17 日記と真相と呪い
ドアを開けると、部屋の中は思いがけず神聖で清らかな空気に満ちていた。
まるで、さっきまでここに誰かがいたかような鮮烈な佇まいに息を呑む。
レオフレド辺境伯と夫人は本当にドアが開いたことに声も出ないらしく、部屋の入口近くに留まったまま、驚愕の表情で辺りを見回していた。
導かれるように部屋の中央近くまで進んだところで、
「アリー様、あれ」
夕陽が差し込む窓際の近くに文机があった。
その上に置かれた一冊の本を、後ろにいたブリジット様が指差している。
近づいて手に取りぱらぱらとめくってみると、それはディネルース様の日記だった。
「読んじゃっていいのでしょうか?」
「むしろ、読んでほしいと言っているのよ」
私には、わかる。
ディネルース様は、帝国最後の聖女は、自分が「封印」したこの部屋を開けた者に、自分のすべてを記したであろうこの日記を読んでほしいのだ。
私とブリジット様は、一人の聖女の身に何が起こったのかを知るべく、日記を覗き込む。
その人生に、踏み込む覚悟を持って。
恐らく、読み書きの練習の一環として始められたであろうこの日記の初めの方は、幼いディネルース様の日常が時々思い出したように書かれてあった。
〈花の月 20日
きょうは、ねえさまとにわでピクニックをしました。ねえさまが花のかんむりをつくってくれて、うれしかった〉
〈雨の月 5日
わたしも馬にのりたいと言ったら、にいさまにおまえは小さいからまだだめだと言われました。にいさまはいやなことばかり言うからきらい〉
〈雪の月 12日
朝少し降った雪が、昼にはもうとけてしまった。ちょっとがっかり〉
それが、年齢を重ねるごとに少しずつ書かれる文字数や頻度が増していく。
思春期を迎える辺りでは、ほぼ毎日のようにディネルース様の細やかな心情が年相応の瑞々しい表現で綴られるようになっていた。
そうして私たちは、ディネルース様が15歳のときに聖女の力を発現させたことを知る。
ただ、聖女と認定されたあとも、そのままレオフレド辺境伯領での生活がしばらく続いていたらしい。
そして聖女と認定されてまもなく、当時の皇太子との婚約の話が浮上していた。
〈雷の月 6日
アングラス皇太子なんて会ったこともないし、婚約したら帝都に行かなきゃならないらしい。帝都に行ったら聖女としての務めも始まるみたいだし、ここから離れてしまうのはなんだかとても不安。それに、こんな田舎娘が皇太子妃だなんてやっていけるのかしら。皇太子妃教育がどんなものか想像もつかないし、怖い侍女がいて虐められたりして。返り討ちにしてやる自信はあるけど〉
〈雷の月 13日
アングラス皇太子からお手紙が届いた。手紙を読む限り、とてもお優しい方みたい。聖女に認定されただけでも突然のことでどうしたらいいかわからないのに、婚約の話が出て戸惑う私の気持ちを思いやってくれる言葉がうれしい。早くお会いしたいと思った〉
〈雷の月 15日
アングラス皇太子に手紙の返事を書こうとするけど、何を書いていいのかわからない。私の日常といったら、馬に乗って森を散歩したり、兄様の仕事を少し手伝ったり、多分帝都の生活に比べたらすごく地味なんだもの〉
「え」
ブリジット様が、何かに気づいたように顔を上げた。
「アリー様。おかしくないですか?」
「え? 何が?」
「『馬に乗って森を散歩』って。魔獣の森は、馬に乗って悠々と散歩できるような楽しい場所ではありませんよ」
私たちは無言で顔を見合わせる。
「確かにね。そういえば、魔獣に関する話はまったく出てこないわね」
「魔獣の『ま』の字も出てきてません」
「そうです。ディネルースの時代辺りまでは、この森も魔獣などいない普通の森でした。それがいつからか得体の知れない獣が現れるようになり、我々の先祖が『魔獣』と名づけたのです」
レオフレド辺境伯が、すかさず説明してくれる。
オスカー様を見ると、「確かに聞いたことがある」と頷いている。
不可解さを抱えつつ、私たちはそのまま日記を読み進めることにした。
〈雷の月 23日
何とか返事は書いたけど、書くことがなさすぎてすごく短くなってしまった。気分転換に、今日は森の奥の方まで行ってみようと思った。兄様が以前、山の麓近くに湖があると言っていたのを思い出したから〉
「「湖!」」
私たちは思わず、揃って声を出す。
「出たわね、湖」
「出ましたね。続き読みましょう、アリー様」
私はブリジット様に促され、日記に視線を戻した。
〈湖まで行ってみると、まさかの先客がいた。時々ここに来て絵を描いていると言って、湖の絵を見せてくれた。すごく穏やかで、優しい色使いだった。その人はローランド・グラウ・フルムガールと名乗り、アグラディア王国のフルムガール辺境伯家の長男だと教えてくれた。私も自己紹介をして、それからいろんな話をした。国は違えど同じように辺境伯家の子どもとして育ったせいか、なんだかとても話が合って、こんなに楽しいのは久しぶりだった。また会う約束をして、帰ってきた〉
〈雷の月 26日
次に会う約束をしたのは1週間後だったけど、試しに湖に行ってみたらローランド様がいた。少し時間ができたから、絵の続きを描くために来ていたみたい。ローランド様と湖を眺めながら、またいろんな話をした。ローランド様には弟と妹がいて、フルムガールもレオフレドと同じように平和だと笑っていた。私にも兄と姉がいて、姉はとうに嫁いでいること、私もいつか帝都に行くことになると思うと話すと「王都にも行ったことないのに帝都なんて想像もつかない」「帝都に行ったら、どんな感じか詳しく教えてよ」と言ってくれて、なんだか少し気持ちが楽になった〉
〈太陽の月 1日
あれから毎日のように、湖に行っている。私が行くと、ローランド様が必ずいる。話してると楽しくて、もっと話していたくて、帰りたくなくなる。正直にそう言ったら、ローランド様も同じだと言って笑っていた。こんな日がずっと続けばいいのにと思った〉
〈太陽の月 18日
アングラス皇太子からまたお手紙が届いたのに、返事を書いていないと知った父様に怒られた。何を書いていいかわからないし、そもそも返事を書く気にならない。むしろ、なんだかとても憂鬱な気持ちになる。ローランド様には皇太子のことも婚約のことも、自分が聖女だということすら話していないけど、いつか言わなければならないのかしら〉
〈風の月 8日
日に日に自分の気持ちが誤魔化せなくなっている。ローランド様に会いたい。皇太子と婚約したくない。ローランド様とずっと一緒にいたい。昨日は雨が降って湖に行けなかったから、なおさら会いたい気持ちが募る。ローランド様は私のことをどう思っているんだろう。知りたいけど、聞くのは怖い。この関係を壊したくない〉
私たちはもはや言葉を発することもなく、ディネルース様の日記に夢中になっていた。
辺境伯領でのびのびと暮らしていた少女がある日突然聖女の力を発現し、そのために皇太子との婚約話が持ち上がり、気持ちの追いつかない中で心休まる人との出会いがあり、そしてその人に恋をしてしまう。
その戸惑い、恥じらい、ときめき、苦しみが手に取るようにわかる。
〈風の月 16日
ローランド様と話していたら、たまらなくなって泣いてしまった。そしてそのまま、自分が聖女だということも、皇太子との婚約が決まってることもすべて話してしまった。ローランド様は驚いていたけど急に真顔になって、「ディネルース様を皇太子に渡したくない」と言ってくれた。そして、初めて会ったときから好きだったと言われ、これからもずっと一緒にいたいと言われた。私はうれしくて、また泣いてしまった。ローランド様が私の涙をそっと拭いてくれて、この世の中にこんなに幸せなことがあるのだと初めて知った〉
〈風の月 23日
ローランド様が婚約を申し出てくれた。正式にフルムガール辺境伯家からも手紙が届くらしい。皇太子との婚約はまだ成立していないのだし、何より私はローランド様と一緒にいたい。フルムガール辺境伯家から手紙が届くのが待ち遠しい〉
〈風の月 27日
フルムガール辺境伯家から手紙が届いた。でも父様は、皇太子との婚約が決まっているのだから受けられないと言う。私がいくらローランド様と結婚したいと言っても、聞いてくれない。父様とけんかになってしまい、逃げるように湖に行ったらローランド様が来ていた。父様の話をすると困った顔をしていたけど「絶対に諦めないから」と言ってくれた。愛されるって、こんなに幸せなことなんだと思った〉
〈雁の月 5日
ローランド様が何度も家に来てくれて、父様や兄様を説得してくれている。今日はフルムガール辺境伯も一緒みたい。ローランド様と私の気持ちが揺るがないことを、父様たちもわかってくれるとうれしい〉
〈雁の月 12日
昨日、兄様が「皇太子との婚約の話はなくなると思う」と話してくれた。フルムガール辺境伯家の熱意に負けたと父様が話していたらしい。父様はこれから帝都に行くと言っている。そのことをローランド様に話したら、強く抱きしめられた。恥ずかしいけど、うれしかった。婚約したらローランド様といろんなところに行ってみたいし、もっとたくさん一緒にいられるようになる。今から待ち遠しくて仕方がない〉
「あれ?」
ここで唐突に、日記は終わっていた。
「え、なんですか? この中途半端な終わり方」
「そうよね。変よね」
私はまた、ぱらぱらとページをめくってみる。
そして最後のページに辿りつくと、そこにはこれまでのはつらつとした雰囲気とはまったく別の、禍々しささえ感じるような文字が書き連ねられていた。
〈父様があれだけがんばってくれたけど、結局皇太子との婚約はなくならなかった。それどころか皇家は婚約の時期を早め、私は明日この辺境伯領から帝都へ向かうことになった。でも、ローランド様以外の人と結婚するなんて、どうしても考えられない。
何故私は聖女になってしまったのだろう。どうして私の身に、聖女の力が発現してしまったのだろう。聖女にさえならなかったら、皇太子との婚約なんて話も出なかったのに。聖女という存在が、聖女を欲する帝国が、そして聖女になってしまった自分自身が憎い。
ローランド様にはもうずっと会えていない。最後にお会いしたとき、私が皇太子と婚約したとしても自分の気持ちは変わらないと言ってくれた。そんなの、耐えられない。どうしてローランド様の隣で生きられないのだろう。私はもっと、ローランド様と一緒にいたかった。この先もずっと、ローランド様と同じ時間を生きて行きたかった。
ローランド様と生きられない未来なんか、私はいらない。聖女になんて、なりたくなかった。
ローランド様、さようなら。湖での時間、私は本当に幸せでした。
これからもずっと、私はあなたとともに〉
言葉が、出なかった。
目の前のブリジット様は静かに涙を流していて、それに気づいたサリオン様が黙って自分のハンカチを差し出している。
「ディネルース様は、恐らく自ら命を絶ったのでしょう」
私は、日記をオスカー様に手渡した。
「当時のフルムガール辺境伯家の長男に恋をして、想いが通じ合い、結婚の約束までしたのに結局は皇太子との婚約に阻まれて。見つからなかったのは、湖に身を投げたからではないでしょうか」
日記にははっきりと書かれていないが、多分そうだろう。
最後の2行は、愛するローランド様に向けた遺書とも取れる。
「それで、湖は『行ってはならない禁忌の場所』になったのですか?」
ブリジット様の様子を心配そうにちらちらと確認しながら、サリオン様が沈鬱な表情を浮かべる。
「そうなのでしょうね。きっと、レオフレド辺境伯家はディネルース様が湖に身を投げたと気づいていたのではないでしょうか。当時は皇室も全力で捜索に当たっていたでしょうから、その目を誤魔化し余計な詮索がなされないように『禁忌の場所』として触れ回ったのかもしれません。その後レオフレド家が熱心に聖女の研究をするようになったのも、湖の存在を隠す狙いがあったのかも」
「では、その湖がブリジットの見た湖なのですか?」
「その可能性はあります。ディネルース様は、聖女という存在や聖女である自分自身をも憎むようになっていたようです。帝国に対する呪詛のような言葉もありました。その想いが『祝福』とは真逆の『呪い』となってこの部屋を『封印』し、そして湖にはいまだ彼女の悲しみや憎しみが『呪い』となって渦巻いているのではないでしょうか」
すべてが、ブリジット様に見えた黒い湖につながっている。
「アリー様。湖に、行かなくちゃですね」
まだ涙の残るブリジット様の目は、それでも凛とした意志で輝いていた。