10.国立図書館は騒々しい2
叫び声が上がった方を振り返ると、積み上げられていた大量の本が見事に崩れ落ち、その下で何かがモゴモゴと蠢いているのが目に入った。
誰かが椅子に座ったまま、雪崩のように崩れた本に埋まったのだと気づき、あわてて助けに入る。
上から一冊ずつ本を取り除き、隣の空席のキャレルに積んでいく。
粗方本が取り除かれ、「ぷはーっ」と息を吐いて頭を上げたのは、ずいぶんと小柄な少女だった。
本のつぶてに蹂躙されてもしゃもしゃに乱れた濃紺の髪に、ぴかりと光る灰色の瞳。
少女はずり落ちた眼鏡を押し上げながら、救い手のディーナを振り仰いだ。
「いやあ~、助かったよ! うっかり居眠りして夢見たらビクッてなって、積んでた本が雪崩起こしちゃって。まいったねこりゃ」
くあっと大きな口を開けてあくびをしながら立ち上がり、崩れた残りの本を拾って積み上げる。
分厚い事典から薄い冊子までかなりの冊数があるが、ざっくり見ると植物に関するものが多いようだ。
「助かったよホント」
「怪我はありませんか?」
「いや、平気。あ、敬語もいらない………っていうか、アタシの方が敬語が必要なのかな? ゴメン、敬語苦手なんだ」
「ううん、大丈夫よ」
暗に「敬語が必要な身分なのか」という問いかけに、笑いながら敬語を崩してディーナが答えると、少女は満足そうにニカッと笑った。
ふたりで手を動かし、元通り積み上がった本はずいぶんな高さになった。
「よかった。アタシはシア。ここへはよく来るんだ。よろしく」
踏み込んでくる距離感が不快ではなく、向けられる真っ直ぐな目が気持ちいい。
不思議な魅力のある少女だった。
シアが差し出す手を、ディーナはしっかり握り返した。
「ディーナよ。よろしく。わたしは今日初めて来たの」
「へえ。意外だな。アタシと似たような人種かと思ったんだけどね。………うん?」
シアは何かに気づいたように目を丸くすると、ディーナと握手していた手をそのまま自分の鼻先へ持っていき、唐突にすんすんと匂いをかいだ。
ぎょっとして手を引いたが、シアはあっさりディーナの手を離したあとも、鼻をぴくぴくと動かし、人差し指で鼻の頭をとんとんと押し何かを思案している様子だ。
「キミ、不思議だね。なんかイイ匂いがする」
「えっ⁉」
「うーんなんだろ? あんまり嗅いだことのない匂いだ」
ディーナが困惑してシアを見つめると、シアは鋭い灰色の眼でディーナを見つめ返し、眼鏡の蔓を持ち上げた。
「アタシ、この通り生まれつきちょっと眼が弱いんだけどさ。その代わりなのか、すっごく鼻が利くんだよ。アタシの専門は薬草学だから便利なんだけど、それだけじゃなくて………実は、魔術の匂いも嗅ぎ分けられるんだ」
「ええっ………⁉」
魔術に匂いがあるなど、聞いたことのない話だ。
しかし、シアが嘘を吐いているようにも見えない。
「アタシが不思議だって言ったのは、キミの香水や体臭のことじゃなくて、キミから立ち上る魔術の香りのことだよ。比較するものがないから表現が難しいけど………ん~、すごく上質な香りみたいだ。オマケに、匂いがひとつじゃない。複雑に混じってるね」
シアの言葉で、ますますディーナは困惑した。
「……わたし、あまり魔力は強くないのよ? せいぜい生活魔術が使えるくらいで、魔術師の素養なんか一切ないわ」
この世界に存在するすべての人間が、潤沢に魔力を有しているわけではない。
どれほど魔力や魔術の研究が進んでも、自ら大きな力を行使できるのは、生まれながらに魔力保有量の多い限られた人間だけだ。
そのような者は魔術師と呼ばれ、どの国においても重用される。
しかし魔術師を名乗れるほどの者が少ないとはいえ、魔力をまったく持たずに生まれてくる者もまたあまりおらず、生活する上で必要な、ほどほどの魔力を備えている者が大多数を占める。
ディーナもこのような大多数のうちのひとりに過ぎない。
「ううーん? そうなのかなぁ? まあ、アタシは他人の魔力量がわかるわけじゃないけどさ。ディーナの場合は量より質ってことなのかもね」
シアがそこまで言ったところで、どこからか『ぐううううぅ~~~っ』という音が聞こえてきた。
ディーナが目を丸くすると、シアがショックを受けたような表情でお腹を抱えた。
「あれっ、アタシ空腹? もしかしてもう昼過ぎてる⁉ ヤバッ、干してある薬草が干からびる!」
まさかの腹時計で時間を割り出したシアが、あわてて帰り支度を始めた。
本人が考えていたよりも寝過ごしてしまっていたらしい。
広げていた記録用具を鞄に突っ込み、先程ふたりで積み上げた本を重そうに持ち上げる。
「返却するなら手伝おうか?」
「いや! いい………う、う~ん。でも初対面の相手に………う~、むむむ。やっぱり頼む! ディーナなら信用できる!」
何で信用されたのかはわからないが、「コレとコレとコレとコレ!」と四冊の本を手渡された。
「その四冊はこっちの本とジャンルが違って、返すエリアが離れてるんだ。これを手伝ってもらえると助かる! 右奥の壁沿いを突き当り近くまで行くと返却する書架が並んでるから。書架の番号と本のラベルを見ればだいたいわかるはずだけど、わからなかったら司書に聞いて!」
シアは早口でしゃべりながら、手近な本からテキパキと書架へ戻し始めている。
あまりにも手馴れている様子に、シアがここへよく来るといった言葉が本当なのだとよくわかった。
司書としてもすぐに働けそうだ。
「じゃ、よろしくディーナ! また近いうちに!」
小さな身体でたくさんの本を抱えたシアは、髪がもしゃもしゃなまま、あっという間に書架の向こうへ消えていった。
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