19 浄化と記憶と独占欲
ふっと空気が軽くなったような気がして、私は目を開けた。
目の前にあったのは、先ほどまでの禍々しさを湛えた湖ではなく。
水晶のように透き通る、清冽な水が煌めく湖だった。
その美しさに、思わず感嘆の声を漏らす。
「ディネルース様は、この湖を見ていたのですね」
穏やかに凪いだ湖は、まるでずっとそうだったかのように、陽の光を浴びて静かに揺らめいている。
「『祝福』、できたみたいだな」
後ろに立つオスカー様が、私の肩を抱いてくれた。
「ディネルース様も、自分の強い想いが『呪い』となって、森の動物たちを魔獣にしてしまうなんて思ってもみなかったのです。そんなことを望んでいたわけではないのに、でも聖女である自分を呪いながら命を絶った彼女にはもはやどうすることもできなかったのでしょう。そしてそのまま、何百年という月日が流れてしまった。動物たちにも2つの辺境伯領の人々にも、ひどいことをしてしまったとずっと悔やんでいたようです。これで彼女の魂も、ようやく救われたのかもしれません」
祈りを捧げている最中、私の頭の中にはディネルース様の魂が抱え続けたであろうさまざまな想いが浮かび、流れ、そして消えていった。
目を開ける直前、ディネルース様と思われる長い銀色の髪の女性が、「ありがとう」と微笑みながら私に背を向ける姿が見えた。
遠くに、ディネルース様を待つ背の高い男の人も。
あれは、ローランド様だったのかもしれない。
「アリー様!」
少し離れた木の陰から、興奮を抑えきれない様子のブリジット様がいつもの可愛らしさで駆け寄ってきた。
「すごかったです! 今まででいちばん光ってた!」
「お前なあ、説明するにしてももう少し考えろよ。語彙力がなさすぎるんだよ」
「だって! 少し離れたところで見てたから、逆に湖全体が見えて、すごかったんだよ。アリー様が虹色の光に包まれたかと思ったらどんどん光が増していって、それがばーっと湖全体に広がって、黒い粒子を鎮めていって……。そのうち湖全体もあの光に包まれて虹色に輝き出して、一瞬強く光ったと思ったら、ただの湖に戻ってた」
ブリジット様は上気した顔で話しながら、目を輝かせている。
「ね、サリオン様、すごかったですよね」
「そうだな」
あら。
この2人の距離が、心なしか縮まってるように見えるのは私だけかしら。
ブリジット様は興味深そうに湖のそばまで来て、何かを思い出したのか一瞬だけ沈んだ表情を見せた。
そして、すでに禍々しさの欠片もない、澄み切った辺りの空気を味わうようにゆっくりと深呼吸する。
「これでもう、森の動物たちが魔獣になることもありませんね、きっと」
「そうだな」
「アリー様がこの湖の『呪い』を払って、浄化してくれたおかげですね」
晴れ晴れとした声で振り返るブリジット様と、そんなブリジット様を愛おしげに見つめるサリオン様。
本来の清らかさを取り戻した湖は、きっとこの先も、ここで数多の命を見守っていくのだろう。
「さて。じゃあ、帰るか」
柔らかく微笑むオスカー様に肩を抱かれたまま、私は頷いた。
*****
その日の午後には、フルムガールに帰ることになった。
レオフレド辺境伯夫婦は、これまで開かずの部屋だったディネルース様の部屋を開けただけでなく真実を明るみにしたこと、そしてディネルース様の魂を鎮めて湖を浄化したことにいたく感激してくれた。
せめてもう一晩、と必死で引き留められたけれど、魔獣討伐のこともあるのでと丁重にお断りした。
帰る前にディネルース様の部屋をもう一度訪ねると、部屋は昨日と同様、まるで何事もなかったかのようにひっそりと佇んでいる。
ゆっくりと部屋の中を見回し、ここでディネルース様が過ごした時間に思いを馳せていると。
「アリー様」
ドアの横から、ブリジット様がひょっこり顔を出した。
「何してるんですか?」
「最後にお別れをね」
そう微笑むと、ブリジット様もにこにこしながら部屋に入ってくる。
「不思議な、縁でしたね」
「え?」
「だって、そもそもアリー様が魔獣の森に追放されてなかったら、きっとこういうことにはなってなかったと思うんです。アリー様が追放されて、フルムガールに来て、兄様と結婚して、それから『覚醒』して。『覚醒』してなかったらディネルース様の部屋の封印は解けなかっただろうし、湖を浄化することもできなかったでしょうし」
「そうね」
私は、窓際の文机に目を落とす。
ディネルース様はきっと、あの文机で日記を書いていたのだろう。
「私もね、なんだかディネルース様に呼ばれたような気がするの。でもね、それは私だけじゃなくて、きっとあなたもよ」
そう言って見返すと、ブリジット様は驚いてきょとんとした。
「え? 私もですか?」
「だってあなたがいなかったら、湖の存在が知られることはなかったでしょう? あの討伐のとき、左目に湖の情景が映らなかったら今こうしてここにいることはないのだもの」
「まあ、そう、ですね」
森の湖は、昔からレオフレド辺境伯領でその存在を認識されてはいた。
でも、長い間『行ってはならない禁忌の場所』とされていたからこそ、呪いにまみれて黒く濁っていることを知る人などいなかった。
そしてその呪いのせいで魔獣が生まれていたなんて、誰が想像できただろう。
ブリジット様があの授かった神の力で見ることがなかったら、湖で何が起こっていたのかという真実が明らかになることはなかったかもしれない。
そうなると、この先また何十年、何百年と魔獣は生まれ続けていただろうし、人々は魔獣との戦いを強いられ続けたに違いない。
神妙な顔つきで私の話を聞いていたブリジット様は、少し伏し目がちになって何か考えているようだった。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
「アリー様。私の左目を通して見えるもの、覚えてますか?」
「ええ。『過去の記憶の断片。戦いの際の、一瞬先の動き。それからまれに、これから起こり得ること』でしょう?」
「そうです。私に見えるのは、あくまで記憶の断片。誰かが自分の目を通して、過去に見たものです」
そうして、窓際の文机に一瞬だけ視線を向けたブリジット様は。
「だとしたら、さっき私が森で最後に見たあの場面は、一体誰の記憶だったんでしょう?」
あのとき、その左目を通してブリジット様に見えたのは、動物たちが湖の「呪い」によって魔獣になってしまう瞬間だった。
でも、あの場にいた私たちのうちの誰かの記憶では、もちろんない。
「あの激痛のときだって、見えたのは多分倒した魔獣がまだ動物だった頃の記憶です。だったら、湖の『呪い』で魔獣が生まれる瞬間は、一体誰の記憶だったのかなって」
それはディネルース様の魂の記憶だったのか、それとも森そのものの記憶だったのか――――。
窓の外には、自然豊かなレオフレド辺境伯領が広がっている。
きっとそれは、ディネルース様が生きていた頃からずっと変わらない。
「ディネルース様のいちばんの願いは、これ以上魔獣が生まれないようにすることだったのかもしれませんね。帝国への恨みとか自分の魂の救済とか、もうそういうことはどうでもよくて、今ある危機をなんとかしたくて私たちを呼んだのだとしたら、お役に立てて良かったのかなって思います」
「そうね。今いる魔獣はもう仕方がないけれど、新たに魔獣が生まれることはもうないでしょうから」
納得したように頷くブリジット様が、窓の外を眺める。
「ところで」
湖を浄化する前から気になって仕方がなかったことを、私は唐突に口にしてみた。
「ブリジット様。サリオン様に何か言われたのですか?」
「へ?」
突然思ってもみないことを言われたせいか、ブリジット様はまた視線を泳がせ、わかりやすくしどろもどろになる。
「え、べ、別に、何も言われてない、ですけど……」
「そう?」
「ただ、フルムガールに帰ったら、話したいことがある、とは言われました……」
口ごもるブリジット様の頬が薄っすらと赤く染まってきて、私はつい口元が緩んでしまう。
「サリオン様、このままこちらに残らずに一旦フルムガールに戻ることにしたのね」
「そうみたいです。連れてきたレオフレドの騎士団もフルムガールに残してきてるし、レオフレドの方が先に魔獣の被害が出ていたせいか、ほぼ収束しつつあるそうで。フルムガールの討伐はまだ終わってないから、引き続き協力してくれるとかなんとか」
「本当に、それだけ?」
わざとらしく小首を傾げて、ブリジット様を見返してみる。
「え? やだ、アリー様。揶揄ってますよね?」
「そんなことはありませんよ。ただ、私の義妹はいつも可愛らしいなと思ってるだけです」
「そういうの、揶揄ってるって言うんですよ、もう」
ディネルース様の物語は、ブリジット様の「今」と「これから」にきっと大きな影響を与えていくだろう。
そしてきっと、私自身の「今」と「これから」にも。
そうして、私たちはディネルース様の部屋をあとにした。
*****
思ったより早く帰ってきた私たちを見て(いろいろあったけど1泊しかしていない)、ジェイデン様もユージン様も、ダレンですらだいぶ驚いていた。
「もう、レオフレド辺境伯邸の用事は済んだのか?」
「早すぎじゃね?」
「いや、ちゃんと用事は済ませてきたから大丈夫だ。それより、魔獣の様子はどうだ?」
「特に変わりはない。というか、昨日まで森に充満していた魔獣の気配が少し遠ざかったような気はするが」
「遠ざかったっていうか、なんか妙に気配がしないんだよな。魔獣のやつら、気が変わって山にでも戻ったのかな」
双子が不思議そうに首をひねる後ろで、こちらの様子をうかがうダレンと目が合った。
何がどうなったか気になって仕方がないだろうダレンに対し、私は遠目にもわかるようににっこりと微笑んでみせる。
それを見て、安心したような表情をするダレン。
ダレンにも、一部始終を教えてあげなくちゃね。
そう思いながら、双子に対してレオフレド辺境伯邸での経緯を説明するオスカー様の話に耳を傾けようとしたとき。
「姫!!」
見覚えのある騎士団員がすごいスピードで私たちの方に駆け寄ってきて、ブリジット様の前で急停止した。
「姫! ご無事でしたか!」
「何よ、モーリス。私は元気よ。見ての通り」
「森でお倒れになってから、お姿を拝見することがなかったもので……! 心配で心配で……!」
「あ、そっか。ごめんごめん」
そういえばあのとき、ブリジット様の隊として一緒に森に入ったモーリスは、倒れたブリジット様を抱きかかえるサリオン様のすぐそばにつき従っていた。
「姫! 姫!!」と泣き叫ぶようにブリジット様を呼び続け、サリオン様がなんだかものすごく嫌そうな顔をされていたのを急に思い出したわ。
「お元気になられたとは聞いていたのですが、この目で確かめるまではと――」
感極まって口元を抑えながらブリジット様に近づこうとするモーリスより先に、モーリスとブリジット様の間に立ちはだかる人影が。
「え」
「ブリジットは、大丈夫だ。お前が心配することはない」
「え、いや、サリオン様。私は姫と話していて……」
「だから大丈夫だ。俺の言うことが信用できないのか」
「は? そんなことは言ってません! ただ、元気な姫のお顔を確認――」
「お前は見なくていい」
「え、いや、なんで!?」
ブリジット様の様子を確かめようと右に左に動き回るモーリスに背を向け、サリオン様はまるでブリジット様を隠すように歩き出す。
「ブリジット。疲れただろう? 行くぞ」
「え? あ、はい。モーリス、もう大丈夫だからね。心配しないで!」
追い立てられるようにサリオン様に連れていかれるブリジット様は、それでもなんとかモーリスに声をかけてその場を去った。
呆気にとられるジェイデン様やユージン様を尻目に、オスカー様がまたニヤニヤと面白そうに笑みを浮かべている。
「オスカー様。先ほどノエル様の名前を出したのは、わざとでしょう?」
湖へ向かう途中の不可解な会話を思い出して、私は問い質した。
「いや、そうでもしないとあの朴念仁はずっとあのままなんじゃないかと思ったんだよ。ちょっとした親心で」
「親心、ですか? あなたはノエル様の味方だったのでは?」
「うーん、どうだろう? ただ、ブリジットには幸せになってほしいから」
「ここまで効果覿面とは思わなかったけどな」とか言いながら、オスカー様はしてやったりといった様子で満足げに目尻を下げる。
「もしかしたら、あのとき叶えられなかった2つの辺境伯家の結婚が、この時代になって叶えられるかもしれませんね」
何の気なしにつぶやくと、
「ブリジットが嫁に行くのか……。なんか、そう考えたらやっぱり嫌だな……」
複雑な表情をするオスカー様だった。




