異形の野獣
「お待ちになって!」
「追いかけて来ないでくれ!」
今日も今日とて熱烈な求愛。飽きることなく毎日ロルフを追いかけまわす昼休みを過ごす様になってから早一か月。
いい加減どちらかが諦めれば良いのにと誰もが呆れた頃、それは起きた。
「うわっ」
「ロルフ様!」
裏庭へと出る廊下を曲がり損ねたロルフが、その場で転んだのだ。石造りの廊下に膝を打ち付けたロルフは、その場で痛みに悶えて動けない。
「大丈夫ですか?お怪我はされていませんか?」
おろおろとロルフの様子を伺い、膝に触れようとしたマチルダの手。白く細いその手を、ロルフは慌てて叩き落とした。
「あ…」
ひりひりと痛む手の甲。
触れられる事が嫌だったのだとすぐに理解出来たが、好いた相手に手を叩き落とされる程拒絶されると流石に胸が痛い。
「あの…差し出がましい事を致しましたね。申し訳ございません」
「いや…そうじゃ、違うんだ」
ごめん。
小さく詫びるロルフは、どうしたら良いのか分からないのか視線をあちこちにさ迷わせる。そして、廊下に跪いているマチルダの制服のスリットから見えている真っ白な脚に気が付き、今度は顔を真っ赤にして天井へ視線を固定した。
「あの!ずっと思っていたんだが、年頃の女性がそんなに脚を曝け出すのはどうかと思う!」
「動きやすいんですもの。それに、暗器を仕込むのにも便利なんですよ」
太腿に巻いているベルトに武器を仕込めて便利。そう笑ったマチルダに「誰から狙われているんだ」と叫んだロルフは、早くそれをどうにかしろと片手で目を覆う。
「大体そのハイヒールでどうして走れるんだ…」
「慣れですわ」
女子生徒の多くは踵の高い靴を好んでおり、マチルダもその一人だ。ゾフィは慣れていないし歩けないからとぺたんとした靴を履いているが、走るのならその方が良いのかもしれない。
「転んで怪我をするぞ」
「怪我をしたら、医務室まで運んでくださいね」
「自業自得だ。運ばない」
目を覆ったままそう答えるロルフに、マチルダは唇を尖らせる。だが、走らずに会話が出来ているのが嬉しくて、今はこれでも良いと思えた。
「ロルフ様、私貴方とお話がしたいのです」
「話してるじゃないか」
「走りながらではなくて、落ち着いてゆっくりとです。お嫌ですか?」
おずおずと尋ねるマチルダの声色に、ロルフはどう答えるべきかを考えているのか小さく唸る。
今話しているだけでは満足出来ない。少しの時間でも良いから、日々の中でロルフと関わる時間が欲しい。それすら許されないのなら、何も関係性を変える事等出来やしない。それはマチルダにとっては大いに不満な事だった。
「俺じゃなくても良いだろうに」
「嫌です。私はロルフ様が良いのです」
「俺の何が良いんだ?公爵家の息子だから?三男だから家督は継げないのに」
「いいえ?家柄が良い方は他にもいらっしゃいますが、私よりも弱い殿方に用はありませんの」
ふふふと小さく笑うと、ロルフはそっと手を目元から離す。慌てて姿勢を正し、スカートの裾も整えると、マチルダはじっとロルフの顔を見つめた。長い髪で隠されてはいるが、確かに彼は真直ぐに見つめてくれている気がした。
「君より強い人は、俺以外にも居ると思う」
「今までそのような方にお会いした事がありませんの。ロルフ様は強い女はお嫌いですか?」
小首を傾げるマチルダに、ロルフは少しも動かない。口元はきゅっと引き結ばれたが、視線を逸らす事はしていないようだ。
「弱い人よりは良いけれど、俺からすれば君は他の女性と同じだ」
「何故です?」
「俺が触れたら、壊れてしまいそうで…」
それ以上、ロルフの言葉は続かなかった。
壊れてしまいそうで怖い。そう続きそうな言葉を想像したのだが、マチルダはぱちくりと目を瞬かせるだけだ。
確かにあの日ロルフに蹴り一発で吹き飛ばされた。だが、壊れて等いない。多少怪我はしたものの、それは戦闘ともなれば当然の事で、数日で治る程度の怪我は怪我とも思われないような場所にいるのだ。
何をそんなに恐れているのだろう。過去に何かあったのだろうか。
そう想像してしまうマチルダの前で、ロルフはそっと立ち上がる。
「俺は君に好意を抱いてもらえるような人間じゃないんだ」
「何故ですか?」
「俺は異形だから」
そうぽつりと呟くと、ロルフはそのまま静かに俯いた。
異形とは何の事だろう。何が言いたいのだろう。
色々と聞きたい事はある筈なのに、マチルダはそれを言葉にする事が出来なかった。
今何かを言えば、ロルフが何処かに逃げてしまうような気がした。座り込んだままそっとロルフの手を取ると、その手はびくりと大きく震える。
「変身魔法を使える一族が居る事は承知しております。ロルフ様のご実家であるラウエンシュタイン家もその一つですわよね」
魔法を使う者の中でも特殊な者たち。
一族固有の魔法を使う者たちが、この世界にはいる。数は少ないが、その魔法はどれも協力な物で、その力を国の為に使わせようと、それぞれの一族は各国で好待遇で囲われていた。ロルフもそういった一族の一人なのだ。
「変身魔法は異形ではありません。特別な魔法というだけです。違いますか?」
「そうだ。だが、俺はその中でも特殊なんだよ」
ふるふると首を横に振り、ロルフはそっとマチルダの手を離す。これ以上触れてくれるなとでも言うように、ロルフはマチルダから三歩離れた。
「ロルフ様…」
「動かないで」
立ち上がろうとしたマチルダを静止すると、ロルフは大きく息を吸い込んだ。ふいにロルフの長い髪が舞い上がる。露わになったロルフの顔は、鼻筋の通った綺麗な顔をしていた。
なんて綺麗な人なのだろう。
ぽうっとその顔を見つめていた筈なのに、瞬きをした瞬間ロルフがいた場所には獣が佇んでいた。
「え…?」
ロルフの髪と同じ焦げ茶色の毛皮を纏った獣。狼のような、獅子のような、熊のような。むしろその全てを混ぜて固まりにしたような異様な姿の化け物が、寂しそうに動かず立っている。
「ロルフ様…ですか?」
「言っただろう、異形だと」
異形の獣からロルフの声がした。口元がうっすらと開いていることから、声は確かに獣が発しているようだ。
「わざわざ俺みたいなのを選ぶ必要は無いだろう。君にはもっと」
「素敵!」
ロルフの言葉を遮るように、マチルダはキラキラとした視線を向けて感動に打ち震えている。
想定外の反応に唖然としながら、ロルフは言葉を失った。
「何て美しいのでしょう!ラウエンシュタイン家の皆様は狼に変身なさると聞いておりましたが、まさかロルフ様は野獣になれるだなんて!」
「野獣…」
「異形だなんて!確かに狼ではありませんが、ロルフ様にはロルフ様の美しさがあるではありませんか!何ですかそのもふもふとした毛並みは!触れても宜しいですか?」
「恐ろしく…ないのか?」
興奮しているマチルダに大いに引いているロルフは、呆れて力が抜けたのかその場に座ってしまう。まるで大きな犬が座っているかのようだが、その口元から伸びる大きな牙が、犬ではないと証明していた。
「恐ろしいだなんて!恋焦がれている殿方を恐ろしいと思う女が何処にいるのです?恐ろしいお姿をしているわけでもございませんのに!恐ろしいと言っているのはその大きな牙ですか?強者の象徴ではありませんか!虫歯になったら格好が付きませんから、きちんと磨いてくださいませ」
ペラペラと言葉を紡ぐマチルダは、うっとりと目を蕩けさせ、口元はにこにこと微笑み、今度こそ立ち上がると興奮を隠すことなくロルフの毛皮に触れる。
思っていたよりも柔らかい手触りが気持ちが良く、まるでぬいぐるみを愛でる子供のように撫でまわした。
「元々大きい方だとは思っておりましたが、このお姿になると更に大きくなられるのですね。背中に乗れそうです」
「変身しなくても、君くらいなら背負える」
「では、いつ怪我をしても安心ですわね」
さわさわと毛皮を撫でる手は止まらない。
すっかり諦めてしまったのか、ロルフはマチルダが満足するまで好きにさせる事にし、変身なんかするんじゃなかったと遠い目を天井の更に先へと向けた。
◆◆◆
こほんと小さく咳払いをし、マチルダはそっとロルフから距離を取った。
昼休みはすっかり終わってしまい、二人揃って午後の授業をサボっている状態である。
「お恥ずかしいところをお見せしてしまいました」
「今更だな」
魔法を解き、乱れた髪を手で直しながらロルフは僅かに笑う。
初めて笑ってもらえたと感激するマチルダの視線から逃れるように少しだけ体を傾けるが、ロルフはもうマチルダから逃げようとはしなかった。
「私、どの辺りを触らせていただいたのです…?」
「顔と、首と胸…それから背中か?」
「ひい…申し訳ございません」
顔を両手で覆い恥ずかしそうにしているが、マチルダの普段の行動を考えれば本当に今更過ぎる反応だった。仮にも男爵家出身の貴族令嬢ならば、異性に恋をしたとしてもあれだけ熱烈に愛情表現をする事は勿論、恋人でもない相手に触れる事はあってはならない事だった。
「あの…普段牙はどうなっているのですか?」
「え?普通の人より犬歯は尖っていると思うけれど…普通だよ」
ほら。
そう言って口をぱかりと開いて見せるロルフの顔は、いつも通り髪で隠れてしまっている。
まじまじと観察をしてみれば、ロルフの言う通り殆ど普通の人間と同じだ。変身をするというのは、姿そのものを大幅に変えるということ。特別な家系に生まれた者だけが使える特別な魔法は、特別な者として扱われて来たマチルダでも使えない物。故に、ロルフの特別な魔法が気になって仕方が無かった。
「あれだけ大きな体になられると、やはり筋力も大幅に上がるものですか?」
「ああ。学園内の木だったら片腕で折れる」
それなりに太い幹の木もあった筈だが、それを片腕で折れると言い切ったロルフは、本当に強い男なのだろう。
加減が出来ないとあの日言っていたが、それは本当の事で、腹を蹴られたマチルダが内臓を損傷する事なく数日で全快したのは奇跡だったのかもしれない。
そう考えた瞬間ぞっとしたが、それと同時にロルフへの恋心が更に熱を上げたように思えた。
「魔法の加減もそうだけど、力加減も下手なんだ。だから俺は女性に触れるどころか傍に寄るのも怖い。頼むからもう追いかけまわさないでくれないか」
ふいとそっぽを向いたロルフに、マチルダはぐいと距離を詰める。びくりとロルフの肩が揺れたが、それに構わずマチルダは口を開いた。
「変身魔法を使う方々も、人間のお姿ならば普通の人間と同じと聞いた事がありますわ」
にっこりと微笑むと、マチルダはさっとロルフの手を取り指を絡める。ぎょっとしたように此方を見るが、その手を振り払う事無く固まっているロルフが面白くて、マチルダは小さく声を上げて笑った。
「ちょっと背が大きくて、犬歯が鋭いだけのただの人間ですよ、ロルフ様」
にぎにぎと手を動かし、マチルダは握り返せとロルフに視線を向ける。僅かに迷っているようだが、もうこの際だから諦めろと自分に言い聞かせたのだろう。恐る恐るといった動きで、ロルフはそっとマチルダの手を握り返した。
ロルフの大きな掌に、マチルダの細い手がすっぽりと収まる。少しかさついた、とても温かい手。
「君の手は…冷たいな」
「ロルフ様の手が温かいのですよ。私、ロルフ様の手が好きですわ。大きくて、何でも包み込んでくれそうで」
ぎゅっと握り合った手。それを見つめている顔が見てみたくて、マチルダは何も考えずにロルフの長い髪を手で退けた。びくりと揺れるロルフの体。きょどきょどと視線をマチルダの手と顔に順に向けているが、逃げ出そうとはしなかった。
少し垂れた一重の目。それを縁取る長いまつ毛。怯えたような顔をしてはいるが、やはり鼻筋が通った綺麗な顔をしている。金色の瞳が太陽の光を受けてキラキラと輝き、まるで琥珀を目に埋め込んでいるようだと思った。
ほうと溜息を吐き、うっとりとした表情を向けるマチルダに、ロルフはやめてくれと手を離す。顔を背け髪を顔に集めると、膝を抱えて蹲ってしまった。
「ロルフ様の瞳も、好きになりました」
「君は…少し黙ってくれないか」
「隣にいても宜しいのなら、鐘が鳴る迄は黙っていますよ」
その言葉にロルフは応えない。そうして良いと勝手に解釈し、マチルダはにこにこと嬉しそうな顔でロルフの横に居座り続けた。授業が終わるまであと十五分程。きっとあっという間に過ぎ去ってしまうであろうこの幸福な時間を、今はただ噛み締めていたかった。
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