20 平和と婚約と絵画
結局、かつてないほどの規模になるかと思われた魔獣のスタンピードは突然の終焉を迎えた。
私たちがレオフレド辺境伯邸へ行った日を境に魔獣は鳴りを潜め、いつまで経っても次の群れは森まで降りてこなかったのだ。
一応警戒は怠らず、毎日の見回りの回数を増やして様子を見ているものの、森はすっかり様変わりしてしまったらしい。
いつもどこか淀んだ空気が漂っていた森は、少しずつその清々しさを取り戻しつつある。
「やっぱり、森そのものにも『祝福』を与えちゃったんじゃないんですか?」
真剣な表情で色とりどりの布地に目移りしているブリジット様が、さらりとつぶやいた。
「湖だけじゃなく森そのものにも『祝福』を与えてしまったから、魔獣もいられなくなって山の方に引っ込んだんじゃないですかね」
「そうなのかしら」
「だってあのときの光、すごかったですから。あれで森全体が浄化されたと言われても、ちっとも不思議じゃありません」
「いずれにしろ、しばらくは魔獣たちも山の方で大人しくしていてもらいたいわね」
「ですよねー。結婚式まではいろいろと準備もあって忙しいですし」
魔獣の襲撃が収まっているうちに、結婚式を挙げてしまおうと言い出したのはオスカー様だった。
もともと「王都から帰ってきたら、すぐに準備して結婚式を挙げたい」とは話していたし、私としても特に異論はない。
しかも、お祝い事はまだあった。
「あら、ブリジット様。その布地、素敵ですね」
「そうですよね。サリオン様の髪の色にちょっと似てるかなって」
「ふふ。そうね」
「あ、いえ、サリオン様が、そうしてほしいって……」
「ご自分の色を纏ってほしいのでしょう? だってサリオン様は、あんなにブリジット様に夢中なんですものね」
「アリー様、やめてくださいよ……」
ぷしゅーと音を立てるように、ブリジット様が真っ赤になりながら布で顔を隠してしまう。
そう。
ブリジット様とサリオン様の婚約も、一緒に祝うことになったのだ。
*****
レオフレド辺境伯邸から帰ってきて数日後、私たちはいつもの図書室にいた。
ブリジット様が「どうしても、聞いてほしいことがあるんです」と恥ずかしそうに俯くので、何事かと思ったら。
「さ、サリオン様に、好きだって言われてしまいました……」
だんだん弱々しい声になるブリジット様。
サリオン様ったら、随分ストレートに言ったのねえと、生温かい気持ちになってしまう。
……いえ、オスカー様もそうだったわ。
そのときのことを思い出してしまって、一瞬自分の方が取り乱しそうになるのを必死でこらえる。
「……それで?」
「ど、どうしていいかわからなくて、とりあえず、返事は待ってもらいました」
「あら。どうして?」
「どうしてって……」
ブリジット様は戸惑った目をしながら、ため息をつく。
「もちろんサリオン様のことは嫌いじゃないですし、好きだと言われてうれしい気持ちもあります。サリオン様と一緒にいるとどこかほっとするというか、自分の不安や人にはあんまり言えないことなんかも素直に言えたりしますし……」
「あら」
ブリジット様ったら、なんて可愛らしい。
これをそのままサリオン様に伝えたら、どうなるのかしら。
なんてちょっとした悪戯心が芽生えてしまうのを抑えつつ、ブリジット様の顔を覗き込んだ。
「そこまで気持ちがわかっていて、どうして?」
「うーん、自分の気持ちに、いまいち自信がないというか。これは友情とは違うんでしょうか? サリオン様、いつもは言葉が少なくて何を考えているのかよくわからないのに、びっくりするくらいしっかりはっきり告白してくるから……」
そのときのことを思い出したのか、ブリジット様の頬が一気に赤みを増した。
何をどう言われたのか詳しく聞きたい気もするけれど、それはちょっと、野暮というものね。
本当は、すごく聞きたいけど。
「ブリジット様にしては、珍しく弱気な発言ですのね」
「そうですよね。魔獣を相手にしてる方が、よっぽど気が楽です」
困ったように苦笑する義妹を前に、私は素知らぬ顔で尋ねてみた。
「ねえ、ブリジット様。もしも、ディネルース様がそうだったように、もう一生サリオン様に会えなくなるとしたらどうします?」
「え。……あー、それは、嫌ですね……」
「じゃあ、サリオン様がもしも別の女性と親しくしていたら?」
「それは、すごく嫌です」
想像しただけで腹立たしさが我慢できなかったのか、ブリジット様は不愉快そうにムッとした。
「ふふ」
「なんですか?」
「もう、おわかりでしょう?」
ブリジット様は驚いて私の顔に見入ると、観念したようにまたため息をつく。
「今はまだ、サリオン様と同じだけの気持ちを返せる気がしないのです。それでもいいんでしょうか?」
「サリオン様はまだしばらくこちらにいらっしゃるのでしょう? 大事なことなのですから、じっくりと時間をかけて考えてみてもいいと思いますよ」
「そうですよね……」
私の言葉に、ブリジット様は少しだけ肩の荷が下りたようだった。
それから、ブリジット様はサリオン様と一緒にいることが増えた。
といっても、これまでもサリオン様は自主的にブリジット様の近くにはいたわけで、こちらから見るとさほど変わらない光景なのだけれど。
時々、「見回り」と称して2人で森に入って行くこともあったりして。
そうして、さらに数日後。
執務室で私とオスカー様を前にしたサリオン様は、いつもの無表情をさらに硬くして言った。
「ブリジット・べリア・フルムガール嬢との婚約を、認めていただきたいのです」
サリオン様の隣に座るブリジット様も、あまりお目にかかれないような緊張した顔をしてオスカー様に視線を向けている。
オスカー様は「ほう」と言って腕を組み、わざとらしくソファに背中を預けて何かを探るような目つきをした。
「サリオン殿。いつからですか?」
「は?」
「いつから、うちの妹に対してそういう気持ちを抱くようになったのですか?」
遠慮のないオスカー様の問いに、いつもはあまり感情を出さないサリオン様が明らかに狼狽える。
一方のブリジット様は、多分聞きたくても聞けないでいたらしく、興味津々といった表情でサリオン様を見つめていた。
「あ、あの……。言わないとダメですか?」
「ええ。ぜひ」
有無を言わさぬ辺境伯の圧にサリオン様はしばらく逡巡し、それから意を決したようにはっきりと答えた。
「は、初めて目にしたときからです」
「ほう?」
「あの魔獣討伐の日、遠くからでもブリジットの戦いぶりが見えました。踊るように魔獣を倒す姿に、つい見惚れてしまって……」
「なるほど」
「しかし遠目だったので性別などはわからず、随分身軽な強者がいるのだなと感心していました。そのあと魔獣に襲われそうになったところを助けるとすぐに倒れてしまったので、慌てて助け起こして間近で見ると、遠くで目にした以上にブリジットが美しく……」
「それで?」
「目が覚めてから一言二言言葉を交わすうちに、ブリジットの優しさや真っすぐさに救われました」
そう言い切って堂々とオスカー様を見据えるサリオン様の表情は、とても晴れやかだった。
ちなみに、「いつから好きだったか」を聞きたくてうずうずしていたらしいブリジット様は、想像よりもずっと早くからだったうえにいつもは口数の少ないサリオン様からこれでもかというくらいの愛情を示されて撃沈していた。
「まあ、サリオン殿が最初からブリジットに惹かれていたのはわかってたけどね」
オスカー様は平然と言って、目の前の2人を驚かせる。
知っていてわざわざ言わせてるんですもの。
意地の悪いお兄様ですこと。
「でも、いいんですか? うちの妹、ご存じの通りじゃじゃ馬ですよ」
「はい」
「ちょっと、何よ2人して。サリオン様、そこは否定してよ」
「それにね、ブリジットは自分より強いやつじゃないと嫁に行かないって、だいぶ前から公言してましてね」
「え?」
「あ」
目を丸くしたサリオン様が、咄嗟にブリジット様の方を向いた。
「あー、その……」
ブリジット様は気まずそうに小さな声でつぶやき、それから思い直したのかサリオン様の顔をすっと見返す。
「確かに、自分より強い人としか結婚したくないってずっと言ってました。でも強くても弱くても、私はサリオン様がいいんです」
その言葉にサリオン様は一瞬だけ目を見張り、それから見たこともないような甘い顔をしてブリジット様を見つめている。
一方、なんとも言えない複雑な顔をしてそれを眺めるオスカー様。
これは、いわゆるあれかしら。
よくブリジット様が言っていた、「妹なので、兄のそういう話は生々しくてちょっと」的な。
それに、年の離れた妹の結婚というのは、やっぱり娘を嫁に出すようで、少し複雑なのかも。
私はオスカー様の腕に手を伸ばし、何事かとこちらに顔を向けたオスカー様にゆったりと微笑んだ。
オスカー様は私を見てふっと表情を緩め、仕方ないなといったふうに目を細める。
「わかりました」
オスカー様の声に、目の前の2人はハッと顔を上げてこちらに目を向けた。
「サリオン殿。ブリジットは俺たちの大事な妹です。幼い頃に両親を亡くし、左目の視力を失い、それでも強くたくましく、そして真っすぐに生きてきたかけがえのない妹です。どうか、末永く、よろしくお願いします」
そう言って頭を下げるオスカー様を見て、ブリジット様は目に涙を浮かべている。
「よかったわね、2人とも。おめでとう」
「ありがとうございます」
涙で何も言えないブリジット様の代わりに、サリオン様がほっとした表情で答えていた。
*****
それから、もう一つ。
「やっぱり、ローランドという当主はいなかったよ」
フルムガールに帰ってきてから、オスカー様はすぐに家系図を確認してくれたらしい。
その日の夜、普段は執務室の金庫に保管されているという家系図を見せてくれた。
「これは簡易的な家系図で、特に古い時代のことは詳しく書かれてないんです。ローランドやディネルース様の時代がいつ頃だったかわからないから、探すのに苦労したんだけど」
そう言って、家系図のとある部分を指差した。
「ここ」
「あ……」
そこには、確かに「ローランド」という名前があった。
ただ、伴侶や子どもの名前はない。結婚はせず、当然子どももいなかったらしい。
「ローランドは長男だったけど、当主となったのは弟だったようだね。結婚しなければ子どもはできないし、それだと当主の役目を果たすことができないから家督を譲ったのではと」
「ディネルース様を想って……?」
「だろうね。ローランドはきっと、ディネルース様の死を知ってたんじゃないかな。だからこそ生涯独り身を貫いた。いつ亡くなったのか、定かではないけどね」
ローランド様のその後の人生を垣間見て、胸が絞めつけられる思いがした。
それからまた、しばらく経った頃。
「アリ、アリー、様! 大変です!」
執事のラルフの仕事を手伝っていると、ブリジット様が血相を変えて飛び込んできた。
当たり前のように、後ろには先日婚約が決まったサリオン様もいる。
「どうしたのです?」
「これ、これ見て……!」
ブリジット様が差し出したのは、一枚の古ぼけた紙切れだった。
だいぶ古いものらしく相当劣化していて、雑に扱ったらすぐ破けてしまいそうなほど。
丁寧に広げると、薄っすらと文字が書いてある。
「『武器庫 紋章 後ろ』? 何これ」
「図書室の本から出て来たんですよ!」
ブリジット様の話はこうだ。
サリオン様と図書室デートをしていて(ちなみにブリジット様は「デート」とは言っていない。「図書室の話をしたら、サリオン様が興味を示したから行ってみた」などと話していた)、帝国に関する蔵書をあれこれ手に取って見ていたらしい。
その中でサリオン様が「帝国貴族名鑑」という本を見つけ、「こんなのもあるのか」と試しに開いたところ、その紙切れが挟んであったのだという。
「これが挟んであったの、レオフレド家のところだったんですよ」
「え?」
「なんか、怪しくないですか? というかもうこれ、ヤバいでしょ」
ブリジット様はいつも以上に目をキラキラさせて、もう駆け出しそうな勢いである。
「一応兄様にも言ってから、武器庫に行ってみます!」
言うが早いか、サリオン様を引き連れて、颯爽と駆けていくブリジット様。
その後、ブリジット様はいち早く武器庫を調べに行ったらしい。
話を聞いたオスカー様と一緒に武器庫に着いたときには、すでにすべてを知ったブリジット様がサリオン様の胸で泣いていたから驚きである。
「ど、どうしたのです?」
「何があった!?」
サリオン様は腕の中のブリジット様を愛おしそうに慰めながら、「これです」とそばに置いてあった絵画をオスカー様に手渡した。
「この紋章の描かれたタペストリーの後ろに、隠し扉があったんです。開けてみたら、数枚の絵が置いてありました。それはいちばん大きなものですが、その絵、見覚えがありませんか?」
言われて絵に目を落とすと、それは紛れもなく、先日浄化したあの湖。
そしてそのほとりに立ち、笑顔でこちらを振り返る少女の姿が。
「タペストリーの裏に隠し扉?」
驚いたオスカー様は湖の絵とサリオン様とを交互に見て、ひとまず絵を私に手渡した。
そして、武器庫の奥の壁に掛けてあるタペストリーに近づいていく。
タペストリーはかなり昔から簡単に取り外しできないよう固定されていたらしく、だからこそその後ろを確認しようなんて思いつきもしないような絶妙な造りになっていた。
「うわ、ほんとだ」
オスカー様はそれほど大きくない隠し扉を開けて、中に入っている絵をすべて取り出していく。
「これって、もしかして……」
「ローランドが描いた絵か」
花瓶の花や武器庫から見た風景、森の木々を描いた絵の数々。
湖の絵と似た雰囲気を纏う数枚の絵は、静かにその存在を主張している。
突如として発見されたローランド様ゆかりの絵に衝撃を受け、私は手にしていた湖の絵にもう一度目を向けた。
先日見たばかりの美しい湖と、まぶしい笑顔の少女。
それは、最後に「ありがとう」と言って消えていった少女だった。
そしてほんの軽い気持ちで絵の裏側を見て。
……ブリジット様が泣いてらしたのは、きっとこのせいね。
「オスカー様」
隠し扉と絵の存在に唖然としているオスカー様に、私は湖の絵の裏側に書かれていた文字を黙って見せた。
―――― 愛する妻 ディネルースへ捧ぐ
ローランド・グラウ・フルムガール




