4 流行り病と左目と秘密
「ブリジット様。何故それを、ご存じなのですか?」
さっきまで春の日差しのように穏やかだったアリアーネ様の表情が凍りつき、混乱と戸惑いと疑いの色に侵されていく。
私はその様子を目の当たりにして、自分が生まれて初めて、決定的な失敗をしてしまったことに気づいた。
長く、重い沈黙――――
世界のすべてが音を失ったかのような錯覚の中で、私はアリアーネ様から目を逸らせずにいた。
それでも、思いのほかすんなりと、生まれて初めての覚悟を決める。
不思議と、心は凪いでいた。
「あの、ごめんなさい」
喉から絞り出した声は、それでも少し掠れてしまう。
「アリアーネ様には嘘をつきたくないので、本当のことを言います。でも、これから話すことは誰にも言わないと約束してほしいのです」
「え? え、ええ」
動揺と困惑の最中にあっても冷静さを見失うことのないアリアーネ様に向き合い、私は自分の左目を指差して告げた。
「実は私、左目の視力がほとんどないんです。ほぼ、見えないんです」
「え?」
思った以上に突拍子もない告白をされたアリアーネ様は一瞬呆気にとられ、それから私の左目を食い入るように見つめる。
「ほ、本当に? 見えないのですか?」
「はい。ぼんやりとしか見えません」
「それなのにあんなにお強いの? え、生活に支障をきたすことは?」
「視力を失ったのは、6歳の頃です。以前、お母様が流行り病で亡くなったと話しましたけど、実はその流行り病、私にもうつってしまって」
「まあ……」
「すごく熱が出て、何日もうなされてたらしいんですけど。やっと熱が下がって目が覚めたら、左目がほとんど見えなくなってることに気づいたんです」
高熱にうなされていたときのことはあまり覚えていないけど、目が覚めてすぐ、何かがおかしいと気づいたときのことはぼんやりと覚えている。
でも何がおかしいのか、しばらくはわからなかった。
少し動けるようになってベッドから立ち上がった瞬間、バランスを崩して転んだことがきっかけでもう一度医者に診てもらうことになった。
その結果、左目が見えていないと知らされたときのまわりの反応は、とてもよく覚えている。
「左目が見えなくなっても右目は見えていますし、小さかったのでそういう生活には意外にすぐ慣れたんですよ。それに、お母様が亡くなった悲しさの方が大きくて、なんかもう左目どころの話ではなくて。ただ、兄様たちはとてもショックを受けていて、とにかく辛そうでした。はじめの頃は、危ないからと言って何もさせてもらえなくて」
困ったようにおどけて笑ってみせると、アリアーネ様も困ったような、今にも泣き出しそうな、複雑な表情を見せる。
「そうして何日か過ぎた頃、見えないはずの左目に時々何かが見えることに気づいたんです」
「何かが……?」
「はい。左目に見えるというか、正確には左目を通して頭の中に映像が浮かび上がるようなイメージですかね。はじめは何かわからなくて、兄様たちに『あれ何?』とか聞いていたんですけど、全然わかってもらえなくて。そのうち、これは自分にしか見えていないんだと気づきました。左目に見えるものの意味がわかってきて」
私は数秒だけ視線を下に向け、すぐに決意を新たにして真っすぐ顔を上げる。
「多分私の左目に見えるのは、その人の過去の記憶の断片。戦いの際の一瞬先の動き。それから、ごくまれにですけど、これから起こり得ることも。そういうものが、自分の意志とは関係なく、見えてしまうんです」
アリアーネ様がハッと息を呑む。
そして得心が行ったように、でもどこか苦し気につぶやいた。
「では、私がイライアス殿下に婚約破棄と追放を言い渡された場面が、ブリジット様には見えたのですね」
「恐らくは」
また長い沈黙が流れて、それからいきなり、ふっと空気が緩んだ。
「驚きました。婚約破棄と追放を言い渡された詳細については、ここではもちろん誰にも言っていませんでしたから」
アリアーネ様は吹っ切れたように微笑みながら、空になっていたティーカップにお茶を淹れ直す。
「思い出したくなかったからですか?」
「いえ、単純に、婚約破棄のあとは有無を言わさず魔獣の森に連れてこられて、御者とすら話すことなどありませんでしたから。ここへ来てからも、どなたも聖女時代のことはお聞きにならないので」
「あまり、言いたくないのではと……」
「そうですね。さっきも話した通り、聖女時代は辛かったり苦しかったりであまりいい思い出はないのです」
「それよりも」とアリアーネ様は心配そうに私の左目を覗き込んだ。
「左目のことは本当にどなたも知らないのですか?」
自分のことよりも私の左目を気遣ってくれるアリアーネ様の優しさに、どうしても私の口元は緩んでしまう。
「知らないですね。気味悪がられるかなと思って、言ってないです。でも、戦いのときって相手の次の動きが見えるから、確実に避けられるんですよ。それを見てる兄様たちは、何かあるんだろうって薄々気づいているかもしれません」
「そうだったのですね。でも、よかったのですか? そんな大事な話を私なんかに」
「アリアーネ様には、お話ししても大丈夫かなって。左目の影響かもしれないんですけど、私ってそういう直感は外さないんです」
「まあ」
「ふふ」
私がわざと偉そうな口調で言うと、アリアーネ様もころころと楽しそうに笑う。
そしてひとしきり笑ったあと、まるで気持ちの整理がついたと言わんばかりの澄んだ目をして言った。
「ブリジット様。お返しというわけではありませんが、私の話も聞いてもらえますか?」
アリアーネ様の声には、少しの緊張と不安とが滲んでいた。
それでも、何か特別な覚悟のようなものが感じられて、私は素直に首を縦に振る。
「あ、はい。どうぞ」
「私が聖女と認定されたのは12歳のときです。それから8年間、王都神殿で聖女としての務めを果たしてきました。とにかく忙しく、休む暇などなく、でもそのことに疑問を抱く余裕もないほど疲弊していたと思います。そうして実は1年ほど前から、自分の『癒しの力』の効果が弱くなっていることに気づきました」
「……どういうことですか?」
「以前のようには力が使えなくなっていったのです。治癒にも時間がかかるようになって、毎日神殿に押し寄せる人たちの治癒が間に合わなくなって。時間がかかるのでその日一日の務めが終わる時間もどんどん遅くなっていって、身体的にも疲労が増していって……。王太子妃教育もほとんど進まなくなっていました。本当に疲れ切っていたんです」
まるで他人事のように、淡々と話す声が図書室の床に落ちていく。
「私の力が弱まってどうにもならなくなってきた頃、神殿が突然2人目の聖女を認定しました。これはきっと精霊エリヤのお導きで、私の負担も減るかもしれないと一時は思いました。ですが、もう一人の聖女であるミラベル様が神殿に来て聖女の務めを果たすことはなかったのです」
「聖女なのに? 何故ですか?」
「何故でしょうね? 彼女が本当に『癒しの力』を発現させた聖女だったのかどうか、実際のところはわかりません。でも恐らく、彼女は聖女というよりイライアス殿下の恋人だったのではないでしょうか?」
そう言われて、私はピンと来た。
「あ、もしかして、あの性格悪そうな派手女ですか?」
「まあ、ブリジット様。ミラベル様はお美しい方ですよ?」
アリアーネ様はその言葉とは裏腹の、意地の悪そうな目で笑っている。
「聖女が現れると、王族と婚約もしくは婚姻するという慣習があります。その慣習に従って私とイライアス殿下は婚約しましたが、私たちの間に恋情のようなものはまったくありませんでした。殿下はいつしかミラベル様と恋仲になって、そしてミラベル様と婚約するために彼女を聖女に仕立て上げたのではと」
「え、だって、聖女と認定するのは神殿でしょう?」
「まあ、そうなんですけど。でも王都神殿と王家との癒着については、以前からいろいろと疑惑がありまして」
「まじか」
「そういうわけで、イライアス殿下は恋人のミラベル様を聖女と認定させ、その上で私を『聖女詐称』及び『聖女を虐げた』として断罪し、追放したのではと。私が生きていたら、ミラベル様と婚約し直すことができないかもしれないので」
「そんな、自分勝手な」
「本当にね。私もそう思います」
アリアーネ様の冷め切って呆れたような目が、どこか切なさを帯びていた。
「もとより『癒しの力』は弱まっていましたので、追放されてむしろ良かったのではと思うことさえあります。でもそんなふうに、いろんなことをじっくりと考えて前向きな気持ちになれたのも、ここに来てからです。ここに来てから、私はようやく人として息ができるようになった気がしているんですよ。おいしい食事、十分な睡眠、適度な運動、規則正しい生活にやりがいのある仕事。私がここに来たのは偶然でしたけど、本当にここに来てよかったと、ブリジット様に拾っていただいてよかったと、心からそう思っているんです」
弾けるようなまぶしい笑顔が、またしても私の魂をぶち抜く。
「わ、私だって、アリアーネ様がここに来てくれて、どんなにうれしいか」
たまらなくなって、私はこれまでずっと思ってはいたけど言えないでいたことを、これでもかという勢いで吐き出した。
「さっきも言いましたが、早くに両親を亡くしたことでまわりはみんな私に優しくしてくれたんです。それはもう、寂しいと思う暇もないくらいで。でも同年代で同性の友だちみたいな存在はいなかったんですよ。魔獣討伐や訓練があるのでそう簡単に領地から出ることもできませんし、隣の領地のオルグレン伯爵家は兄弟みんな男だし。だからアリアーネ様が来てくれて、毎日勉強したりおしゃべりしたり、ほんとに楽しくて」
兄様たちや使用人たち、辺境伯領の街の人たちが私のことを不憫に思い、可愛がってくれたことに不満なんてもちろんない。
むしろ、ありがたいという気持ちしかない。
でも、それでもやっぱり「友だち」がほしかった。
同年代の。
できれば同性の。
「だから、来てくださってありがとうございますと、私の方が言いたいくらいなんです」
私がそう言うと、アリアーネ様はまたきらきらと瞳を輝かせ、照れたように頷いた。
「確かに、ノエル様は同年代ではあっても『同性』ではありませんものね」
「そう。ほんとそうなんですよ」
言われてノエルの存在を思い出した私は、そのままの勢いで溜まりに溜まっていたイライラをぶちまけた。
「ノエルのことは、ほんとになんとも思ってないんです。幼馴染の友だちって感じで。手紙のやり取りだって向こうが最初に送ってきたから返事を書いたんですけど、兄様たちはいくら言っても勘違いしたままで」
「あら」
「確かにノエルがまだ領地にいた頃は、時々会って遊ぶこともあったし仲は良かったです。オルグレン伯爵夫妻はうちの両親とも仲が良くて、なので私たちきょうだいにもすごく良くしてくれました。あそこは息子しかいないから、私のことは特に可愛がってくれたんです。でも別に、嫁に行くとかそういう話が出たことはありませんし、ノエルのことをそういう目で見たことなんかないんですよ。なのに兄様たちはノエルがノエルがってほんとうるさい。だいたい、何故ノエルは王都の騎士団に入ったんだと思いますか?」
「力をつけるためでしょう? いつだったか、オスカー様がそう言ってらしたかと」
「違うんですよ、ほんとはね。力をつけたいなら、うちの騎士団に入った方が確実に強くなれます。ノエルはね、単に王都に行ってみたかっただけなんです。ただの軽薄なミーハーなんですよ」
これまでの鬱憤を晴らすかのように畳み掛ける私を興味深そうに見て、それからアリアーネ様はふっと何かに気づいたような顔をした。
「でもブリジット様、ノエル様から手紙が来たときはうれしそうに見えましたけど?」
「ああ、それは、ノエルが王都の騎士団のことをいろいろ書いてくるから。今こんな訓練をしてるとか任務がどうとか、誰が強いとか誰の技がどうとか。そういう情報は大事でしょう?」
「あらま」
「それにね、ノエルは私より弱いんで。私、もしも結婚するとしても、自分より弱い人とは絶対に嫌なんで」
調子に乗ってそう宣言すると、アリアーネ様はちょっと俯き加減で考え込んだ。
そして、
「ブリジット様。誰にも負けたことないんですよね?」
「はい」
「先の動きが読めるから、攻撃を確実に避けることができると」
「はい」
「それでは、あなたに勝てる、あなたより強い人などいないのでは?」
「そうですよ。だから言ったでしょう? 結婚なんかしないでずっとここで魔獣討伐をするんだって」
私は上機嫌ではっきり答えたけど、アリアーネ様は瞬きすら忘れて何も言えず、結局冷めた紅茶を一口飲むしかなかった。