隠し事はできません
ロルフの背中は決して居心地が良いとは言えない。密着していられるのは嬉しいのだが、出来ればそれは人間の姿の時に楽しみたい。
「うええ…」
「大丈夫か?」
既に一度見た光景をもう一度見せられているロルフは、再びマチルダの背中を摩る。
真夜中の学園に飛び込み、あとはお互いの部屋に戻るだけ。
ロルフは女子寮の目の前まで走ろうとしたのだが、それより先にマチルダの限界が来てしまったのだ。
ぐらぐらと揺れる視界から逃れるように、固く目を閉じるマチルダは、しっかりと革袋を握りしめたままだ。目的の物は既に手に入れた。あとはどうにかしてルンバルドに渡すだけ。明日工事現場に行けば会えるだろうが、こっそり手渡す事は出来るだろうか。
「落ち着いたら部屋に戻ろう。朝まで休んで、昼前にルンバルドに会いに行けば仕事は終わる筈だ」
「そう、ですね」
「やあ、そんな所で何をしているのかな?」
びくりとマチルダとロルフの肩が揺れる。
誰にも見られたくない、見られてはならないというのに見つかってしまった。
恐る恐る声の主に視線を向ければ、それはニコニコと穏やかに微笑むヘルメルがそこに立っていた。
「駄目じゃないか、消灯時間はとっくに過ぎてるよ」
「ヘルメル先生…何を」
「何?見回りだよ。最近学園内が荒れてるのは、君たちも知っているだろう?」
決して平和とは言えなくなった学園内の見回りをするのは当然の事だと笑ったヘルメルは、真っ青な表情で蹲っているマチルダに不思議そうな表情を浮かべた。
「体調でも悪いのかい?」
「えと…そう、具合が悪いんです。医務室へ…」
「医務室に行くには随分と遠回りだし、そもそも女子寮の友人と一緒に行くなら兎も角、何故男子生徒の君と行くのかな?」
まだ吐き気と戦っているマチルダの代わりに、ロルフが答えたのだが、あっさりと反論するヘルメルはゆっくりとマチルダの前にしゃがみ込む。
仮にも生徒が目の前で酷い顔色をしているのだから、様子を伺うのは当然の事だ。
だが、マチルダもロルフもヘルメルは危険かもしれないとクロヴィスに言われたばかり。
ふいに近付かれた事に警戒し、マチルダはそっと拳を握りしめた。
「夕食で何か合わない食材を食べたかな?」
「いえ…そういった物は…うっ」
普段ならば気にならないヘルメルから漂う獣臭。僅かに混じる鉄臭い血液の匂い。
気分の悪い時に嗅ぎたい匂いでは無かった。
「まさかとは思うけれど、妊娠なんてしていないよね?君たちは恋仲だろう?」
「有り得ません!」
慌てて否定するロルフに合わせ、マチルダもこくこくと何度も頷いてヘルメルの言葉を否定する。
今この場で誓っても良い、子供が出来るような事は一度もしていない。
「まあ、そんな事をする程暇じゃないと思うし場所も無いか。順序はきちんと守るんだよ。それから、責任も果たす事」
ゆるりとした声色でそう言うと、ヘルメルは胸元から小さな瓶を取り出して蓋を開く。
ふわりと香ったのは、胸がスッとするハーブの香りだった。
「そのまま鼻で息をして。僕も匂いが酷い生き物を相手にする時は気分が悪くなるから、いつも持っているんだ。少し気分が良くなるよ」
怪しい薬なのではと疑ったマチルダはすぐさま呼吸を止めていたのだが、大丈夫だよと安心させるようにヘルメルは自分の鼻先に瓶を持っていく。
「まあ何をしていたのかは知らないし、興味も無いから報告もしないけれど…早く部屋に戻ってお休みよ」
「報告、しないのですか?」
「そんな事したら、報告書だとか君たちを学年主任やら寮監に引き渡したり余計な仕事が増えるじゃないか。当番だから仕方なく回っていただけなのに」
へらりと笑うと、ヘルメルは瓶をマチルダに渡したまま立ち上がる。
本当に教師の言う事かと呆れているロルフがぽかんと口を開けているが、今の二人にとってはラッキーだ。
見つかったのが魔法生物と研究にしか興味のない男で助かったと小さく息を吐いたマチルダに、思い付いたかのようにヘルメルが言った。
「あー…でも罰則くらいはあげないとかな?一応僕先生だから」
「えっ」
「二人共、深夜にベッドを抜け出して逢瀬なんてしてたんだ。罰として、週明けから五日間放課後に僕の手伝いだ」
罰則としては軽いものだが、危険かもしれない男と過ごさなければならないのは正直嫌だ。
だがこれはクロヴィスから「お願い」された監視と報告をするには好機。
しおらしい顔を作り、マチルダは「わかりました」とだけ答えた。
その返事に満足したのか、ヘルメルはひらひらと手を振りながら去っていく。その背中を見送る二人は、他の先生じゃなくて良かったと揃って胸を撫でおろす。
「落ち着いたか?」
「はい、もう大丈夫です」
「それじゃあ…部屋に戻ろう。他の先生に見つかったら面倒だ」
何となくまだ一緒にいたいのだが、それを言えばきっとロルフは困った顔をしてしまうだろう。
それをなんとなく分かってくれているのか、ロルフは最後に一度、しっかりとマチルダを抱きしめてくれた。
「おやすみ、また明日」
「あ…は、い。おやすみなさい」
抱きしめたは良いが、ロルフもロルフで恥ずかしかったのだろう。ぱっと体を離すと、その顔は月明りの下でも分かる程真っ赤に染まっていた。
「先に行け。俺も行くから」
早く行けと急かすロルフに従い、マチルダは立ち上がるとすぐさま地面を蹴った。
やはり移動するのならば自分で走った方が良い。気分が悪くなることはないからだ。
目指すは女子寮の自分の部屋。もう誰にも見つかりませんようにと祈りながら走るマチルダは、夜の闇に紛れるように走り続けた。
◆◆◆
泥の様に眠るとはきっとこういう事だ。夕食のスープによく眠れる薬を盛られたゾフィは、いつもと同じ時間に目覚めたようで、珍しく寝坊したマチルダの為に食堂で朝食を買ってきてくれていた。
「珍しいね、マディがこんな時間まで寝るの」
「ちょっと…疲れていたみたい。ゾフィはどう?」
「え?いつも通りに起きたけど、なんかいつもよりよく寝たーって感じ?」
肉食べたからかな!と笑っているが、薬に耐性でもあるのだろうか。
若干引き笑いをするマチルダに朝食を手渡すと、ゾフィは早く工事現場に行こうとキラキラした目で急かした。
今日はルンバルドたちドワーフの作業が終了し、ゴブリンたちに引き継ぎをする日なのだ。
ドワーフとゴブリンが並んでいる光景を見られると、ゾフィは昨夜からはしゃいでいたのだ。
ゴブリンはドワーフ以上に人間との関わりが薄い。ゴブリン製の魔法道具は多く、人間たちも使わせてもらっているが、ゴブリンと直接やりとりをする人間は少ない。
限られた人間だけがゴブリンと顔を合わせ、高額で道具を購入し、それを人間に売る。
初めてゴブリンを見られるという事で、恐らく多くの生徒が見物に訪れるだろう。
「困ったわね」
「何が?」
「いいえ、何でもないわ」
どうやってルンバルドにこっそりと品物を渡そう。ただでさえ目立つマチルダがこっそりと動く事なんて出来るのだろうか。
「それで?マディは夜中にベッド抜け出してどこ行ってたの?」
「えっ」
「酷いよね、友達に眠り草のエキス仕込むなんてさ」
唇を尖らせるゾフィに、マチルダはサンドイッチを手にしたまま固まった。
確かに入れたのは眠り草のエキスだ。だがそれはバレないようにゾフィが見ていない所で入れた筈。
「何で…」
「味で分かるよ」
「苦かった?」
なるべく分からないよう、味の濃い野菜たっぷりのトマトスープに混ぜた。だというのに、ゾフィは味で分かると言い切ったのだ。
恐ろしい程の味覚。それとも鼻が良いのだろうか。
どきどきと騒ぐ胸に知らぬふりをして、マチルダはじっとゾフィの顔を見つめた。
「逆。眠り草ってすんごい甘いんだよ。トマトスープに入ってたから玉ねぎの甘味かなと思ったんだけど…ごめんね、耐性あるからさ」
けろりとした表情でそう言うと、ゾフィは自分の机の引き出しをごそごそと漁る。
取り出した小さなポーチから数本の小瓶を取り出すと、それをマチルダに見せながらにんまりと笑った。
「私が薬師目指してるって忘れてない?」
「あの…それは?」
「ドラゴンすら眠らせる睡眠薬!まだ試してないけどね」
「それ全部?」
そう問うと、ゾフィはふるふると首を振って一本ずつ丁寧に教えてくれた。
出血が止まらなくなる毒薬。四肢を麻痺させる毒とその解毒薬。意識を朦朧とさせ、思考力を奪う毒。それら全て、ゾフィのオリジナルだと言った。
「凄い…でも何に使うの、それ?」
「さあ?思い付いたから作ってみただけ。まだ人間で試してないし、ちゃんと使えるかは分からないけどね」
人間で試していないとしても、何か実験用の動物では試したのだろう。生徒が勝手に薬を作り出し、実験する事は禁止されている筈なのだが、どうせゾフィも問題児だ。そんな規則など知った事ではないとばかりにこっそりやったのだろう。
「でも、薬師を目指している話と薬への耐性がある話は繋がらないわ」
「私の故郷、薬師の村って呼ばれてんの。薬草栽培が盛んで、日常生活にものすごーく深く根付いてる」
そう言いながら、ゾフィはドラゴンすら眠らせるらしい睡眠薬が入った小瓶をちらつかせながらにんまりと笑った。
「あんまり眠らない赤ん坊の母親は、睡眠不足になるよね?」
「そうね」
「そういう時、眠り草を煮出した汁を薄めて飲ませるんだよ。赤ん坊にね」
普通ならやらないであろう事を、ゾフィの故郷では日常的に行っていたらしい。勿論薬師が行うとは言うが、それでも赤ん坊に睡眠薬の材料である眠り草の汁を飲ませるなんてあり得ない話だ。
「私は本当に眠らない子だったみたいでね。他の子供が起きるからよく飲ませてたんだって。普通の薬もそうだけど、使いすぎると効果が薄れるよね?」
つまりはそういう事だと笑ったゾフィは、マチルダに見せていた小瓶たちを大事そうにポーチに仕舞い込んだ。
「自分に眠り草の耐性があるって知ってから、色々な薬草を自分で試したんだよね。だから薬草には詳しいんだ」
「そういう事ね…もしかして、他の薬草にも耐性があるのかしら」
「まあね。でもきちんと薬にされたら無理だよ。普通に効果出るから多分普通に寝る」
友達に睡眠薬を盛る事に抵抗があり、軽い効果で済む薬草の煮汁にしておいたマチルダの優しさが仇となった。
さっさと吐けと笑顔で腕組みをするゾフィにどう説明すべきか迷いながら、マチルダはもう一口サンドイッチを齧った。
「その…デートよ」
「はい嘘。マディの事だから、愛しの彼とデートするって決まったら速攻報告してくるじゃん」
友人の事をよく分かっている。逃げ切れないと覚悟したマチルダは、諦めたように溜息を吐いて口を開いた。
「お仕事をしてきたの」
「どんな仕事?」
「ルンバルドさんが私に依頼をしたいと言っていたのを覚えてる?」
「げえ…まさかそれ受けて来たの?」
ルンバルドに依頼をしたいと言われていた時に一緒にいたゾフィは、上級依頼である事を知っている。
それをこっそり真夜中に済ませて来た事に怒れば良いのか、それとも無事に帰って来た事を喜ぶべきなのか分からない、複雑な表情をしていた。
「で?詳しい内容は?まさかドラゴン討伐とかじゃないよね」
「まさか。月夜鴉の卵の殻を集めに行ったの」
マチルダの言葉に、ゾフィは声にならない悲鳴を上げた。それがどれだけ難しい仕事であるかを知っているからだ。
授業でたった一羽相手にしただけで生徒たちは傷だらけになったのだ。群れの中に突っ込んで、殻だけとはいえ卵を狙う。そんな仕事を無傷で終えたマチルダを相手に、ゾフィは小さな声で「化け物かよ」と呟いた。
「あの髭面…そんな危ない仕事をマディにやらせるなんて!」
「依頼を受けたのは私よ。ルンバルドさんは悪くないわ」
怒り狂っているゾフィを宥めるマチルダは、サンドイッチと一緒に渡されたオレンジをゾフィの口に突っ込む。
もごもごと咀嚼するのに忙しいゾフィは、不満げな視線を向けてくる。
「問題はルンバルドさんにこれを渡す事よ。きっと今日は生徒も先生方も沢山集まるでしょう?引継ぎが終わったらすぐにドワーフの皆さんはお帰りになるでしょうし…」
「んぐ。マディ目立つもんね」
オレンジを飲み込んだゾフィは、ぽりぽりと頬を掻いてどうしたものかと悩むマチルダを見る。
毛先がくるくると巻いた真っ赤な髪。少しキツイ印象の、整った顔立ち。学園最強と謳われる強さを誇るマチルダは、どこにいても目立つだろう。
「ルディに頼めば良いじゃん。折角影の中を移動出来るんだから」
「ゾフィ…天才だわ!」
何故自分の使い魔として契約しているルディの存在とその特性を忘れていたのだろう。
何を言っているんだと呆れているゾフィに全身全霊で感謝をして、マチルダはトントンと床をつま先で叩いてルディを呼び出した。
何ですかと言いたげな顔で影からぬるりと出て来たルディは、サンドイッチが気になるのか舌をだらりと出して尻尾を振っている。
「ルディ、お仕事よ」
そう言った主に、ルディはパタパタと尻尾を振って応える。
この後いつもの工事現場に行くから、いつも話しているルンバルドに袋を渡せ。たったそれだけの簡単な仕事を頼むと、ルディは「お任せください」とばかりにわふっと吠えた。
「良い子ねルディ。上手に出来たらご褒美をあげなくちゃ」
「ほーんと賢いよねルディ。良いなぁ私も使い魔ほしい」
「あら、どんな子が良いの?」
「蛇かなぁ。実験用の鼠とか捕まえてくれそうじゃん?」
そんな理由で使い魔がほしいのかと呆れるマチルダの手から、ルディがサンドイッチを盗み食いする。
基本的に賢いのだが、食い意地が張っているのだ。
「まあ、契約魔法難しいから夢のまた夢だけど」
そう言うと、ゾフィは美味しそうにベーコンを食べているルディの頭を撫でた。
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