18 湖と魔獣と祈り
その日はすでに陽が落ちてしまったため、私たちは翌朝4人で魔獣の森の北東側にあるという湖に向かうことになった。
「ローランド様は、その後どうされたのでしょうね」
レオフレド邸でこれ以上ないというくらい歓迎と感謝の意のこもった豪華な夕食を戴いたあと、私は目の前でくつろぐオスカー様に尋ねる。
「帰ったらフルムガールの系図を確認してみるよ。でも、ローランドという名前の領主がいた記憶はないんだよな」
「きっとローランド様は、ディネルース様が聖女としてどんな力を持っていたのか知っていたのでしょうね」
「だろうね。湖で会っているときに、ディネルース様が力を使う様子を目にしていたのかもしれない。だからフルムガールでは、『加護』だの『覚醒』だのという言葉は知らなくても、聖女の力についての正しい知識が自然に広まっていたんだろうね」
言いながら、オスカー様はティーカップに手を伸ばす。
もしも私がディネルース様の立場だったら、もしも愛する人と引き裂かれ別の人に嫁がなければならない身となったら、自分のことはどうでも、愛する人を護りたいと思う。
その人のこれからの人生が光り輝くように、その人を取り巻く世界が鮮やかな光で溢れるように、必死になって祈るだろう。
多分、ディネルース様もそうしたのだ。
そんな聖女の力を「人を護り」「万物に慈悲と祝福を与える」力だとローランド様は表現されて、それが聖女に関する知識としてフルムガールの地に根づいたのではないかしら。
「ディネルース様以降、帝国に聖女が生まれなくなったことも彼女の『呪い』なのかもしれませんね」
「聖女になってしまったばかりに、愛する人とともにある人生を生きられなかったわけだから。彼女の悲しみや怒りは、相当深かったんだろうな」
そう答えたオスカー様が、手にしていたティーカップを静かに置いて、私を顔をじっと見つめる。
そして私の頬に、そっと触れた。
「アリアーネはどう? 聖女になって、『覚醒』してしまって、つらくない?」
私を想いやる優しい目が、切なげに揺れている。
「そうですね。つらいことももちろんありましたが……。聖女になっていなければ、イライアス殿下に追放されてフルムガールに来ることもなかったでしょうし、オスカー様に会うこともなかったでしょう。『覚醒』してなければ、魔獣討伐の役に立つことも、今日ここでディネルース様の真実を知ることもなかったと思います。私は幸運だっただけかもしれませんが、自分に与えられた『聖女』という使命は全うしていきたいと」
「なら、俺はそんなアリアーネをずっとそばで支えていきたい。あなたがその力のせいで、縛られて生きるようなことにならないために」
「あなたをお支えしたいのは、私の方です。この力は、オスカー様に与えられたものなのですから」
私の頬にそっと触れるオスカー様の手を握り、吸い込まれそうに深い紺青色の目を見上げた。
「その力のために愛が必要だというなら、俺は俺のすべてを……」
近づいてくるオスカー様の目に、とろりとした甘い熱が見えた瞬間。
「あのさー」
いきなり後ろから尖った声がして、振り返ると渋い顔のブリジット様が決まり悪そうに立っていた。
「隙あらばいちゃつくの、ほんとやめてよ。ここ、人ん家だよ?」
「あ……」
「す、すまん」
「ほんと、緊張感なさすぎるよ。明日あのヤバい湖に行くんだよ? わかってんの?」
「「すみません……」」
*****
湖へ向かう道中は、意外なほど穏やかだった。
つい先日、この辺りまで魔獣が降りてきて激しい戦闘が繰り広げられたはずなのに、そんな不穏な雰囲気は微塵も感じられない。
むしろ何の変哲もない、ただの「森」がそこにはあった。
「こんなに森が静かなのは初めてかも」
サリオン様の案内で湖の近くまで来た私たちは、ひとまず馬を降りることにした。
「こんなに奥まで来たのに、魔獣の気配もないし」
「いつもの『魔獣の森』じゃないみたいだな。アリアーネがいるせいなのか、これから起こることをこの森も固唾を飲んで見定めようとしているのか」
言いながら、オスカー様は顔を上げ、森の中をぐるりと見回している。
さーっと涼やかな風が吹いて、木々の葉をさらさらと揺らしていた。
馬を近くの枝に繋ぎ止めたサリオン様が、森の奥の方を指差す。
「湖はもう少し先にあると言われています。俺もここから先には行ったことがなくて」
「よし。この先は何があるかわからない。注意して進もう」
オスカー様の言葉に、全員が表情を引き締めて頷いた。
歩を進めるにつれ、どことなくあのディネルース様の部屋の前のような禍々しい空気が漂い始める。
「だんだん湖に近づいてる感じですね。空気が変わってきた」
ブリジット様の声も、緊張なのか不安なのか、珍しく少し強張っていた。
「ディネルース様の部屋の前と同じ感じね」
「目はどうだ?」
サリオン様が若干食い気味で、ブリジット様の横に並ぶ。
「あ、今のところは大丈夫そう」
「そうか」
目に見えて安堵の表情を浮かべるサリオン様に、私は思わずふふっと笑ってしまう。
「サリオン様。大事なことは、言わないと伝わりませんよ」
「は? あ、はあ……。すみません、口下手で」
「口下手でもなんでもいいから、何が言いたいのかちゃんと説明してくださいよ。サリオン様が何考えてるのか、こっちは全然わかんないんだから」
ブリジット様が可愛らしく唇を尖らせる。
何を考えているのかわからないのはブリジット様だけで、私たちにとってはこれ以上ないくらい、わかりやすいのだけれど。
「そうだぞ、サリオン殿。ブリジットにはノエルっていうれっきとした――」
「はあ? まだそれ言ってんの? いい加減違うってわかってよね、兄様ほんとしつこい」
ん?
それは勘違いだと、一昨日説明したはずなのに。
不思議に思ってオスカー様の顔を見ると、何を企んでいるのか信じられないくらいニヤニヤしている。
そのニヤニヤしたオスカー様の視線の先を追うと、そこには驚きで固まるサリオン様が。
「の、える、とは……」
「うちの領の隣の、オルグレン伯爵のとこの長男ですよ。オルグレン伯爵家の兄弟たちとは幼馴染なんですが、両親が健在な頃から親しい関係を続けていてね。特にブリジットは、伯爵夫妻にとても可愛がられていて」
「そうだけど! でもノエルは幼馴染なだけだから!」
「ノエルは今、王都の騎士団に入団していて、ブリジットとは手紙をやり取りをしてるんですよ」
「まあ、それはそうだけど。でも手紙の中身は大したことないし」
兄がまだ勘違いしていると思い込んでいるブリジット様は非難めいた顔でオスカー様を睨み、サリオン様はこの世の終わりのような絶望を背負って突っ立っている。
そしてオスカー様は、一人で妙にニヤニヤしている。
オスカー様の魂胆に思い至ったときだった。
「あ、痛っ」
急にブリジット様が、左目を押さえてしゃがみこんだ。
「ブリジット!」
兄よりも早く駆け寄ったサリオン様はしゃがみこむブリジット様の背中に手を回し、「ブリジット!」と何度も叫び続ける。
「大丈夫か!?」
「だ、大丈夫……。この前、ほど、じゃないから……」
ブリジット様は左目を押さえながらも、ゆるゆると顔を上げた。
「み、えた……」
「は?」
「見えたの……」
「何が!?」
「湖、から……、出てる粒子のせいで、魔獣が」
「え? 魔獣?」
ブリジット様は左目を押さえながら何度も深呼吸を繰り返し、少しずつ痛みが去るのを待っているようだった。
私たちは、ただ黙ってブリジット様を見守ることしかできない。
サリオン様が深呼吸するブリジット様の背中を優しく上下に撫でていると、
「もう、大丈夫……。ありがとう、サリオン様」
弱々しく微笑みながら、ブリジット様はようやく言葉を続けた。
「あの、湖から黒い粒子が溢れてるって言ったでしょう? あの粒子に森の動物たちが触れてしまうと、最後には魔獣になってしまうみたいなの……」
「は?」
「魔獣は山で生まれると言われてるはずだが?」
「違うみたい。動物たちにはこの辺の不穏な感じがわからないらしくて、気づかずに湖の近くまで来てしまって、それであの黒い粒子に毒されて、もがき苦しんで、最後には魔獣になってしまってた……」
苦し気なブリジット様の声に、オスカー様が怪訝な顔でつぶやく。
「それ、本当なのか? 魔獣はへレグ山脈で生まれて、下まで降りてくるって昔から言われてるだろ」
「そんなの私だって知ってるし。でも、今左目で見えたんだもの」
「その湖って、ディネルース様が身を投げたとされる湖だろう? じゃあ、ディネルース様の想いが『呪い』となって湖に渦巻いてるだけじゃなくて、実際に動物たちを魔獣にするほどの力を持った『呪い』になっているということか?」
オスカー様の仮説に、みんなが混乱したように顔を見合わせる。
しばらく沈黙が続いたあと、サリオン様が納得したような表情でゆっくりと口を開いた。
「確かに、昨日父が話した通り、ディネルースの時代には森に魔獣などいなかったと言われています。ディネルースが悲しみや憎しみのあまり湖に身を投げたことで、その想いが魔獣を生み出すほどの『呪い』になってしまったということでしょうか」
オスカー様もブリジット様も、信じられないといった表情を隠せずにいた。
今まで長きにわたって事実だとされてきたことが覆る瞬間を経験し、足下が揺らぐような錯覚に襲われているのだろう。
「この前、左目が痛くなったときも」
ブリジット様が、どこか遠くを見つめるような顔をした。
「森の動物たちが、湖の前で苦しんでるところが見えたの。湖のヤバさにばっかり気を取られてたけど、きっとあれって、私が倒した魔獣の『記憶の断片』だったんじゃないかな」
切なさや遣り切れなさの混じるその声は、震えていた。
そんなブリジット様の右手を、サリオン様がそっと握るのが見える。
ブリジット様は驚いて、でも安心したようにサリオン様を見上げた。
そして。
「あ! じゃあさ、あの湖をなんとかできれば、もう魔獣は生まれなくなるんじゃないの?」
さっきまでのしおらしい様子は急にどこかへ行ってしまったのか、いつも通りの楽しげな調子で叫んだ。
「なんとかってなんだよ」
「それは、きっと私の仕事ですわ。オスカー様」
私が言うと、ブリジット様はいつものように、ぱちぱちと数回瞬きをした。
どうやら、痛みは引いたみたいね。
「ディネルース様の部屋の『封印』を解いたんだもの。アリー様の力で、湖に『慈悲と祝福』を与えればいいんじゃないかな?」
「ええ。どうなるかはわかりませんが、やってみる価値はあるかと」
私の決意に、オスカー様は渋々といった様子でため息をついた。
「わかった。でも大丈夫かな? 『祝福』を施すなら、もう少し湖に近づく必要がある。でも湖からは動物を魔獣にしてしまう黒い粒子が溢れてるんだろ?」
「効果のほどはわかりませんが、みなさんに『加護』を授けます。短時間ならそれで凌げると思います」
そう言って私は一歩後ずさり、胸の前で手を組んで目を閉じる。
「加護」を授け終わって目を開けると、3人ともまた揃って感動したような表情をしていた。
特に、サリオン様が。
「やっぱりきれいですね。それに『加護』のあとってなんだか体が軽くなって、なんでもできそうな気になります」
すっかり痛みの引いたブリジット様が軽々とステップを踏むように歩き、「行きましょう」と促す。
あら。
サリオン様と手をつないだまま行くのね。
そうしてしばらく歩くと、少しずつ湖がその禍々しい姿を現し始めた。
漆黒の湖から、溶け出す闇のように溢れ出る黒い粒子。
それはまるで、森の動物たちを誘うように、おびき寄せるように幾重にも重なり、揺らめき、広がっていく。
「念のため、ブリジットはここで待て。サリオン殿、頼む」
「わかりました」
「アリアーネ、行こう」
「はい」
私とオスカー様は、慎重に、湖へと一歩ずつ近づいていく。
加護が授けられているからといって、油断はできない。オスカー様を、長い時間この禍々しい空気に晒し続けることはできない。
でも黒い粒子は辺りの空気を穢し、澱みを生んで私たちを阻む。
「なんか、息苦しいな。アリアーネは大丈夫?」
「大丈夫です」
私は自分の息苦しさを我慢して、殊更優雅に微笑んで見せた。
こんなところで、怯んでなんかいられないもの。
ようやく湖の目の前までくると、黒い粒子は私たちをうかがうように、まわりに漂い始めた。
私はディネルース様の部屋の前でもしたように、今度は立ったまま胸の前で手を組み、目を閉じる。
そして、一心に祈った。
聖女の力を発現してしまったために、望むように生きられなかったディネルース様。
恋を知り、愛されることを知ったのに、その人の隣で生きられないと知って何もかも捨てる決意をしたディネルース様。
その悲しみや苦しみ、怒り、悔しさ、あらゆる感情のすべてを、私は掬いたい。
それがきっと、この「呪い」にまみれたディネルース様の魂を救うことになると信じて。