9 実家と団欒と本当の夫婦
「緊張してますか?」
その後、私たち3人は私の実家であるシューリス伯爵家に向かうことになった。
もともと、イライアス殿下やロエア大神官からなんとか解放されたら、真っすぐシューリス伯爵家に行くことになっていたらしい。
「本当は、先に言っておこうかとも思ったんですけど」
馬車の中で隣に座るオスカー様は、私の手をぎゅっと握りながらちらちらと顔色をうかがっている。
「どうなるかわからなかったというのもあるのですが、アリアーネ様はまだシューリス伯爵家に対してわだかまりがあるのかなと思って……」
不安げなオスカー様に、少しだけ苦笑してしまう。
「お父様やシューリス伯爵家に対して、疑う気持ちがあるというわけではないんです。オスカー様からもお話は聞いていましたし、陛下やリアム殿下がおっしゃる通りお父様が必死にできる限りのことをしてくれていたのだということは理解しました」
「じゃあ、何が引っかかってるんですか?」
向かい側に座るブリジット様も、心配そうにじっと私を見つめている。
「単純に、久しぶりすぎてどう接していいかわからないのです。神殿に連れて行かれて8年、あの頃12歳だった私も随分変わったと思いますし……」
「シューリス伯爵は8年ぶりにアリアーネ様を見たとき感動で泣いてましたけどね。『大きくなって……』とか言ってたけど」
「アリー様はさ、ずっと神殿でこき使われすぎて、大事にされたり甘やかされたりするやり方がわかんなくなっちゃったんじゃないですか? だから久しぶりに会う家族にどう甘えていいかわかんなくて、つい微妙な反応しちゃう」
「お前も意外に鋭いこと言うんだな。あ、でも俺にはわりと素直に甘えてくれるけどな」
「そうなの? って、そういう生々しいことはあんまり言わないでくれる? 妹としては恥ずかしいんだけど」
一気に眉根を寄せて冷ややかな視線を兄に向けるブリジット様を見ながら、でも彼女の言う通りかもしれない、と思う。
負担や犠牲を強いられ続けて8年。
そんな生活が当たり前になっていて、人に頼ったり手伝ってもらったり甘えたりという経験を神殿ですることはほとんどなかった。
でも辺境伯領に追放され、フルムガール家で人並みの扱いを受け、そしてオスカー様に妻として求められたおかげなのか、フルムガール家の人たちの前では気負うことなく振る舞うことができている。
「俺にはもっと甘えてもいいんですよ、アリアーネ様」
「だからさー、妹の前で堂々といちゃいちゃすんの、ほんとやめてくれる?」
お互いに嘘やごまかしがなく、真っすぐに向き合う辺境伯の兄妹たちの前だからこそ、私も素直になれるのかもしれない。
なんて思っていたら、馬車は早くもシューリス伯爵家に到着してしまった。
オスカー様に手を引かれて馬車から降りると、目の前には懐かしいシューリス伯爵邸と、すでに感極まって涙を流しているお母様の姿があった。
その後ろに見覚えのない少年がいて、それが誰だか気づいた瞬間8年という月日の重さを痛感する。
「姉上……」
私が神殿に連れて行かれたとき6歳だった弟のアルバートは、爽やかな印象の大人びた少年になっていた。
神殿から迎えに来た造りのいい馬車を見て、「いいなあ、僕も乗ってみたい」などと無邪気にはしゃいでいたあの日の笑顔を思い出す。
「おかえりなさい。ずっと待っていたんですよ。母上なんか朝からそわそわして、馬車が見えた途端にこの状態ですからね。辺境伯の方々もようこそおいでくださいました。僕はアルバート・シューリス、アリアーネの弟です」
14歳とは思えないほど堂々とした態度に、オスカー様もほう、と感心したようにため息をつく。
私は気がついたら、黙って泣き崩れるお母様に近寄って手を差し伸べていた。
気配に気づいたお母様が「アリアーネ……!」と言いながら私を抱き寄せ、8年ぶりの母親の温かさに包まれる。
記憶の片隅に落ちていたどこか懐かしい母の香りがして、私の目にも自然に涙が浮かんでいた。
夕方になると、このところ多忙を極めているらしいお父様も帰ってきた。
実は、今回の大神官及び王太子の断罪劇に関し、お父様と王都神殿の若き神官ヒューバート、リアム殿下は密かにつながり、大神官らの悪事の証拠を掴むべく奔走していたという。
私が追放されたことによって、ヒューバートは義憤をもってお父様に神殿内部の有り様を知らせ、私を匿うことにしたオスカー様はお父様に手紙を送った。
事実を知ったお父様は王家に惨状を訴え、もともと神殿とイライアス殿下について内密に探っていたリアム殿下の指示もあって、主に神殿内部の不正や汚職について調べていたんだとか。
そして今後、神殿の組織形態を大きく改革していく職務を担うことになるだろう、とお父様は話す。
「大神官一人に権力が集中する組織形態は、どうしても腐敗や癒着を生みやすい。陛下もおっしゃっていたが、昔から神殿と王家の癒着は問題視されることが多かったんだよ。だからこそ、これからはもっと民主的で透明性を保持した在り方を模索していく必要があるだろうね」
「ロエアの暴走は、イライアス殿下の後ろ盾を得てからますますエスカレートしたと聞きます。2人は持ちつ持たれつで傍若無人に私腹を肥やしてきたのでしょうね」
「そうらしい。しかしそんなやり方に、内心反発を覚えていた神官も少なくなかったようだよ。今回ヒューバートが声を挙げてくれたおかげもあって、従来の在り方に異を唱える神官も増えている。一部の者だけが搾取され、限られた者がその恩恵を貪るような仕組みに聖職者として強い不快感を抱く者は多いだろうからね」
これまでも頻繁にやり取りしていて面識のあるオスカー様とお父様は、硬い話題ながらも和やかに話を続けている。
恐らくおおよその事情をすでに知っていたお母様やアルバートも、感激した様子で聞き入っていた。
「私も神殿のやり方には不信感しかないからね。思う存分改革させてもらうつもりだよ」
そう言ってお父様はにこやかに笑うと、不意に真面目な表情をして私の方に顔を向ける。
「アリアーネ」
その目は、後悔と強い呵責の念に縁取られていた。
「不甲斐ない父親で本当にすまなかった。神殿に抗えず、随分と長い間お前に辛い思いをさせ続けてしまった。私は父親として、自分を許すことができない」
「そんな……」
「しかし、奪われた時間はもう戻ってはこないが、幸いお前はこうして無事に我が家に戻ってきてくれた。しかも、辺境伯というこれ以上ない伴侶と一緒にだ。父としてこんなにうれしいことはない」
「本当に。オスカー様には改めて、お礼を言います。アリアーネを助けてくれて、本当にありがとうございました」
またお母様が目にうっすらと涙を浮かべて頭を下げようとするから、オスカー様は慌ててその言葉を遮った。
「いえいえ、アリアーネ様を助けたのは私ではありません。ここにいる、ブリジットなのです」
「え?」
「アリアーネ様が魔獣の森に追放された際、我が邸にお連れして保護するべきだと訴えたのはブリジットなんですよ。王太子の命令など馬鹿馬鹿しい、と憤慨しましてね」
「まあ」
お母様は私の隣で大人しくお茶を飲んでいるブリジット様を、感激したような眼差しで見つめる。
ブリジット様は突然話題の中心が自分になったことに面食らい、「あ、あの、はい」などとちょっとしどろもどろになった。
ちなみに、ブリジット様がここまでずっと大人しかったのは、他家でお茶を戴くというこれまでの令嬢教育の成果を試す一大イベントに挑戦しているからである。
「ブリジット様、本当にありがとうございます」
「い、いいえ。私は人として当然のことをしたまでで。命を粗末にするような王太子殿下のやり方には、どうしても賛同できなかっただけです」
そう言って、音を立てることなくティーカップをソーサーの上に置こうと全神経を集中させたブリジット様は、達成感からなのかにこやかな笑顔を見せた。
その健気さが可愛らしくて、私は小さくふふ、と笑ってしまう。
そんな私の様子にみんながほっとしたのか、それからの家族の時間は穏やかに流れていった。
夜。
今夜はきちんと、私はオスカー様と同じ客室に通された。
さすがに実家で「まだ本当の夫婦ではないので」と言うこともできず、同じ部屋に泊まることになるとオスカー様は諦めたような照れ笑いをした。
「アリアーネ様はベッドで寝てください。俺はこのソファで寝るので」
「そういうわけにはいきません」
「いや、でもあなたをソファで寝かせるわけにはいかないし」
何故、別々に寝る前提になっているのかしら。
今日までの流れで、私はとうに覚悟を決めているのに。
だから頑としてソファから動こうとしないオスカー様の前につかつかと歩み寄り、立ったまま上から見下ろした。
「オスカー様」
「なんですか?」
「お願いがあります」
「お願いされても、俺はソファを譲りませんよ」
「そういうことではなくて」
私は唇を引き結び、体中の血がすべて顔の辺りに集まってくるのを感じながらも、一気に言い切った。
「わ、私をオスカー様の本当の妻にしてほしいのです!」
「は?」
まったくの想定外だったのか、オスカー様はあまりお目にかかれないような間の抜けた顔で私を見返している。
「え? アリアーネ様、今なんて……」
「2度も言えるほど、私だって破廉恥ではありません!」
これ以上ないというくらい上気した頬を持て余し、目を泳がせる私の左手を黙ったままそっと握るオスカー様。
「……アリアーネ様」
「はい」
「いいの?」
「はい」
「わかってる? もう後戻りはできなくなるんだよ?」
「わかっておりますし、後戻りしたいなんて思いません」
「でももしも」
「オスカー様」
握られている手から、オスカー様の熱が伝わってくる。
私は一瞬だけ目を閉じ、それから今度はしっかりと、切なげに私を見上げるオスカー様の目を見つめた。
紺青色の闇に星をちりばめたような光が、キラキラと揺れている。
「私の気持ちはすでに決まっています。この先、あなた以外に心が動くことは決してありませんし、あなたの妻になって後悔することも一生ありません。私の望みはただ一つ、あなたの妻に――」
最後まで言うことは、できなかった。
立ち上がったオスカー様が、私を強く抱きしめたから。
「……どうやら俺は、間違ってたみたいですね」
私を腕の中に閉じ込めたまま、オスカー様は少し掠れたような低い声で話し出す。
「俺は、俺たちの結婚が急に決まったことだったから、あなたが俺のことを好きだとしてもまだそこまでの気持ちはないだろうと勝手に思い込んでいました。俺の方があなたを好きすぎて、それでまたあなたに負担を強いるようなことになりはしないかと心配で……。だから、あなたの気持ちがしっかりと決まるまで時間が必要だと思ってたんですけど」
そこで一旦言葉を切ったオスカー様は、顔を私の耳元に寄せ、それから甘くささやいた。
「でももう、我慢しない」
その瞬間、私は一昨日と同じようにオスカー様に横抱きにされていた。
そのままベッドまで連れて行かれて、すとんと座らされる。
見上げると、初めての熱を孕んだオスカー様の目があった。
「我慢、していたのですか?」
「そうだよ」
「でも一昨日一緒にベッドに入ったときだって、先に眠って……」
「あれは寝たフリですよ。俺が寝ないと、アリアーネ様だって寝なかったでしょう?」
「え……」
「好きな人が自分の腕の中にいるのに、すんなり眠れるような男はいないよ」
そう笑ったオスカー様の唇が、私の唇に重なる。
そうして、私たちはようやく、本当の夫婦になった。
次の日の朝。
オスカー様の腕の中で目覚めた私は、意識がはっきりしてくるにつれて何が起こったのかを思い出し、恥ずかしさに硬直した。
と同時に、あることに気づく。
……え、ちょっと待って。
これって……。
慌ててがばっと体を起こすと、その動きで目を覚ましたらしいオスカー様がのそりと腕を伸ばした。
「……ん? アリアーネ……?」
とろけそうなほど幸せな顔をしながら、もう一度私を腕の中に捕らえようとして失敗する。
「え? アリ……?」
「あ、ごめんなさい、オスカー様!」
するりと身をかわしてベッドから急いで出た私は、ささっと身支度を整え、部屋を出てブリジット様の泊まっている部屋に走った。
廊下ですれ違った侍女に不審な顔をされながらも、ドアをノックして「ブリジット様! もう起きてますか?」と声をかけるとすぐさまドアが開く。
「あれ? アリー様、おはようございます。どうかしました?」
「あ、あの、ブリジット様、落ち着いて、聞いてくれる?」
「なんですか?」
「力が、癒しの力が、戻ってるみたい……!!」