14.予兆2
「これは失礼、ご令嬢。前を見ていなかった。許してほしい」
「まあっ、ミハエルさま………!」
シェリルが頬を紅潮させ、うっとりと声を上げた。
風の公爵家令息ミハエルは、オスカーのひとつ上の二十二歳だ。
藁色の髪に、明るい萌黄色の瞳。『物語に登場する王子様のような』と称される華のある容貌で、現在、王都での女性人気をオスカーと二分する人物だ。
しかし、オスカーの方は周囲が一方的な羨望を寄せるばかりで、本人は隙の無い堅物と言われる男性であるのに対し、ミハエルには常に女性の影があり、艶聞に事欠かない大層な遊び人だと言われている。
『取っ替え引っ替え』で、泣かされたご令嬢は数知れないとか。
事実ならば、女の敵である。
「ああ、今宵も輝いていらっしゃるわ………」
シェリルの感極まった囁きを聞いて、毒牙がここにも届いているのかとゲンナリする。
「ごきげんよう、ミハエルさま。お目にかかれて光栄ですわ」
「ああ、シェリル嬢か。久しぶりだ。こちらの令嬢は………初めまして、か?」
頬を赤らめ弾んだ声で挨拶するシェリルに、ミハエルは儀礼的に整った笑顔と愉快そうに作った声で応えた。
シェリルは甘えるような上目遣いでミハエルを見上げたが、ミハエルの方は特にそれ以上シェリルと話を続ける様子でもない。
それなら特に用もないはずなのに、どういうわけか立ち去ることもなく、じっとディーナを見下ろす気配がする。
ふたりの視線は合っていない。
なぜならディーナはずっと、ミハエルから視線を逸らし続けているからだ。
「君、どうしてこちらを見ないんだ?」
「………はい?」
「緊張しているだけとも思えないが。不自然に顔を背け過ぎじゃないか?」
「………そのようなことは」
実は、ディーナはミハエルが少々苦手だった。
前世で、なにかとオスカーに絡もうとするミハエルの敵愾心に、頻繁にディーナも巻き込まれたからだ。
『そんな地味な女のどこがいいのか』だとか、『女に牙を抜かれて腑抜けたのか』だとか、オスカーとディーナが一緒にいるときに顔を合わせると、何かにつけて言いがかりをつけてくる。
別にオスカーのパートナーがミハエルの好みのタイプである必要などないのに、余計なお世話である。
オスカーは短気な方ではないが、そんなことが繰り返されればさすがに煩わしいようで、小競り合いになることもあった。
陰でなにかを仕掛けるような陰湿さはないものの、非常に面ど………苦痛だったのだ。
頑なに視線を合わせないディーナに焦れたのか、ミハエルが不機嫌そうに尋ねた。
「名前」
「………はい?」
「君、名前は?」
横柄な物言いに腹立たしくはあったが、身分は彼の方が上だ。答えようと口を開きかけたとき、予想外の人物がその場に割って入った。
「探しましたよ、ディーナ?」
いつの間にか、ディーナの横にオスカーが立っていた。
助けが入ったと素直に喜びたかったが、顔ぶれを考えると話が面倒な方へ転がりそうな予感がして顔が引き攣った。
「オスカー様………」
「おや、他人行儀ですね。図書館での約束をお忘れですか?」
良い顔で微笑むオスカーに対し、ディーナはぐっと言葉に詰まった。
さすがに公の場でオスカーの名前を呼び捨てにすることは身分的に問題がある。
それこそ、婚約者でもない限りは。
しかしオスカーはそれ以上その問題を追及しなかったので、ディーナは内心ほっとした。
「ところで、これはどういった集まりなのです?」
ディーナとミハエル、そしてシェリルをちらりと見渡して、オスカーが尋ねた。
「ヴァールハイト、君に用はないんだが」
「僕もあなたに用はありませんよ。しかしこちらのディーナ嬢は僕の大切な友人でしてね。君の花園へ無垢な花が迷い込むのは許容できませんから、迎えに来たのです」
「ヴァールハイトの友人⁉」
ミハエルが大きく目を瞠ってディーナへ向き直る。
彼は群がる令嬢を例えた花園という揶揄ではなく、オスカーの友人という言葉の方に強く反応した。
ディーナは、妙な予感にひやりとする。
オスカーの方にも何故か、隠し切れない苛立ちが感じられた。
以前であれば、これくらいの状況なら、もっと上手くミハエルをあしらえていたのに。
ミハエルが、オスカーをじろりと挑戦的にねめつけた。
「この令嬢には今、ダンスを申し込もうとしていたところでね。邪魔をしないでもらえるとありがたいのだが」
(え?)
ディーナはぱちぱちと瞬いた。
そんな素振りはなかったはずだ。急な話に驚いてミハエルを見る。
「それは困りましたね。僕の方が先に申し込んでいたはずなのですが」
(え⁉)
今度は慌ててオスカーの方を振り向く。
こちらにも、そんな話をした覚えはない。
「しかし、今夜の彼女のドレスは、俺の目の色と近いだろう。俺と踊る方がふさわしいと思わないか?」
「ええっ⁉」
思わず素っ頓狂な声を上げて慌てて扇で口元を覆ったが、ミハエルはオスカーを挑発するように口角を吊り上げた。
もちろんディーナのドレスとミハエルの瞳の色など、関係があるはずもない。
そんなことは誰の目にも明らかで、とんでもない言いがかりにディーナは眩暈がしたが、それを聞いたオスカーの気配はぐっと冷たさを帯びた。
ミハエルには知りようのないことだが、ディーナは今日、オスカーに贈られたドレスを着ずに夜会へ来ているのだ。
間の悪さに冷や汗が流れる。
不穏な表情で静かに睨み合いだし、じりじりと険悪になるふたりに困惑し、ディーナは思わず周囲を見回す。
近寄ってくるものはいなかったが、好奇に満ちた人々の視線が集まっていることに気づき、ディーナは行動を即決した。
「あの!」
突然、きっぱりとした声を上げたディーナに、皆がはっとして注目する。
「ご歓談中申し訳ありません。わたし、………急ぎ、父を探しに行かねばなりませんので。お先に失礼させていただきます!」
取ってつけたような理由しか捻りだせなかったが、それでもとにかくこの場から消えたかったディーナは、すばやく完璧なカーテシーを済ませると、制止される前に脱兎のごとく逃げ去った。
現場からかなり遠ざかったあとでシェリルを残して来てしまったことに気づいたが、シェリルはミハエルと会えたことを喜んでいる様子だったので問題ないだろう。
集まってしまった人目を振り切りたくて、ディーナは休憩用に設けられた控室のひとつに駆け込むまで足を止めなかった。
控え室の扉を乱暴に閉めると、ディーナはソファにどかりと座り、テーブルに突っ伏した。
どうしてあの場にオスカーが現れたのか。
発言の内容からすると、遊び人と評判のミハエルからディーナを引き離そうとしてくれたのだろうか。
目論見とは逆に衆目を集めてしまい、大変な目にあったが。
ミハエルは確かにモテるし遊んでもいるが、見境なく手を出しているわけではなかった。
基本的に女性からの求めに応えているだけで、自分から声をかけているところは見たことがない気がする。
そして特定の相手に執着することもない。
前世のディーナに対しても、オスカーが懸念したような色めいた危険にあったことはなく、いいようにけなされていた覚えしかない。
むしろオスカーが関わらなければ、ディーナのような地味な女はミハエルの視界に入らないのだ。
今日、会話する羽目になったのは偶然ぶつかったことが原因で、ダンス云々の話もオスカーが割り込んできたあとのことで、明らかなあてつけだ。
つまりオスカーの介入で話がややこしくなったことは間違いない。
「はあ………前世と全然違うし………」
衆人環視の中、公爵家の令息ふたりとの些細な会話が、この夜会のあとでどんな尾ひれをつけるのか考えたくもない。
(ああ………本当に気が重いわ………)
ディーナはしばらく魂が抜けたように身動きが取れなかった。
お読みいただきありがとうございます。