13.予兆1
子供を産まない女性に対するややネガティブな表現が一部に含まれます。
苦手な方はご注意ください。
オスカー襲撃事件の噂の鮮度が落ちてきたころ、まったく別のニュースが王都で不穏に囁かれた。
いくつかの領地で中型の魔獣が現れたという。
ガイスト王国は、魔獣による被害が諸外国に比べて極端に少ない。
明言されているわけではないが、それは精霊の加護による恩恵だと人々には認識されている。
大型の魔獣による被害は天災と等しい規模になることもあるが、この国にはそのような大型どころか、中型の魔獣でさえ現れることはほぼないと言っていい。
加護の網をすり抜けるように小型の魔獣が現れることはあったが、それらの脅威は野生の獣とさほど変わりはなく、対処も難しくはない。
―――それが、今までの常識だった。
その常識が覆される出来事が起きたのだ。
しかも中型魔獣が確認されたのは一か所だけではない。
大きな被害は出ていないものの、今まで無条件で信じられていた安全が脅かされたことは、にわかに国民を不安にさせた。
しかしその話は、ディーナにとっては別の意味を持っていた。
中型魔獣の出現は、ディーナの知る前世でも確かにあった。
ただ、時期が違う。
もっと先、ディーナが死ぬ少し前のタイミングだったはずだ。
巻き戻り後のディーナの行動が、魔獣の出現時期にまで影響があるとは思えない。
なのに、なにか得体のしれないものが背後から忍び寄ってくるような嫌な感じがする。
(杞憂で終わればいいのだけれど)
しかしディーナの懸念は、後から思えば、予感のようなものだったのかもしれない。
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「よかったのか?」
ノルベルトは具体的になにがとは言わなかったが、少し複雑な顔でディーナに尋ねた。
今夜ディーナが纏っているのは瑞々しい若草色のドレスで、もともと辺境伯家で用意していたものだ。
オスカーから青いドレスが贈られたことは、ノルベルトも知っている。
ヴァールハイト家との縁談がまとまれば、シュネーヴァイス家にとっては喜ばしいことに違いない。
しかしノルベルトは、この唐突な婚約話がディーナにとって本意ではないことを感じ取っているようだ。
その上でディーナに判断をゆだね、自分は沈黙を通している。
どのような結論になるとしても、ディーナの意思を尊重してくれるつもりなのだろう。
唇に笑みを乗せてディーナは頷いた。
「いいのです。これで」
頼もしい父の腕を取って背筋を伸ばし、ディーナは夜会へと向かった。
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「おお、エーデルシュタインの……。最近は御一家そろった姿をお見掛けしなかったのだが。めずらしい……」
誰かが興奮を抑えた小声で話しているのがディーナの耳にも届いた。
反射的に眉をしかめてしまったことに気づき、あわてて自分の眉間を揉み解す。
『風の公爵家』、エーデルシュタイン家は、オスカーのヴァールハイト家と同じく、精霊の加護を受けた一族のひとつだ。
公爵夫妻に、令息がひとり。
奇しくもヴァールハイト家と同じ構成だが、こちらは少々事情が違った。
エーデルシュタイン公爵と夫人の間に実子はいない。
公爵令息のミハエルは愛人が産んだ庶子で、公爵夫妻の間に後継者が生まれなかったことにより、八歳の時に公爵家に引き取られた。
公爵は子を成せなかった夫人や、祝福者の力を授からなかったミハエルにも関心を寄せず、家族仲は冷え切っているという。
しかし祝福者としての力が得られないのは、ミハエルに限ったことではない。
エーデルシュタイン家は、確かに風の精霊の加護を授かった家門であるはずなのだが、祝福者が何世代も生まれていなかった。
それは、数代前に家門から出た罪人が精霊の怒りを買い、加護を失ったためではないかと、まことしやかに囁かれている。
真偽は不明だが、祝福者のいない風の公爵家は、オスカーという祝福者を擁する火の公爵家を忌々しく思っているに違いないというのが世評だった。
ミハエルとオスカーは年齢も近い。
二家が比較の対象となってしまうのは、ある程度仕方がないことではあるのだろう。
「あらぁ?」
急に顔を覗き込まれ、ぱっと思考が飛んだ。
瞬きながら見返すと、どこかで見た覚えのある顔立ちの女性が、目の前に立っている。
キャンディピンクの髪が揺れて、ディーナの記憶をくすぐった。
「ああ………大夜会のときの」
「まあぁ、またお会いしましたわね!」
大夜会でグラスを落としそうになった女性だった。
今日もレースをふんだんにあしらった華やかなドレスを身に纏い、扇で明るい色の紅を引いた口元を隠しながら、檸檬色の目を眇めて機嫌よさそうにうふふと笑っている。
「先日は楽しいものを見せていただきましたわ。そういえばまだ名乗っていませんでしたわね! わたくし、デルファ侯爵家のシェリルと申しますわ」
「ご丁寧にありがとうございます。シュネーヴァイス辺境伯家のディーナと申します」
ディーナは膝を折って挨拶をする。
改めて見れば、ディーナよりいくつか年上だろうか。
しかし無意識なのか、狙ってのものなのか、着ているドレスのデザインや立ち居振る舞いから、実年齢よりもやや幼い印象を与える。
揺れるキャンディピンクの髪と、夢見るような檸檬色の瞳。よく手入れされた白い肌と、己の望みが叶うことに慣れた自信に満ちた甘い声。
シェリルはまさに箱入りで育った高位貴族の令嬢らしい令嬢に見えた。
「ディーナさまは今宵はどなたといらっしゃいましたの?」
「父です。今は別行動ですけれど」
「そうですのね。ということは、ディーナ様には特別なパートナーはいらっしゃいませんの? 恋人とか………婚約者ですとか」
ほぼ初対面の相手とも言えるディーナに、シェリルは特に遠慮する様子もなく切り込んでくる。
このような場に顔を出す令嬢の最大の関心事は、国際情勢や経済の動きなどではなく、恋の話、縁談の話なのだ。
「決まった方はおりません。いつか良いご縁があれば良いのですが」
ディーナはあまり恋の話が得意ではない。
恋と無縁だったわけではないが、そのような話を年齢の近い令嬢たちと共有することがうまくできなかったのだ。
はぐらかすように当たり障りのない返事をしたディーナに対し、シェリルは目を細めた。
つまらない言い訳のような言葉を、恋愛至上主義のご令嬢はお気に召さなかったらしい。
「まあ! いけませんわ、そのように消極的な考えでは。このような夜会では是非、意中の殿方とお近づきにならなくては!」
シェリルはパチンと音を立てて扇を閉じると、下手な誤魔化しは許さないとばかりに意気込んで身を乗り出した。
熱量に圧倒されたディーナが思わずあとずさると、タイミング悪く誰かにぶつかってしまった。
「すみませ………、っ⁉」
反射的に謝りながら振り返って、盛大に顔が引き攣る。
そこにいたのは、風の公子、ミハエル・エーデルシュタインだった。




