3 幼馴染と手紙と勉強の時間
アリアーネ様がフルムガール城に来てから、数週間が経った。
城での暮らしにすっかり慣れたアリアーネ様は、痩せすぎの感すらあった来たばかりの頃に比べると少しふっくらとして肌艶もよくなり、随分健康的になったと思う。
思えばあのとき、何日間も粗末な馬車に揺られて疲れていたというのもあるだろうけど、そもそも聖女として生きていくことに疲れ切ってたんだろう。
左目を通して見えたその姿は、とてもつらそうだったから。
私たちきょうだいは誰一人として、アリアーネ様から聖女だった頃の話をほとんど聞いていなかった。
何故聖女を騙ったとされたのか、本当に2人目の聖女を虐げたのか、そういったことに関しては私たちから聞くこともなかったし、むしろその話題は避けるようにしていた。
兄様が「王都でのことはあまり触れない方がいいだろう」と言ったのもあるし、それに多分、アリアーネ様はそのことでもう十分傷ついてきただろうから。
せっかく縁あってフルムガールに来たのだもの、何も考えずゆっくり過ごしてほしい。
と思っていたのに、ここでの生活に慣れてきたらアリアーネ様は何かと働きたがった。
「何か、私にできることはありませんか?」
「ありません。侍女たちの仕事を取るつもりですか?」
「まさか。でも私はここに置いてもらっているのです。何かしないと」
「いいんですよ。アリアーネ様はとにかくもう少し休んで、ゆっくり過ごしてください」
「それはダメです。何かやらせてください」
聖女ってなに?
貧乏性なの?
私がアリアーネ様の粘り強さ(しつこいとも言う)にほとほと困っていると、ラルフがくすくすと笑いながら顔を出した。
「ではアリアーネ様、城に届いた手紙の仕分けを手伝っていただけますか?」
「はい! やります!」
アリアーネ様は、小躍りでもしそうな雰囲気でラルフのあとをついていく。
「だいぶ、元気になられたようだな」
去っていくアリアーネ様の背中を、ちょうど執務室から出てきた兄様がまぶしそうに眺めていた。
「なんで黙って休んでいられないかなあ。ゆっくりしてくれればいいのに」
「そういうわけにもいかないんだろう。『置いてもらってる』というのもあるとは思うが、聖女の頃はのんびり過ごすなんてことなかったみたいだし」
「そうなの? 知ってるの?」
「伝え聞いただけだがな。なんせ怪我や病気の治癒を求めて王都神殿に毎日何十人と押し寄せるらしいから。その全員を相手にするような生活を何年も続けていたら、『ゆっくりする』なんて概念はどっかに行っちまったんだろ」
苦笑する兄様を見ながら、私は左目を通して頭の中に映し出されたあの光景を思い出す。
確かに、何十人という人にアリアーネ様は囲まれていた。あの人たち全員を、聖女の持つ「癒しの力」とやらで治していたのだろうか。
「だったら尚更、ゆっくりしてほしいのに」
「そうだな。何か役割とか仕事とかがあった方が、逆にメリハリがあっていいのかもな。あの人にしかできないことがないか、考えてみるか」
ぶつぶつ言いながら執務室に戻っていく兄様は、なんだかとても上機嫌に見えた。
結局、アリアーネ様の滞在に関して兄様が渋い顔をしたのは初日だけだった。
確かに当主としては、おいそれと簡単に引き受けるわけにはいかないわけで。
でも、一旦引き受けるとなったら、何があろうとどこまでも引き受ける。それが私たちフルムガールの誇りであり、兄様の矜持でもある。
しばらくすると、ラルフについていったはずのアリアーネ様が手紙を携えていそいそと戻ってきた。
「ブリジット様宛にお手紙が来ておりましたよ」
「え、ほんとですか? 誰から?」
「ノエル・オルグレン様からです」
「やっと来た!」
「ありがとうございます」と言いながら手紙を受け取った私に、アリアーネ様はにっこりと「どういたしまして」と答えた。
*****
「ブリジット、ノエルから手紙が来てたんだって?」
夕食時、誰から聞いたのか(いや、きっとラルフだ)、兄様が鬱陶しいくらい無駄にニヤニヤした顔をする。
「来てたよ」
「なんて書いてあった?」
「いつもと同じだよ。王都の騎士団の様子とか、任務とか訓練のこととか」
「ったく、色気がねえなあ」
ジン兄様が、呆れたように口を挟んだ。
「色気って何よ。別にそんなものいらないでしょ」
「いやいやいや、せっかく手紙のやり取りしてるんだからさ」
私たちの会話をきょとんとした表情で聞いているアリアーネ様に気づいた兄様が、得意げに説明し出した。
「ノエル・オルグレンはオルグレン伯爵の長男でしてね。オルグレン伯爵領はこの辺境伯領の隣に位置していて、ノエルとブリジットは年も同じ、いわゆる幼馴染なのですよ」
「まあ、そうなのですね」
「去年から、もっと力をつけたいと王都の騎士団に入団しまして。それから2人は手紙のやり取りを」
「いずれはブリジットを嫁に行かせるつもりなんですよ」
「だから! 行かないから!」
ジン兄様のふざけた言葉を、私は速攻で否定する。
「お前なあ、もうちょっと素直になった方がいいんじゃないの?」
「十分素直だし! なんでノエルのとこに嫁に行かなきゃなんないのって前から散々言ってるでしょ」
「可愛げがないと、ノエルに捨てられちゃうよ」
「だーかーらー!!」
「まあまあ」
デン兄様が面倒くさそうな表情で、横から口を出した。
「お前みたいなじゃじゃ馬、もらってくれるのはノエルくらいなもんだろ」
「別にもらってくれなくてもいいです。私はずっとここにいて、兄様たちの魔獣討伐を手伝うんだから」
「いや、お前なあ」
「あ、思いついた!!」
私と双子の兄様たちとの一向にかみ合わない言い争いを、一刀両断する兄様の声。
「アリアーネ様」
兄様は神妙な面持ちでナイフとフォークをテーブルに置き、ちょっともったいぶった様子でアリアーネ様に視線を向けた。
アリアーネ様は突然声をかけられたことに驚いたのか、珍しく頬を上気させて「は、はい」と兄様を見返す。
「アリアーネ様はご実家のシューリス伯爵家にいた頃、令嬢教育を受けてらっしゃいましたか?」
「え、ええ。家庭教師が来ておりましたので……。11歳頃までですが」
「神殿ではどうでしたか?」
「そうですね……。イライアス殿下と婚約したあと、一応王太子妃教育を受けておりました」
「よしっ!」
兄様は小さくガッツポーズをして、今度は体ごとアリアーネ様の方に向き直ると饒舌に話し出す。
「実はお願いがあるのです。ブリジットの教育係を引き受けていただけませんか?」
「まあ」
「は?」
「見ての通り、ブリジットは戦闘能力に関しては誰よりも秀でているのですが、『令嬢』としてはね、このまま外に出すのは忍びない有様でして」
「うるさいな」
「幼い頃に両親を失くしてしまい、残ったのは俺たち男兄弟ばかりでそういったことにはまったく手が回らなかったのです。本人も『強いのが正義』と言って憚らないほどで、令嬢としての嗜みにはまったく興味を持たず」
「ほんとうるさいな」
「そういうわけで、そのあたりのことについてアリアーネ様にいろいろとご教授いただければと」
「私でいいのですか? 私もそれほど多くのことは学んでおりませんが」
「いや、シューリス伯爵家で令嬢としての教育を受け、その上王太子妃教育まで受けていたとなったらアリアーネ様以上に適任の方はいません。お願いできませんか?」
戸惑いながらも兄様の唐突な話を聞いていたアリアーネ様は、何かを考えるように目を伏せた。
それからゆっくりと、私を見据える。
「それは、ブリジット様のお気持ち次第です。学びというのは『学びたい』という気持ちがなければ、真の学びにはなり得ませんから」
諭すような凛とした声の尊さに、私は一瞬たじろぎつつもつい拝みそうになってしまった。
いや、やばいやばい。ふざけてる場合じゃない。
はっきり言って令嬢としての知識とか嗜みなんてものにはまったく興味ないんだけど、これってきっと、兄様が言っていた「アリアーネ様にしかできない仕事」なんだよね。多分。
役割とか仕事とかがあった方がアリアーネ様も気忙しく過ごすことから少し解放されて、その上ここにいる意味を見出してくれるかもしれない。
そういう、兄様の意図が見え隠れする。
そう思って兄様を見ると、首がもげるんじゃないかというくらい何度も頷いていた。
「わかりました。アリアーネ様、ぜひよろしくお願いします」
深々と頭を下げる私の耳に、「こちらこそ」というアリアーネ様のまろやかな声が優しく響いた。
*****
早速次の日から、私はアリアーネ様の指導の下「令嬢教育」を受けることになった。
城には、小さいながらも一応図書室がある。
魔獣との戦いに明け暮れてきた辺境伯家ではあるけれど、「戦いにこそ学びが必要」とか言った何代も前の当主が作ったとされている。
令嬢教育は、その図書室で行われることになった。
アリアーネ様は昨日の夕食のあとすぐここに来て長いこと籠り、何やらあれこれ思案しながら準備をしてくれたらしい。
まったく、働き者である。
いや、貧乏性というべきか?
「さてブリジット様。何から始めましょうか?」
「何って……」
「手紙のやり取りをされているのであれば、読み書きは大丈夫ですね?」
「さすがにそれは。初歩的なことは、一応できると思います」
「令嬢教育といっても、社交に関することはあまり必要がないのかしら。あ、でもマナーや礼儀といった基本的な教養は必要ですし、ご結婚されたあと夜会に行くようなことがあればダンスも必須ですね」
「え、ダンス?」
「それから辺境伯という家柄もあるので、歴史に関して押さえておいた方がいいかもしれません。嫁いだ先で領地経営に携わるとなれば、実務的な知識も必要になるでしょうね」
次から次へと思いついたことを列挙していくアリアーネ様は、私の顔を見ていきなり吹き出した。
「ブリジット様。そんなに難しい顔をされなくても」
「なりますよ。それ全部やるんですか?」
「やりますよ。時間はたっぷりありますし。できておいた方が、損はないと思いますよ」
「結婚しないかもしれないのに?」
「だとしてもです。『戦いにも学びは必要』という言葉は、私も真理だと思いますよ」
まあ、それは確かに。
アリアーネ様の言葉に多少なりとも納得した私は、仕方なく机の上に並んだ何冊もの本のうち、一冊だけを手に取った。
「うわ。『マナーの初歩』って、いきなりいちばんやりたくないやつ」
「あら、マナーはお嫌いですか? では、少しでも興味が持てそうなものといったら……」
「うーん、歴史ですかね? フルムガールの歴史もそうだけど、アグラディアの歴史とか、バルドール帝国の歴史とかには多少興味が」
「わかりました。ではそちらから始めましょう」
それから、私は令嬢教育と称して毎日一定の時間、アリアーネ様と図書室で過ごすようになった。
もともと勉強があまり好きではないうえ、すぐに体を動かしたくなる性質の私だったけど、アリアーネ様の工夫や配慮のおかげでさほど苦には感じなかった。
むしろ学ぶことが初めて楽しいと思えたほど。
アリアーネ様の教え方が上手なんだと思う。
できないことやわからないことがあっても、怒られることなんかもちろんなくて丁寧に解説してくれるし、何よりもがんばろうという気持ちそのものを評価してくれる。
その日も、勉強が一通り終わってティータイムの時間になった。
2人でお茶を飲むこの時間も、学んだマナーや礼儀を実践するための勉強の一環だったりする。
「ブリジット様、随分と一つひとつの所作が優雅になりましたね。素晴らしいです」
「そうですか? アリアーネ様の真似をしてるだけですよ」
「あら、うれしい。私は毎日、ブリジット様との学びの時間が楽しいのですよ。こんなに楽しいと感じられる日々は、生まれて初めてかもしれません」
アリアーネ様は喜びと恥じらいの入り混じったような、とびきりの笑顔を見せる。
うぅ、相変わらず美しい。
でもこんな田舎での生活が、そんなに楽しいなんて。
「王都に比べたら、フルムガールなんて何もなくて退屈じゃないですか」
「そんなことはありませんよ。今思えば、王都にいる頃は聖女として生きることそのものがだんだん苦しくなっていたのです。人々の病気や怪我を治癒して感謝されるのはうれしかったですけど、それだって『治して当たり前』と言われるようになって。ゆっくり休める暇もなく、聖女の務めの合間を縫うように王太子妃教育が詰め込まれるようになって、楽しいと思える感覚というものをずっと忘れていました」
流れるような所作でティーカップを口元に運ぶアリアーネ様は、どこか寂しげな、遠い目をしていた。
「そう、なんですね。せっかく聖女としてがんばってきたのに、こんなことになってしまって、さぞお辛かったでしょう」
「いえ、全然」
「は?」
「え?」
私たちは、思わずお互いの顔を見合わせる。
「聖女としての務めも王太子妃教育も、王国の民や王太子のためにがんばっていたのでは……?」
「まあ、やれと言われてきましたので。そんなものかと」
「王太子との婚約だって、なくなって追放されて、さぞショックだったのでは……」
「それはね、全然です。だって私、イライアス殿下のことは何とも思ってなかったので」
「え? そうなのですか?」
「はい。毎日聖女の務めが忙しくて、会う暇なんかないのですよ。だいたいあの人、初めての顔合わせのとき露骨にがっかりしていたのです。ほんと失礼な人。それに比べたら……」
「比べたら?」
「あ、いえ。なんでも、ないです」
アリアーネ様は急に何かを思い出したのか、心なしか顔をぱっと赤らめて言い淀んだ。
「とにかく、がっかりしているイライアス殿下を見たら、私の方ががっかりしてしまって」
「どうしてイライアス殿下は、アリアーネ様を見てがっかりしたのですか?」
「見た目が地味だからでしょう?」
「アリアーネ様が? どこが地味? 初めてお会いしたときから、なんてきれいな人だろうと思ってましたけど」
「まあ、ブリジット様」
きらきらと目を輝かせ、屈託のない笑顔で私を見つめるアリアーネ様。
「そんなこと言われたの、初めてです」
「ほんとですか? こんなにきれいで優しくて聡明な人なのに、あの金髪王太子のやつ、性格悪そうな女をぶら下げて婚約破棄だの追放だのって怒鳴り散らかしたんでしょ? ほんと腹立つ……」
私がそこまで言うと、アリアーネ様がみるみる顔色を失い、探るような目つきで表情を強張らせる。
そして。
「ブリジット様。何故それを、ご存じなのですか?」