世も、そして現世も、変わらずに。
ではなぜ、前世はあんな結末だったのだろう。
最期に聞いた彼の声には、どんな感情が乗せられていたのだったか。
『苦しい?』
窓の外の木から、一羽の鳥が羽ばたき飛び立つ音がした。
はっと我に返る。きらりと陽の光を反射した栞が、物思いに沈んでいた思考を現実へ引き戻した。
記憶の中からの呼び声を振り払い、ぱちぱちと瞬いてもう一度栞をじっと見つめる。
空色の美しい宝石。
以前贈られたドレスの澄んだ青い色もとても綺麗だった。
前世でも現世でも、オスカーはディーナへの贈り物に、榛色や紅色といった彼自身の色を入れることはない。
贈り物に己の髪や瞳の色を含んだ宝石や布を使うことは、想い人に対する執着や独占欲を表すためのよく知られた手法だが、ディーナがそのような品を彼から受け取ったことは一度もない。
今思えば、それはオスカーの意思表示であったのかもしれなかった。
(前世は、恋心が偽りであるという暗喩。そして現世の彼にあるのは、受けた恩に対する義務や責任感だけ。わたしへの独占欲なんて、そもそもあるはずがないのよ)
最悪の結末を回避するためには、勘違いをして彼に近づきすぎてはいけない。
今度こそ、間違えてはならない。
彼との離別で、翼をもがれたように胸が痛むのだとしても。
ディーナは寂しく笑って、罪のない美しい空色の栞を指先でそっと撫でた。
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