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プロローグ

初めて小説を書いてみました。


死に戻りのお話なので、稀に死に関する話や流血表現が出てくることがあります。

苦手な方はご注意ください。

でもストレス展開はあまりないので、安心してお読みいただけると思います。


では、よろしくお願いします。






 笑い声が聞こえる。


 いつもはおだやかな落ち着いた声で話すその男は、なにがそれほど可笑しいのか、狂ったように笑い続けていた。


 ひとしきり笑い続け、やがて笑い飽きたように深く長く息を吐きだすと、一面鮮やかな青に染まった庭園へと足を踏み入れる。

 昼下がりの(ぬる)い風が男の足元をすり抜け、踏みしだかれた青い花弁が足跡を追うようにひらりひらりと舞い上がった。


 庭園をまばゆい空のように、あるいは輝く海のように染め上げているのは、初夏に盛りを迎える特別な青い薔薇だ。

 誇らしげに大輪を開き、瞬く間に花期を終える、瑞々しくも儚い乙女のように魅力的な薔薇の開花を心待ちにする者は多い。


 しかし満開の素晴らしい薔薇を前に、男の目を占めるのは清涼な青ではなく、凄烈な赤だった。




 ぽたり、と雫が落ちる。


 庭園奥に設えられた東屋の中で、ディーナは力の入らない身体を長椅子に投げ出し、己の血だまりに身を浸していた。

 長椅子は真紅の薔薇にも似た不吉な色を吸い上げ、鈍く濡れ光っている。


 喉から漏れる呼気は奇妙に熱く、なのに身体は凍えるように冷たい。

 その不快さに思わず身震いをすると、長椅子が吸いきれなかった赤い雫がまたひとつ、ぽたりと落ちた。


 強い眩暈に耐え切れず目を閉じると、ゆっくりとひとつ息を吐き、近づいてくる足音に耳を傾ける。

 それはさながら、運命の訪れを告げる音のようだ。



 やがて足音が途切れ、すぐそばに人の気配を感じた。

 ふわりと空気が動き、血と薔薇の匂いに倦んだディーナの鼻腔に、男のまとう涼やかな香りが届く。

 そこにひっそりと混ざり込む、嗅ぎ慣れない香水の残り香とともに。


(ああ………)


 胸の中に灯っていた温かなものが踏みにじられ、昏く深い喪失がディーナを無慈悲に吞み込む。


(……やっぱり、裏切られていたのね………)


 男は少しの間無言でディーナを見下ろしていたが、静かに居住まいを正すと、王女に仕える騎士のような高潔さで跪いた。

 冷えきって動かないディーナの身体を支え、ゆっくりと抱き起こす。

 乱れて顔にかかっていたディーナの長い髪を、男の大きな手がそっと払い落した。


「……ディーナ………」


 男が名を呼ぶ。

 秘密の言葉をささやくような、ひどく優しく、哀しい声で。


 ディーナは重い瞼を震わせ、ほんの少しだけ目を開いた。

 滴り続ける血は波紋を描いて泉のように広がり、あたりはむせかえるような濃い血と薔薇の香りに満ちている。

 焦点は合わず、目に映るすべてが濁り、自分を抱き起こしている人物の輪郭もはっきりと見えない。

 けれど、それが誰であるのかだけは、間違えようもなかった。



「苦しい?」


 男が静かに問いかける。

 慈悲深げに響くその声に、どんな本心が隠されているのか。


(くるしくは、ない)


 痛みも苦しみも、すでに過ぎ去ったあとだ。

 言葉を発する力もなく、ただ首を振ろうとしたが、身体は思うように動いてくれなかった。

 きっともう、残された時間が少ないのだろう。


 自分を裏切った男の声を聞いても、恨みも憎しみも、はっきりとした形を結ばなかった。

 ただ胸の奥を、乾いた音を立て、壊れた何かが滑り落ちてゆく。

 でも、それももう終わる。


 それならば最期に。


(………みたかった、な)


 男の瞳の中にゆらめき輝く、真紅の炎を。

 ディーナがこの世でもっとも美しいと思う色を宿した男の眼差しを。

 魂の中に、焼き付けておきたかった。



 コホリ、とディーナが咳き込むと、咳とともに生温かいものが溢れた。

 頭がぼんやりとして、なにかを思い浮かべようとしても、(ふるい)の隙間から零れ落ちる砂のように、すべてがおぼろげになってゆく。


 ディーナは喪失に抗うように、身を捩ってもがいた。

 薔薇の濃い香りに溺れ、沈む。

 深く。どこまでも深く。


(さむい、とても)


 忍び寄る虚ろな冷たさに身を震わせたとき、男の指先がディーナの唇に触れた。

 血濡れたディーナの口元を拭い、そっと頬を撫でる男の大きな手が、ひどく熱く感じる。

 触れられたところから染み込んでくる肌の熱に、その温もりが愛情からくるものだと勘違いしてしまいそうになる。


 そんなはずはないのに。


 ディーナの(まなじり)から血の色ではない透きとおった雫がひとつ零れ、男の手を濡らした。


「すぐ……楽にな……よ」


 男は言葉とともに短剣を引き抜いた。

 男が肌身離さず持ち歩いている、美しく装飾された短剣だった。

 ゆるやかな絶望が、ディーナを深淵へと引きずりおろしてゆく。


 静謐な光をたたえた刀身を見つめ、男が睦言のように囁く。


「……には…………う………ない………」


 密やかで掠れた声は、ディーナに届くことはなかった。

 もう何も聞こえはしない。愛の言葉も。そして裏切りを告げる言葉でさえも。



 男は、か細い呼吸が漏れるばかりのディーナに顔を寄せると、静かに口づけた。


 清廉な花婿が、初々しい花嫁に永遠を誓うように神聖に。

 (よこしま)な悪魔が、清らかな乙女の息を掠め取るように禍々しく。


 ディーナは凍えた唇に、溶け落ちそうなほどの熱を感じた。

 唇に与えられる熱以外のなにもかもが、淡く遠くなってゆく。



 そして男は口づけを(ほど)かぬまま、短剣の柄を握る手に力を込めるとためらうことなく振り下ろし、ディーナの白い胸へ深々と刃を沈める。



 舞い上がる青い花弁は、ひとつの終わりを嘆く、なにものかの涙にも似ていた。






お読みいただきありがとうございます。

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