ヘルメル先生
麗しの公爵令嬢は今日も今日とて美しい。
ゆったりと笑みを浮かべているように口角の上がった唇は薔薇色で、金色の髪は綺麗に編み込まれ、水色のリボンで飾られている。
制服をきちんと着て、マチルダのように何処かを改造しているというような事もない。
誰が見ても校則を遵守する、優秀な生徒。完璧な公爵家のお嬢様。
それが、リズ・トリシャ・ローゼンハインという女子生徒だった。
「はいはい、何を考え込んでいるのか知らないけれど、手は動かしてくれないと」
リズという女性の事を考えていたマチルダは、背後から聞こえた男の声にびくりと体を震わせる。
ヘルメルに言いつけられた罰則の為、授業を終えてすぐに飼育場に来ているのだ。動物たちに与える餌の支度をするように言われ、飼葉を仕分けている最中だった。
「愛しの彼の事でも考えていたのかな?」
「いえ…」
「それとも、また良からぬ事を考えていたとか」
「良からぬ事…とは?」
それを考えているのはお前ではないのか。
そう言いたいのをぐっと堪え、マチルダは何を言いたいのか分からないと曖昧に微笑みながら再び飼葉の仕分けを始める。
小動物は少しの量で良いが、大型の動物は食べる量も多い。飼育するエリアは大まかにわけられているが、各飼育場所まで運ぶのも大変なのだと、ヘルメルは言った。
「ここにいる動物たちは、先生が捕獲されたのですか?」
「僕が捕獲した子もいるけれど、大体は保護された子だよ。あとは繁殖しすぎてどうもならなくなったりね」
研究の為に生き物を捕獲する事は出来るだけ避け、必要最低限の数だけ捕獲する。研究の為に命を奪うような事もせず、終わったらすぐに元居た場所に戻してやる。
それを基本とし、何らかの事情があって元いた場所に戻せない場合のみ、こうして飼育場に残しているらしい。
「君に取られた影食い狼もそうさ。元いた群れに戻せば、きっとあの子はまた苛められる。もしかしたら人間に捕らえられた個体だから、今度は殺されるかもしれない」
生かす為に捕らえたとでも言うのだろうか。
飼葉を仕分ける手を止めずに話を聞きながら、マチルダはうっすらと眉間に皺を寄せた。
「先生は…生き物がお好きなのですね」
「まあね。不思議で美しくて…面白いだろう?」
にこりと微笑み、ヘルメルはピイピイと鳴きながら肩に降りて来た小鳥に指を差し出す。
人差し指に留まった小鳥はヘルメルによく懐いているのか、何度も小首を傾げながら歌う様に囀る。
「この子は僕が卵から孵した。親鳥が死んでしまってね。卵が無事だったら良いなと思って温めたんだ」
「そうでしたか」
「人間とは違う…手を掛ければ掛けただけ、この子たちは僕に懐いてくれる。可愛いったらないよ」
へにゃりと顔を綻ばせたヘルメルを初めて見た。
いつもにこにこと穏やかに微笑んでいるところは見ているが、心の底から笑っているように見える今の表情は初めて見るものだった。
言葉の通り、生き物が好きで好きで仕方が無いのだろう。囀っている小鳥に鼻先を寄せ、くすぐったいよと微笑んでいるこの姿こそが、本当のヘルメル・デトモルトという男なのだろうか。
「そういえば…先日授業でお見せいただいたドラゴンは元気にしていますか?」
「ああ、元気だよ。後で餌をやるから一緒に行こうか」
ドラゴンはいつだって美しい。火の光を反射する鱗の輝きも、宝石をそのまま埋め込んだような煌めく瞳も、その造形も全てが美しい。
そう語るヘルメルは、まるで幼く無邪気な子供のようだ。
仕分けた飼葉を二人で運んでいる最中も、一度授業で習った生き物であっても丁寧に説明をしてくれた。
どういう生き物で、好きな物は何で、どういう特性があるのか。避けなければならない事、その個体毎の性格。ただ研究対象として見ているにしては細かすぎる説明に、マチルダはどう反応すれば良いのか分からないまま、黙って飼葉を与える作業に集中した。
「そういえば聞いたよ。休暇中にルバトロンを生け捕りにしたんだって?」
「ええ、まあ」
「凄いねぇ、あの子たちは捕まえるのが難しいんだ」
もう何度もされた話。ここでもそんな話かとうんざりしたが、ヘルメルはいつか自分もルバトロンを生け捕りにしてみたいと無邪気に笑う。
「昔はギルドに所属したかったんだ。まあそれは叶わなかったけれど…経費で好きに研究出来るのは嬉しいね」
自分の望んだ進路にそのまま進める人間は少ない。学生の中には既に将来どんな仕事をするのか、誰と結婚するのかさえ決められている者が多い。それは、実家の事情であったり、親が決めた事に従わなければならないという理由からであって、本人が決めた事であるという者は少なかった。
「君は進路は決まったのかな?もう数ヶ月で上学年に上がるけれど」
「いえ…まだ決めておりません」
「そうかい。それなら君はギルド所属の魔法使いになったらどうだい?君程の腕があれば、売れっ子になれると思うけれど」
ギルドに所属している魔法使いは、腕が良ければ仕事を回してもらう機会も多い。そうなれば大金を稼ぎ、裕福な生活を送る事も出来るのだ。
勿論、そうなれる者は限りなく少ないが。
「私は…皆様が思う程強くはありませんわ」
「よく言うよ!誰もが君を学園一番の術師だと思っているよ。王宮術師の更に一番、主席術師にだってなれる」
「なりたいと思いません」
「どうして?」
何故、と問われてもその理由はマチルダにも分からない。ただ心惹かれないだけと言えばそうなのだろうが、明確に言葉にする事が出来ずに口ごもった。
「まさか、将来の夢はお嫁さんなんて子供みたいな事言わないよね?」
「私とロルフ様が結ばれる事は運命ですもの。女神様がそう決められているのですから、そうなるのが当然ですわ」
ロルフに関する事ならこんなにもスラスラと言葉が出てくるのに、自分の将来の事となると言葉が出てこない。
実家に援助はしない、卒業したらもう家には戻らないと決めはしているが、自分自身の道となるとぼんやりとして何も見えない、思い浮かばない。
「ラウエンシュタインのどこが良いんだい?」
「私よりも強く、優しく、私を愛してくださるところです」
「腹を蹴り飛ばされたって話は聞いた事あるけれど、それで恋をしたって言うのかな?」
その通りだ。自分でもおかしな事を言っているという自覚はある。
だがそれでも、本当にあの日腹を蹴り飛ばされ、地面に転がされて恋をしたのだ。野獣に変身する、優しく体の大きなロルフという男に。
「ヘルメル先生は、ご結婚されないのですか?」
「ええ?嫌だよ。女性の相手は疲れるからね」
「女である私を前に言うのですね」
「おや、これは失礼。でも僕は人付き合いが得意な方じゃないんだ。女性は難しいから…正直、恋人に時間を使うより研究に没頭していたいんだよね」
へらりとそう言ったヘルメルの表情に嘘は無いのだろう。
優しく慈愛に満ちた視線を向ける先は、人間の女ではなく不思議な生き物たち。きちんと世話をしている証拠なのか、動物たちは皆ヘルメルに懐いているようだ。
酷い扱いをしていれば、動物たちはすぐに態度に出る。威嚇するなり、怯えるなりするものだが、ヘルメル相手にそのような態度をとる動物はいなかった。
「さて、肉食の子たちにもご飯をあげないとね。手伝っておくれ」
これ以上詮索されたくないのか、ヘルメルはやけに明るい声色で話題を変えた。
やれ見た目は怖いが本当は臆病な生き物だの、あまり一度に肉を与えると腹を下すだの、生き物の事を話すその表情は、とても明るく穏やかなものだった。
◆◆◆
罰則初日は餌やりだけで終えてしまった。
一人でやるには大変だから助かったとヘルメルは笑ったが、マチルダは気疲れしてぐったりとしていた。
「大丈夫、マディ?」
「ええ…大丈夫よ」
「ヘルメル先生ってそんなに人使い荒いんだ」
そういうわけでは無いのだが、事情を知らないゾフィに詳しい話を聞かせるわけにはいかない。心配してくれているのはよく分かっているが、話すに話せないこの状況が何だか心苦しかった。
一日を終え、あとはもうベッドで眠るだけというこの状況。マチルダはぐったりとベッドに横たわり、ゾフィはその脇でぽんぽんとマチルダの背中を軽く叩いてあやしている。
きっと孤児院に居る時、自分よりも幼い子供を寝かしつけたりしていたのだろう。規則正しく、程良い強さで叩かれる背中が心地よくて、マチルダの瞼が徐々に重たく落ちていく。
「で、何隠し事してんの?」
ゾフィの声はいつもよりも固い。
ぴくりと指先を震わせたマチルダは、一番の友人がどこまで察しているのか分からず返事をする事が出来なかった。
「最近愛しの彼と何かコソコソやってるよね。大嫌いだって言ってた王子先輩とも何かしてる。何してるの」
「…何も、無いわ」
「嘘だ。何で隠すの?」
出来る事なら友人に隠し事などしたくない。抱えている事を全てぶちまけてしまいたいが、そうしてしまえばゾフィは自分も協力すると言い出すだろうか。それとも、危険だと怒るだろうか。
「危ない事してないよね?ルンバルドさんに頼まれた依頼だって、一回断ってたじゃん。何でわざわざ受けたの?何か理由があって受けたんじゃないの?」
するすると出てくるゾフィの質問。
そのどれ一つにすら、どう答えれば良いのか分からない。
何も答えないマチルダに苛立ったのか、ゾフィはマチルダの背中の上でぎゅっと拳を握りしめた。
どうして何も言わないのと、僅かに震えた声がした。
「あのね、ゾフィ…違うの聞いて」
泣いているのだと思った。友人を案じて泣いてくれる優しい人を無視して泣かせておくことなど出来なかった。
慌てて起き上がり、ゾフィに向き直ったマチルダは、涙など一筋も流していないゾフィにぱちくりと目を瞬かせる。
「泣いてると思ったのに…」
「泣かないけど泣きそうだよ。何か理由があって隠してるのかもしれないけど、心配なんだよ。マディはすぐ無茶するから」
マチルダという女をよく分かってくれている。理解してくれている友人というのは、本当にありがたい存在だ。その有難い友人に、矢言えない秘密を抱えてしまっているこの状況が苦しくて堪らなくなってきた。
「…お仕事を、しているの」
「どんな仕事?王子先輩に頼まれたの?」
「詳しくは言えないの。でも危険な事はしてないわ、本当よ」
ただ見張りをしているだけ。ただそれだけだが、詳しく話をするわけにはいかないだろう。危ない事はしていないと何度も繰り返し、話せるときが来たらきちんと話すからとゾフィの手を握った。
「愛しの彼も、一緒に仕事してるの?」
「ええ、そうよ」
「何で、私は駄目なの?弱いから?それとも貴族じゃないから?」
ぽつりと呟いたゾフィは、大きな瞳からぽたりと一粒涙を落とす。
「なんで愛しの彼は良くて、私は駄目なの!いつも一緒だったじゃんか!」
いつの間にか一番傍にいるのはゾフィでは無くロルフになってしまった。それがとても悲しいのだと、ゾフィは涙を落としながら吐き出す様に言う。
危険な事はしていないのならば、どうして隠すのか、どうして自分が相棒では駄目なのか。そう喚いたゾフィは、ふと我に返ったのか気まずそうに目元を擦りながら「ごめん」と小さく詫びた。
「王族と貴族のやりとりだもんね。ごめん、忘れて」
「…あのね、ゾフィ。クロヴィス殿下のご命令で、ある人を見張るように言われているの」
本当は話してはいけないのだろう。クロヴィスはマチルダとロルフに言いつけたのだ。
あまりこの話は広まらない方が良い。分かっていても、これ以上小さくて愛らしい友人に隠しておくことは出来そうにない。マチルダが心苦しくなってしまったのだ。
「ごめんなさい、これ以上は言えないわ」
「…危ない事は、してない?」
「見張るだけよ。危ない事なんて何もないわ」
確証は無い。それでも、今ゾフィを納得させる為にはそう言うしかなかった。
もしも本当にクロヴィスが疑っているようにヘルメルが良からぬ事を考えていたならば、何を企んでいるのか暴こうとしているマチルダは危険視されるだろう。そうなれば、危険は無いなんて言い切ることは出来ない。
それでも、ロルフだけが巻き込まれるなんて耐えられない。
何をさせられるか分からないのだ。もしもどうしても変身する必要があったら、その時彼はどうなるのだろう。クロヴィスの命令で戦う事になったら?その時どんな状況であっても、彼は命令通り戦おうとするだろう。
一般的な魔法では殆ど戦う事の出来ない彼は、きっと人前で野獣の姿になってしまう。もしそうなったら、彼はどんな扱いを受ける事になるのだろう。
見られたくないと言っていたあの姿を、万が一にも晒す事の無いように。彼を、彼の秘密を守る為に巻き込まれたのだ。
「やっぱり、貴族は嘘つきだ」
「あ…待って、ゾフィ!」
「一人にして!」
酷く傷付いたような顔をして、ゾフィは振り返る事なく部屋を出ていった。
もう消灯時間を迎えるというのに何処へ行くのだろう。消灯時間を過ぎたら部屋から出てはいけない決まりなのだから、もし見つかれば何かしらの罰則を受ける事になる。出来れば止めたいが、今のゾフィを追いかける勇気は、マチルダには無かった。
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