6 結婚と不安と王宮
執務室に残された私とオスカー様は、しばらく何も言えず、目を合わすこともできずにいた。
い、居たたまれない……。
こういう場合、どうしたらいいのかしら。
ていうか、今の話の流れだと、その、オスカー様は……。
考えれば考えるほど頬に熱が集まる気がして、顔を上げることすらできない。
気まずい沈黙に支配される執務室の中で、それでも先に声を発したのはオスカー様の方だった。
「しょ、正直に言います。俺は、アリアーネ様が好きです」
「あ……」
「だから本当は、本心を言うなら正式に結婚したい。でも、あなたと俺は少し年も離れてるし、そういう気持ちを寄せられるのは迷惑かと思ったんです。これまで散々苦労してきて、今ようやくここで好きなように生きられるとなったなら、もっと自由を謳歌したいと思うでしょう? だったら俺は、それを全力で支えたいと思いました。その思いで、シューリス伯爵にも手紙を出しました。なので、俺の気持ちを押しつけたいわけではないんです。ブリジットからも、あなたがイライアス殿下に対してまったくそういう気持ちを持ってなかったと聞いて、また無理やりそういう関係を強いるようなことはしたくないと思いました。ただ、さっき話した計画は我ながら妙案だと思って……。多少自分の邪念というか下心が混じっていることは否定しませんが、夫婦の『フリ』と言ったのは、あなたを縛りたくなかったからで」
「でしたら私も、正直に言います」
たまらなくなって、私はオスカー様の言葉を遮った。
本当は、こんな形で口にすべきではないのかもしれないけど。
それでも、ずっと胸に秘めていた想いを、もう閉じ込めることなんてできない。
「私も、オスカー様が好きです。ずっと、お慕いしておりました」
私の告白に、心の底から驚いたといった表情のオスカー様は声も出せないようだった。
そんなに、意外だったかしら……?
「ここに来て、辺境伯領のみなさまにはとてもよくしていただきました。聖女としての役割を強いられ、疲弊しきっていた私がここでの暮らしにどれほど癒されたことか。追放された私を引き受けるなんてどんな面倒ごとが降りかかってくるかわからないのに、誰にも責められることもなければ聖女時代についてあれこれ聞かれることもありませんでした。それはきっと、当主であるオスカー様のご意向だったのでしょう?」
「え、ええ、まあ……」
「そのことに気づいたとき、なんてお優しい方なのだろうと……。それに、ブリジット様の教育係まで提案してくださって。ブリジット様と一緒に学ぶ時間は本当に楽しくて、私は初めて自分の生きる意味というものを見つけた気がしたのです。私にとって心地よい環境を整えてくださったあなたを、好きになるのはおかしなことですか?」
「いや、その、おかしくは、ないです……」
私の勢いに気圧され、戸惑いながらもオスカー様は期待を含んだ目を輝かせている。
少しの間私たちは無言で見つめ合い、それからオスカー様はすっと立ち上がったかと思うと、跪いて私の手を取った。
紺青色の目に、今度は柔らかく甘い色が溶け出している。
「アリアーネ様。ずっとここにいてくれますか? 俺のそばに、俺の妻として」
「……はい」
その精悍な顔を見つめたまま答えた瞬間、私はオスカー様の腕の中に捕らえられた。
「ずっとこうしたかった」という切なげな声とともに。
それからはもう、あっという間だった。
王都へ行く前に手続きだけは済ませてしまおうと、オスカー様が書類を揃えて辺境伯領にある神殿に提出。
私たちは、書類上正式な夫婦になった。
「ほんとにね、私もびっくりですよ」
ブリジット様は、呆気にとられた様子を見せながらもにんまりとした笑みを浮かべる。
「兄様に関してはもしかしてって思うこともあったんですけどね」
「いや、あれはバレバレだろ」
ユージン様はご自分の固有武器である弓を丁寧に磨きながら、事もなげに言い放つ。
「わりと早いうちから、アリアーネ様にそういう気持ちを抱いてたんじゃないかな。我が兄ながら、あそこまでわかりやすい人だとは思わなかったが」
ジェイデン様も磨き終わった自分の斧の感触を確かめつつ、苦笑した。
「こんなにきれいで、聡明で、優しい人だもの。好きになるなって方が、無理よね」
ブリジット様の手には、私が想像していたよりもはるかに大きい両手剣が煌めいていた。独特の装飾は、フルムガールが一つの国だった時代の名残なんだとか。
辺境伯家のきょうだいは、自分固有の武器の手入れを怠らない。
「手入れをしないと機嫌が悪くなるんですよ」とユージン様は話してくれたけど、だからこんなふうに城の最上階に位置する武器庫に集まることも、よくあるらしかった。
「ただ私はね、あんなに一緒にいたのに、アリー様の気持ちにちっとも気づけなかった自分が情けないというか悔しいというか」
「俺だって気づかなかったんだから、お前じゃ無理だよ」
「なんでよ」
「いや、ノエルとだって色気のない手紙のやり取りしかできないお前が、人の色恋なんてわかるかよ」
「ちょっと、今ノエルのことは関係なくない!?」
「まあまあ」
微笑ましさすら感じるやり取りを宥める私に、ブリジット様はちょっと真面目な、それでいてうっとした顔つきになって身を乗り出した。
「でもね、アリー様が義姉様になってくれるなんてもうほんと、夢みたい」
「そ、そうですか?」
「それはそうだよな。兄上が片づかないと、俺たちだって婚約も結婚もできないんだから」
「まあ、今んとこ相手はいないけどな」
「お前はそうだろうけど、俺にはそこそこ」
「は? どこの誰だよ」
「なんでそれ言わなきゃなんないんだよ」
双子が勝手にわちゃわちゃし出したところで、ブリジット様がつつ、と私の隣に移動する。
「ところでアリー様。王都へ行く話なんですけど」
逸る気持ちを抑えられないのか、ブリジット様の目は自身の大剣と同じくらいキラキラと輝いていた。
「兄様から『レヴィア』は持っていっちゃダメって言われたんですけど、やっぱりダメですか?」
「ダメです!」
「えぇーー?」なんてはっきりと不満そうな顔をしながら、「だって、使うかもしれないのに」などと物騒なことをつぶやくブリジット様。
「レヴィア」とは、今ブリジット様が手にしている大剣。朝日を受けて荘厳な煌めきを纏う、彼女固有の武器の名前である。
王都へ行くにあたり、オスカー様はブリジット様も連れて行くことにしたらしい。
私の護衛兼、「ノエルに会いたいだろうから」という余計な親切心からである。
それを聞いたとき、ブリジット様は「そこを勘違いだって言っちゃうとついて行けなくなるかもしれないから、ほんとのことは言わないでくださいね」なんて悪そうな顔をしていたわね。
私だって本音を言えば、王都なんてもう行きたくない。
神殿やイライアス殿下の企み、その足元で虐げられてきた日々、聖女としての生活が私自身を蝕んできた事実は、辺境伯家での安心感や実家であるシューリス伯爵家からの愛情をもってしても、太刀打ちできるものではない。
恐らく、王太子であるイライアス殿下とつながって悪事を働いていた黒幕は、王都神殿の大神官ロエアだろう。
イライアス殿下は聖女だった私と婚約したあとで立太子している。
そして、王太子になると神殿とのかかわりを一手に引き受けるのが慣例とも聞いている。
王都神殿は、大神官であるロエアを頂点とした完全なるヒエラルキー組織だった。
私が大神官と接することはそう多くはなかったけど、それでも特別な祭礼などの際には必ず顔を合わせたし、普段接する神官たちの様子を見ていてもロエアの言うことが絶対なのだという印象はあった。
ロエアとイライアス殿下が通じていたのなら、「癒しの力」を持たないであろうミラベル様を聖女に認定できたのも頷ける。
ほんとに、悪いやつらよね。
ただ、私の追放に関してはイライアス殿下の暴走だったのではと踏んでいる。聖女がいなくなったら、神殿はいろいろと困るもの。
だから私が追放されたあと神殿はだいぶ焦っただろうし、陛下に命じられる前から密かに私を探していた可能性もある。
オスカー様の計画は、確かに妙案だとは思う。
でも、治癒を求めて神殿を訪れた人々から多額の寄付金を集めて私腹を肥やし、強大な権力を振りかざしてきたあの人たちのことだ。
恐らくこのままでは済まないだろうという底知れぬ不安が、私を襲う。
それに、オスカー様は王都でシューリス伯爵、つまりお父様に会わせてくれると言ってくれた。
その気持ちはうれしいのだけど、なんせ8年間も行き来のなかった人である。
これまでの誤解が解け、伯爵家の本心を知り、大丈夫なのだとわかってはいるけれど、それでもやっぱり不安や戸惑いは隠せずにいた。
*****
そして、王都へ出発する前日の夜。
自室のソファに座ってぼんやりしていると、不意にドアをノックする音が聞こえた。
「アリアーネ様、いいかな?」
オスカー様が、辺境伯の私室とつながっている方のドアから顔を覗かせる。
オスカー様と結婚したことで、私の部屋はそれまで使わせてもらっていた客室から辺境伯の私室の隣に移った。
つまり、辺境伯夫人の部屋。
2つの部屋は、一枚のドアでつながっている。わざわざ廊下に出なくても、行き来できる造りになっている。
「どうかしました?」
「いや、夕食のとき、なんだか表情が暗かった気がしたから」
そう言うとオスカー様はソファの隣に座り、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫。絶対に、アリアーネ様を連れてまたここに帰ってくるから」
「はい」
「でも、やっぱり不安?」
「……はい」
私はオスカー様の顔を見ないようにしながら、正直に頷く。
「オスカー様の策を信じられないわけではないのです」
「わかってますよ」
「イライアス殿下やロエアはきっと、オスカー様の策がどうあろうと何かを企んでいるはずなんです。殿下はともかく、ロエアの影響力は計り知れません。私を取り戻すためなら、何だってするでしょう」
「でしょうね」
知らぬ間に固く握りしめていた両手に、オスカー様の温かい手がそっと触れた。
それから両手で私の手を包み込み、右手だけを持ち上げて軽くキスをする。
「あなたが今抱えている不安を、すべて取り去ることはできないと思う。でも和らげることは、きっとできますよ」
そう言って、オスカー様は柔らかい笑みを浮かべて両手を広げた。
私は思い切って、その腕の中ににぽすんと飛び込む。
「アリアーネ様、今日はこのまま一緒に寝ましょうか?」
「え?」
「大丈夫。何もしません。でも不安そうだし、今夜は俺も一緒にいたい」
そう言って、オスカー様は返事を聞く前に軽々と私を抱き上げ、ベッドまで移動する。
手際よく私を寝かせると、流れるような動作で自分も隣に滑り込んだ。
そのまま、私を抱きしめる。
「おやすみ」
額にキスされたと思ったら、しばらくするとオスカー様の規則正しい呼吸の音が聞こえてきた。
な、なにこの急展開!?
オスカー様、寝たの? え、早くない?
もう不安どころの話じゃないし、逆に私が寝られないじゃない!
オスカー様に気づかれないよう(もう寝てるから気づくはずもないけど)、私は小さくため息をついた。
神殿やイライアス殿下のことも、シューリス伯爵との対面にも、どうしても不安を覚えてしまうのは。
それは私たちがまだ、本当の意味で夫婦になっていないから。
要するに、現状はいわゆる「白い結婚」なのよ。
もちろん、オスカー様に愛されてないとは思っていない。
むしろ「大事にしたいから、勢いや成り行きで事を運びたくない」と言われているし、急に決まった結婚だからこそ、私の気持ちを尊重して「アリアーネ様の気持ちが追いつくまで待ちます」と言われている。
でも、本当の意味での夫婦ではないということが、どうしても私を不安にさせる。
胸騒ぎが、してしまう。
*****
次の日、私たち3人は馬車に乗り込み王都へ向かった。
ここへ来たときと同じ道を戻っているのだろうけど、あのときずっと外を眺めていたはずなのに、まったく記憶にないことに驚いてしまう。
それにひきかえ、ブリジット様は初めて辺境伯領から外に出たせいか興奮した様子で、目に映るものすべてに一つひとつ感想を言っていてとても可愛らしかった。
おかげで少し気持ちが和んだけれど、王宮に着いて馬車から降りた途端、どことなく空気が淀んでいるような気がした。
ぞくりと悪寒が走る。
王太子の婚約者だったとはいえ、数回しか訪れたことのない王宮には何の感慨もなかった。
そのまま謁見室に通されると、しばらくしてイライアス殿下と、予想通りの人が入ってくる。
「アリアーネ様。お久しゅうございます」
わざとらしい態度で恭しく頭を下げる、王都神殿の大神官・ロエア。
すべての元凶は得意の薄笑いを浮かべ、余裕ぶった様子でイライアス殿下の隣に並んだ。
「フルムガール辺境伯!」
私たちの顔を満足そうに確認したイライアス殿下の、無駄に偉そうな大声が鬱陶しい。
「よくぞ聖女であるアリアーネ・シューリス嬢を保護してくれた。礼を言うぞ」
なーにが礼を言う、よ。
あんたが追放したんじゃないの。
冷たい視線で睨みつけると、殿下はちょっとだけたじろいだように見えた。
「イライアス殿下」
オスカー様は顔を上げ、その低く冷静な声が謁見室に響く。
「失礼ですが、ここにいるのはアリアーネ・シューリス嬢ではございません」
「は? 何を言う。聖女のアリアーネではないか」
「いえ。ここにいるのは我が妻、アリアーネ・フルムガールでございます」
その言葉に殿下は面食らってぽかんとし、ロエア大神官は不機嫌そうに眉を顰めた。
「どういうことだ?」
「王太子殿下によって魔獣の森に追放された元聖女様を保護し我が邸にお連れしたのですが、その後生活をともにするうちに私たちは愛し合うようになり、婚姻に至りました」
オスカー様は落ち着いた様子で平然と話すけど、堂々と説明されるとかえって恥ずかしくない?
「な、なにを言ってるんだ! アリアーネは私の婚約者だぞ!」
「追放の際、婚約も破棄されたとうかがっておりますが」
「そんなものは無効だ! それにアリアーネは聖女だ! 勝手に妻にできると思ってるのか!」
「しかし婚姻により、アリアーネは聖女の証である『癒しの力』を失ってしまったようです」
「は?」
イライアス殿下は瞬きすら忘れたように、オスカー様の顔を見入っている。
一方のロエアは、恨みのこもったような視線を一瞬だけオスカー様に向けた。
「婚姻し、名実ともに夫婦になった瞬間、『癒しの力』が失われてしまったようです。そうだろう? アリアーネ」
「名実ともに夫婦」というところを蕩けるような目で強調するオスカー様に、私は「は、はい」と答えることしかできない。
本当は違うんだけど。
でもこれ、ほんと恥ずかしい。
「そういうわけで、もうすでに、聖女であるアリアーネ・シューリス嬢は存在しません」
「そうでしたか」
予想外の事実を告げられたはずなのに一切動じる様子を見せず、ロエア大神官は不気味にけろりとした表情をしていた。
「誤解だったとはいえ、無実の罪でアリアーネ様を魔獣の森へ追放処分にしてしまったのです。そのあとの婚姻について、あれこれ異議を申し立てるのは難しいでしょう」
「ロ、ロエア……!」
「しかし『癒しの力』を失ったとはいえ元聖女。今回の捜索は陛下の指示でもあります。お2人の婚姻については陛下にもご報告の上、お許しを請うべきかと」
「それは……」
ロエアの言葉に、これまで悠々として動じることのなかったオスカー様が戸惑った様子を見せた。
確かに今回の捜索は、陛下の指示である。
それに「陛下にも報告を」と言われてしまったら、無下には断れない。
「ただ、陛下は本日、公務多忙のご様子。今日のところはこのまま王宮に留まり、明日改めて陛下への謁見を申し出てはいかがかな」
そこでロエアは、ニヤリと口角を上げた。
オスカー様は有効な反論をすることができず、そのまま私たちは王宮に引き止められることになってしまった。
案内されたのは、どういうわけかオスカー様とは別の部屋。
こういう場合、夫婦は同室に案内されるものなのに、またしてもざわざわと胸騒ぎがする。
おまけになんやかやと理由をつけて、ブリジット様の部屋ともだいぶ離れた部屋になってしまった。
あの2人、明らかに何か企んでいる。
それがわかっているのに、今の私にはどうすることもできない。
じりじりとした焦燥感に駆られながら、うろうろと部屋の中を行ったり来たりしているときだった。
控えめにドアをノックする音がしたかと思うと、返事も待たずにブリジット様が部屋の中に滑り込んでくる。
「アリー様……!」
「ど、どうしたの?」
「アリー様、このままじゃ危険かも……!」