15.予兆3
無益な愚痴をつぶやきながら時間をつぶしたあと、控え室の扉を薄く開けて周囲を窺う。
さすがにディーナを待ち伏せまでしているようなもの好きはおらず、ほっと息を吐いて控え室を後にした。
先程は口実に過ぎなかったが、やはりノルベルトと合流するべきだと思い直す。
ホールへ降りるために廊下を進むと、人気のない場所で女性がぼんやりと窓の外を眺めている姿が目に入った。
(あれは………エーデルシュタイン公爵夫人だわ)
先程巻き込まれた騒動を思い出してディーナは一瞬眉を下げたが、公爵夫人がハンカチを口元に当て、少し顔色が悪そうに見えるのが気にかかった。
結い上げられた金色の髪と伏し目がちな薄茶色の瞳。
装飾が控えめで上品なドレスの胸元には、公爵家の権威を示すにふさわしい豪奢な翡翠の首飾りが輝いている。
ディーナの母と年齢もそう変わらないはずだが、公爵夫人は線が細く、儚げな女性だった。
若い頃はさぞかし衆目を集める嫋やかな美しさだったに違いない。
しかし心労からか頬はこけ、血色も悪く、表情も暗く沈んでいる。
ディーナの父は母を『か弱く美しい』と評するが、その言葉が真に当てはまるのはこういう方なのだろうと思う。社交界から遠ざかるべきなのは、むしろ公爵夫人の方かもしれなかった。
「お加減がよろしくないのですか。人を呼んで参りましょうか?」
うしろから声をかけると、ビクリと公爵夫人の肩が大袈裟に揺れた。大きな声ではなかったのだが、ひどく驚かせてしまったらしい。
「……い、いいえ、結構よ……いつものことなの。その、人が大勢いるところはあまり好きではなくて」
公爵夫人は自らをなだめるように胸元をさすりながらどうにか微笑みを作ったが、なにかに怯えるように視線を彷徨わせている。
四大公爵家の夫人という地位は、王族を除けば女性としての最高位であると言っても過言ではない。
しかし消え入りそうな声で途切れがちに話す彼女の姿は、あまりに頼りなく、儚げだった。
慣れない人間と接するのが得意ではないのかもしれない。
そっとしておくべきだったかと、声をかけたことをディーナは後悔し始めていた。
「夫を待たせてはいけないから……もう少し休んだ後、ホールに戻るわ」
「そうですか。ご無理なさいませんように」
「ええ……健やかな方は、うらやましいわ……ほんとうに」
最後の言葉を話すときだけディーナを正面から見て、公爵夫人は諦観を滲ませた儚い笑みを浮かべた。
ディーナはそれ以上なにも言わず、カーテシーをしてその場を離れた。
******
宴が進み、かなり場もくだけてきていた。
控え室を利用する目的の者や休憩を終えて宴に戻ろうとする者が行き交い、ホールの上階にもそれなりに人の流れができている。
階下からは音楽が聴こえてくるが、テンポがゆったりとして、踊るよりも聴かせるための曲のようだ。
酒を片手に賑やかに談笑したり、軽食に手を伸ばしている者も多かった。
ディーナは階上からホールを見下ろしながら、ノルベルトの姿を探したが、それらしき姿は見当たらない。
(どこにいるのかしら、お父様)
ディーナはホールへ戻ろうと、階段へ足を踏み入れた。
あとから考えれば、ディーナにも反省すべきところはあったのだ。
ぼんやりとホールを見ながら階段に足をかけたのがまずかったのだろう。
幅広の階段で手摺を掴めない位置で歩いていたことも、迂闊と言われても仕方がない。
気がつけば、ディーナの身体は宙に投げ出されていた。
(まずい)
息を呑んで、ひゅっと喉が鳴る。
背筋の凍るような浮遊感に襲われ、本能的に縋るものを求めて手が宙を掻くが、なにも掴むことはできない。
同じように階段を歩いていた人達の驚く顔が、やけにはっきり見える。
空を切って、ただ落ちていく。
(どうやって受け身を)
(頭はダメ)
(足、なら)
奔流のごとく流れる思考も、現実にはほんの瞬きひとつ。
避けられない怪我が最小限で済むようにと覚悟を決めたそのとき―――真下に飛び込み両手を広げた誰かと、目が合ったような気がした。
「………っ‼」
空中で抱きとめられ、そのままもろともに落ちてゆく。
上下もわからずもみくちゃになりながら転げ落ち、最後に叩きつけるような衝撃とともに最下段まで行きついて、やっと止まった。
しんと水を打ったように音が止み、直後に女性の悲鳴がどこか遠くから響く。
身体を打ったせいか、息が詰まって思うように呼吸ができない。
水中で空気を求めるようにはくはくと口を開き、一瞬遠のきかけた意識を無理やり引き戻す。
ここで気を失うわけにはいかない。
身を挺してディーナを庇ったひとは、ディーナを強く胸に抱き込んだまま、ぴくりとも動かないのだから。
抱え込むように閉じられた腕の中から見上げる。
「………オスカー様? オスカー様っ⁉」
呼びかけに反応がない。ディーナは階段を落ちるよりも強い恐怖で蒼白になる。
オスカーの服にしがみついた指先に震えが走った。
「しっかりしてください! オスカー様‼」
必死の呼び声が届いたのか、ディーナの身体に回された腕に、僅かに力が籠った気がした。
ディーナがはっと息を呑んだそのとき。
「はいはい、ちょーっと動かさないでよー?」
場違いなほど緊張感のない声がした。
「ほら坊ちゃん、ディーナはキミがちゃんと護ったから無事だよ。だから安心して手の力を抜きな。でないとディーナが潰れるよ?」
子供を落ち着かせるような優しい声で話しかけながら、意識がないように見えるオスカーの腕を半ば強引にこじ開け、ディーナを引っ張り出す。
目の前に現れたのは、濃紺の髪を奇抜な形に結い上げ、少し毒々しい紫色のドレスを身に纏い、眼鏡をぴかりと光らせたシアだった。
「シア………⁉ どうして」
「諸々聞きたいだろうけど、それはまたあとで。先にこの坊ちゃんの状態を確かめないとね」
シアは混乱するディーナの言葉をぴしゃりと遮ると、芯のある声で呪文の詠唱に入った。
しっかりとした声で詠唱されているのは、おそらく患者の全身状態を把握するための医療魔術だ。
浮かび上がった魔術陣がオスカーの身体を通り抜ける。
魔術陣が消えると、シアはふうっと息を吐いた。
「ん。大丈夫。軽い脳震盪を起こしているようだけど、打撲程度で骨折も臓器の損傷もなさそうだ。さすがは祝福者ってところかね? いやあ、頑健だ」
シアはどこか呆れたように呟くと、手早く同じ詠唱を繰り返し、今度はディーナを診察した。
魔術陣の光がふわりと身体を駆け抜け、瞬く間に消える。
「よし、キミも問題なし。さすがに打撲はあるけど、大階段の最上部から落ちたにしては御の字だ。坊ちゃんに感謝しないとね」
シアはいつの間にか周囲にいた屋敷付きの衛兵や従僕にテキパキと指示を出す。
「ふたりとも初級ポーション一本で完治する状態だけど、少し休ませた方がいいだろうね。控え室まで運んでくれる?」
皆、シアの堂々とした振る舞いに完全に呑まれ、計らい通りに進んでいく。
そしてパンパンと大きく両手を打って、一様に口を開けて成り行きを見守るしかなかった周囲に呼びかけた。
「軽傷だから、なーんにも問題ナシ! 以上、解散! 夜会の続きをお楽しみあれ!」