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城よ

二頭の狼は、正に暴れ狂う獣だった。

空にぽっかりと開いた穴から現れる魔物たちを噛み砕き、鋭い爪で切り裂いた。足の踏み場もない程散らばっていく魔物たち。


何体か逃した個体がマチルダに向かってくるが、それらは全て消し炭にしてやった。


「おやあ…やっぱり狼は厄介だねぇ」


嫌そうな顔をしているヘルメルが、もう一度小さな笛を吹いた。

耳をつんざく嫌な音。それは狼の耳にはより一層耳障りだったようで、ナディアとオスカーは動きを止めて呻いた。


「詠唱するから援護を頼むよ」

「はい、先生」


笛の音に合わせ空に開いた穴から、再び魔物の群れが顔を出す。狼たちに食い散らかされぬよう、リズは魔法を使って魔物たちを援護しているらしい。


「ああもう…!何が起きているの!」


苛立たし気に吼えたナディアの口元から、バチバチと音を立てながら光が漏れる。

すぐさま後ろに飛び退いたオスカーはマチルダの前に立ちはだかり、すぐさま防壁を張った。


「目を閉じなさい!」


これから何が起きるのかは分かっている。

オスカーに言われた通り目を閉じ、ついでに耳も塞ぐ。ロルフも同じように目と耳を塞いで姉の攻撃が終わるのを待つ。


「雷帝の怒り!」


確かにそんな声が聞こえた気がする。

ナディアが詠唱する声を初めて聞いた気がするが、その声はすぐさま雷鳴に掻き消された。


オスカーの障壁に守られていても、肌がびりびりと痺れるような気がした。

髪の毛が逆立つ感覚が気持ち悪い。地面が揺れる程の雷魔法が静まるのを待つしかないのだが、苛立っているナディアは攻撃をやめる気にならないようだ。


「ナディア!城を壊す気か!」


落ち着けとオスカーが吠えるが、ナディアはまだ苛立ちが収まらないのかがぱりと口を開いてヘルメルとリズの方を向く。

攻撃音が止まりうっすらと目を開いたマチルダの視線の先で、ナディアの口元に金色の光が集まるのが見えた。


「姉上!」


ロルフが叫んだ。あの攻撃を放たれてしまえば、ヘルメルと一緒にいるリズまで黒焦げになってしまうだろう。

姉を止めるロルフの声も虚しく、ナディアの口元から真直ぐに金色の光線が放たれる。


「危ないじゃない」


そうぽつりと呟くと、リズは表情を変えずにヘルメルの腕を掴んで迷うことなく塔から飛び降りる。

放たれた光線が塔を破壊するが、その瓦礫に巻き込まれぬよう防御壁を張ったまま地面へと降り立った。


「ローゼンハイン嬢、どういうつもりか聞こうか」

「ごきげんよう公爵様。どう…と仰られましても」


可愛らしく小首を傾げたリズは、この場面だけ見れば巨大な狼に今にも食い殺されそうなか弱い乙女だ。

だが、しっかりとヘルメルの腕を掴み虚ろな目をしているリズは、間違いなくこの惨劇を生み出した人間の一人なのだ。


「私は…私の思うとおりにしているだけです」

「思う通り、とは?」

「公爵様もご存知でしょう。私は王太子妃最有力候補でしたが選ばれませんでした。巷では私が心に決めた方がいるから断ったと言われているようですが、それは事実ではございません」


スラスラと言葉を並べるリズは、足を痛めて動けずにいるロルフに視線を向ける。

無表情だったリズの口元が、うっすらと緩んだ。


「確かに想いを寄せる方はいましたが…私は幼い頃から王太子妃になる為に育てられたのです。両親からのその期待を裏切る事が、どうして出来ましょうか」

「話が長いのよ!」


苛立ったナディアが体を低くして唸る。

朝から異常事態に巻き込まれ、食事にもありつけないまま戦い続けているのだ。普段から空腹になると機嫌が悪くなるナディアの我慢も限界に近かった。


「簡単に申し上げます。私は王太子妃に選ばれなかった。選ばれなかった私に存在価値は無いと、両親は私を見限りました。だから、私を選ばなかった王家も、この国も、消えてしまえば良い」


意味が分からない。

リズが言っている言葉はきちんと耳に届いているのに、言葉の意味を理解する事が出来なかった。


王太子妃になる為に育てられてきた。いつか王妃になる為に教育され、育てられてきた筈だった。

詳しい理由は分からないが、リズは選ばれなかった。両親に見限られたという言葉の通りなのであれば、リズは大事に慈しまれていたわけではないのだろう。


両親に見限られたのは王太子妃に選ばれなかったから。選んでくれなかった王家に対して恨みを抱いた。

だからといって、こんな騒ぎを起こすような人だろうか。


マチルダも、ラウエンシュタイン家の三人も、リズという女性の人間性を考えればそんな事をするような人ではないと分かる。


あまり深い付き合いではないマチルダでさえ、リズは見返す為に努力する人間だと知っている。


「いやあ、王家ってのは残忍だからねぇ。酷いやつらだよ、本当に」


にたにたと笑いながらリズの肩を抱くヘルメルは、胸元に下げていた真っ黒な石を見せ付ける。

それが何か分からないマチルダは眉根を寄せるだけだったが、オスカーとナディアは息を飲んだ。


「瘴気の結晶…!」

「何故そんなものを!」


順番に吠えたオスカーとナディアの前で、ヘルメルは声を上げて笑い出す。

何が可笑しいのか分からないが、その笑い声は酷く不愉快だった。


「僕は少し手助けをしただけさ。この子が苦しんでいるようだったから、自分の心に素直になれるようにね」


瘴気の結晶とやらが存在する事は知識として知っている。非常に濃い瘴気の中に稀に現れる結晶で、瘴気に侵された魔法生物が摂取するとより凶暴性を増し、変化する厄介な代物。


瘴気を浄化しつづけなければいけないのは、瘴気の結晶が生れてしまうと面倒だからというのも理由の一つだった。


「心に闇を抱えている人間はね、瘴気の影響を受けやすいんだ。いやあ、この子はとっても良い闇を抱いていたよ。可哀想に、王太子妃としても選ばれず、愛した男にも選ばれない。誰からも必要とされない人生になった現実を受け入れられない…」


するすると言葉を紡ぐヘルメルの声が耳障りだ。睨みつけたマチルダの視線が不愉快なのか、リズは僅かに眉間に皺を寄せた。


「人の事情を勝手に話さないでいただけますか」

「おや、ごめんよ」


にんまりと笑い、ヘルメルは手にしていた結晶を胸元にしまい込む。

不機嫌そうに眉間に皺を寄せたままのリズが、ふいに鼻を抑えた。


マチルダの鼻にも強い臭気が突き刺さる。

生理的な吐き気がこみ上げるが、鼻を抑えて耐えた。オスカーとナディアは耐え切れなかったのか、変身を解いて人間の姿に戻っている。


「鼻が…」

「何だ一体…」


目尻に涙を浮かべ、周囲の様子を伺うオスカーの瞳にそれは映る。

開いていた穴が閉じ、真っ青な空に広がる赤。


揃って見上げた空を飛ぶそれは、真っ赤な体をしたドラゴンだった。


「火竜…!」


ロルフが呟く通り、それは火の粉を撒き散らしながら飛ぶ火竜。どうしてこんな所にと続くオスカーの言葉に答えたのはヘルメルだった。


「僕の眷属さ!」


ドラゴンが羽ばたく度に、小さな火の粉が降り注ぐ。地面に落ちる前に消えてしまう程の火の粉だったが、それよりも風と共に吹き付ける腐臭の方が厄介だ。


呼吸をする事を躊躇する程の匂い。目尻に涙が溜まるのは生理的な物なのだから仕方ないが、ドラゴンから腐臭がするなんて話は聞いた事が無い。


「いやあ、ちょっと腐っちゃったかな。臭いったらもう」


鼻を摘まんで嫌そうな顔をしているヘルメルの頭上を羽ばたく火竜は、城の屋根に爪を突き立てて止まる。

王都のシンボルである城に火竜が止まっている姿は、王都の何処からでも見られることだろう。


今頃、ラウエンシュタイン邸でも騒ぎになっているに違いない。

今すぐ屋敷まで戻って、王都の外へ避難させた方が良いだろうか。それとも、ここに残ってドラゴンを追い払った方が良いのだろうか。


どう動けば良い?

この状況は何だ?


分からない、どう動けば良いのかわからない。


「マディ、下がって」


じりじりと後退してきたナディアが、緊張した面持ちで言う。

腕で鼻を抑えているが、その拳にはロルフと同じようなナックルダスターが嵌っていた。


「何かおかしいの。火竜から腐臭なんてしない筈なのに…」


ナディアは普段の仕事で火竜を見た事があるらしい。火山の噴火口で大人しくしている筈なのに、どうして遠く離れた王都にいるのかも分からない。

強烈な腐臭を放っているなんて、何があったのか分からない。


そう続けたナディアは、ヘルメルがまた小さな笛を握りしめた事に気付いて腰を落とした。


「マディ、私の弟なの。あの子をお願い」

「え…?」

「貴方なら、あの子を連れて逃げられるでしょう?」


にこりと微笑み、頼んだわとマチルダに言うと容赦なくマチルダの腕を掴んでロルフの元へ投げた。


「マチルダ!」

「うっ…」


投げられると思っていなかったマチルダは地面に転がるが、すぐさま起き上がってロルフの腕を掴む。

逃げろと言われたのだから逃げなければ。きっとここに残っても、大して役には立てないだろう。それどころか邪魔になるだけかもしれない。


「うおおお…!!」

「うっ」


男の声と共に、ロルフが小さく呻き声を上げた。

何事かとロルフの方を見れば、ロルフの背中の上にコニーが乗っていた。


「も…やだ…死ぬかと思った…」

「ケーニッツさん!」


のろのろと起き上がったコニーは、ロルフの背中をぽんぽんと叩きながら無事を喜ぶ。

驚いて目を見開くマチルダにも手をひらりと振ってにへらと笑った。なんとも気が抜けるが、この場に来られても困る。お荷物が増えただけだ。


「ラウエンシュタイン邸にクロヴィス殿下が来てな。魔物のせいで防御魔法が弱ってるから、それ強化してくれるって」


王族は皆避難している筈。だというのに、クロヴィスはいつものお供を連れてラウエンシュタイン邸に現れたらしい。

ロルフが城に向かったとゾフィと共に騒げば、クロヴィスはとびきり良い笑顔でコニーに用事を言いつけたらしい。


「怪我をしているだろうから、傷薬を持って早く行けってさ。酷いだろ?ぶん投げられたんだぜ!」


ドラゴンに怯えながらも、コニーは明るい声色でポーチから傷薬を出した。

とろりとした琥珀色の液体で満たされた瓶。それを手渡されたロルフは、迷うことなくそれを飲み下した。

出血していた足はみるみる傷が塞がり、ゆっくりと立ち上がると地面を蹴って具合を確認する。


「母上の薬はよく効く」

「そんで、こっちはフロイデンタールにって。魔力切れ起こしてそうだから持って行きなさいって」


紫色の液体で満たされた小瓶。よく見ると金色の粒が液体の中で輝いている。

コニーの言う通り、魔力は既に限界まで使っている。ロルフを連れて逃げられるか不安になる程の量しか残っていなかった。


「…苦い」

「良薬は口に苦し、ってやつだな」

「そこ!喋ってないで早く行きなさい!」


ヘルメル目掛けて魔法を放つナディアが、こちらに視線を向ける事無く叫ぶ。コニーが増えている事には気付いているようだが、若い学生たちを逃がす事しか考えていないらしい。


「公爵様!奥様からです!」

「ありがたい!」


腰に下げていたポーチを外し、コニーは思い切りオスカーに向けて投げた。それを受け取ると、オスカーはにっこりと微笑みながら若い三人に掌を向ける。


「早くお逃げ。妻を頼んだよ」

「どこかでリカートお兄様を見つけたら、早く合流する様言ってちょうだい」


肩越しに微笑むナディアの顔は美しい。

その向こうでリズが逃がさないとばかりに攻撃魔法を放つのが見えた。


「ちちう…」


ロルフの言葉は続かない。

見えない何かに包まれ、三人の体はふわりと宙に浮く。

リカートの腕が振り払われると、三人は城の敷地から離れるように、瓦礫だらけの城下町へ弾かれた。


「戦える!俺だって!」

「ロルフ様…」

「ラウエンシュタインだ!俺も!アンタの息子だ!」


悔しそうに涙を浮かべるロルフは、見えない壁に拳を叩き込む。

あっという間に城から離れ、ドラゴンの姿も小さくなった。オスカーとナディアの姿はもう見えない。


「これ…もしかしてラウエンシュタイン邸までは届かないのでは…」

「やっべ落ちる!」


城に気を取られていたが、地面がすぐそこまで近付いている。

地面に叩きつけられぬようマチルダが防御壁を張るが、見えない何かは三人を優しく地面に降ろしてくれた。


「クソ…クソ!」


すぐに城に戻ろうとするロルフを、コニーがしがみ付いて必死で止める。戻っても何も出来ない。それならば早く屋敷に戻って避難の手伝いをするだとか、やれる事をした方が良いと説得を試みるものの、完全に頭に血が上ったロルフはコニーを振り払おうと藻掻いた。


「落ち着かないか、ロルフ」


ロルフの後頭部に何かが当たる。

ゆったりとした男の声に、マチルダとコニーが振り向いた。

少し服を汚しているクロヴィスと、いつものお供たち。揃って瓦礫の中を歩いて来たようだ。


「殿下…」

「わざわざ探しに来てくれたんだって?悪かったね、避難しろと言われたんだが、こういう時に前線に立つのが王家の役目じゃないか。そう思うだろう?」


にっこりと微笑むクロヴィスは、まっすぐにロルフの元へ歩み寄ると優しくロルフの頭を撫でた。


「私以外の家族はお前の兄と一緒に逃げたよ。今頃城から離れた何処かで身を隠しているさ。国と民を守る役目から逃げるなんて…恥知らずも良い所だ」

「王家の皆様がいらっしゃらなければ、国は…建て直せません」

「その前に国が滅びてしまっては意味が無い。それより、我が城に爪を立てているあの火竜は?」


くしゃりとロルフの髪を撫でながら、クロヴィスは遠くに見える城を睨みつけた。

流石にこれだけ離れていれば、鼻をつく臭気は幾分かマシになっており、クロヴィスにはただの火竜にしか見えていないようだ。


「ヘルメルの…眷属だそうです」

「は…?」


クロヴィスの後ろに控えていたシュレマーが、間の抜けた声を漏らす。結界を張って回っていたらしい真っ青な顔をしたギーレと、それを支えるレーヴェは、意味が分からないと目を見張るだけだった。


「詳しい事はわかりませんが、ローゼンハインさんも一緒にいました。ヘルメル先生が笛を吹いて…魔物が現れて…」


自分で説明していても訳が分からない。

目の前で見た筈なのに、何があったかも見ていた筈なのに、矢張り状況の理解が追い付かなかった。


「ヘルメルがこの惨劇を起こした事だけは分かった。とにかくヘルメルをどうにかしないと話は終わらないみたいだ」

「父と姉が戦闘中です」

「流石王家の狼だ。私たちは城に行くが、君たちはラウエンシュタイン邸へ」


そう指示を出したクロヴィスに、ロルフは何か言いたそうな顔をした。だが、その口から何か紡ぐ事は出来なかった。

地面を揺らす程の衝撃音。耳をつんざく咆哮。


びりびりと体が痺れるような感覚が気持ち悪いが、それがどうして起きているのかはすぐに分かった。


「城が…!」


土煙に覆われた城。

徐々に城が崩れているのが見える。飛び立ったドラゴンは、悠々と城の上空を円を描く様に飛んでいる。


周囲は瓦礫の山。城は崩れ、火竜が上空を旋回している。

何故、どうしてこうなった?これは悪い夢?


もしもこれが悪い夢なのならば、早く醒めてほしかった。


目が覚めたらきっと、町はいつもの光景で、朝食だと騒ぐナディアが早く行こうとゾフィを抱えながら部屋に押しかけてくる。


「どうして…」


どうして、いつもの朝ではなかったの。

ぽつりと落ちた言葉に、誰も何も返してはくれなかった。


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