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逆転の希望

乗り物酔いはしない筈。だがあれ程の速度で走る生き物の背中にしがみ付いていれば、馬車や馬とは比べ物にならない程揺れた。


「う…」

「大丈夫か?」


既に人間の姿に戻ったロルフは気分が悪いマチルダを案じるが、地面に蹲り真っ青な顔で口元を抑えているマチルダは返事をする余裕すら無かった。


大きく息を吸い込み、浅く吐く。それを繰り返し、徐々に吐き気が収まるのを待った。


「群れの巣はあそこの巨木だって記録があった。鳴声もするし間違いないだろう」

「は、い…うぇ」


こみ上げてくる吐き気に耐えるマチルダは、背中を摩ってくれるロルフが指差した巨木に視線を向けた。

月明りで照らされている部分しか見えないが、確かに何羽か鴉が羽ばたいているようだ。


巣のすぐ傍まで来たは良いが、この先の作戦を考えていない。

周囲は開けているが、巣を作っている巨木は雷に打たれればすぐさま大炎上するだろう。

そうなれば、鴉の巣は全滅。成体はともかく、卵や雛は丸焦げだ。


「どうにかして…うっ、目くらましできれば…」


巨木に視線を向けながら唸っているマチルダの背を摩っていたロルフは、落ち着けと囁きながらマチルダの目を塞ぐ。


「落ち着くまで周りを見ない方が良い。目を閉じて、呼吸だけして」


言われた通りに呼吸だけを繰り返すマチルダは、ロルフの言葉にはたと思考を止めた。


目を閉じろ。


その言葉の通り、ロルフはしっかりとマチルダの目元を手で覆い隠している。


「目隠し…」

「え?」

「目隠し!そうです目隠し!っうええ」


興奮して声を上げた瞬間腹圧がかかったのがいけなかったのだろう。

何とか夕食を地面にぶちまける事はしなかったが、声を我慢する事は出来なかった。


大好きな男の前で何と無様な事か。恥ずかしくて堪らない。


「大丈夫…じゃなさそうだ。水飲め」


腰に巻いていたポーチから水の入った水嚢を取り出しマチルダに差し出すロルフの優しさが痛い。

ポーチは小さいのにどうやって水嚢を収納していたのか少々疑問だが、恐らく空間魔法の一種を使っているのだろう。


冷たい水を飲むと、不思議と気分が良くなった。氷魔法の術式が刻まれた水嚢は、中に入れられた水分を心地よく冷やしてくれる効果がある。確かこれもゴブリンの魔法道具だ。そして、恐ろしく高価な物。


「ありがとうございました」


返された水嚢をポーチに仕舞い直したロルフは、目隠しだと騒いだマチルダの言葉を待つ。


「目隠しです。私ったらどうして思い付かなかったのかしら!目隠しの魔法を使えば宜しいのです!」


興奮気味に目をキラキラとさせるマチルダは言った。

以前ロルフとツキヨグサを見に行こうという話をしていた時に、自分でコニーに使えると言ったのだ。目隠しの魔法なら使えると。


感知妨害系魔法は難しいが、姿を認識されないようにする目隠しの魔法ならば使える。ただし動く事で物音を立ててしまえば、姿は見えない敵に襲われていると認識されるだろう。


「耳隠しと合わせて使う事が出来れば完璧でしたが…勉強不足で申し訳ありません」

「いや…目隠しだけで充分なんだが」

「では!そうと決まれば早速作業開始ですわ!」


襲い来る吐き気から復活したマチルダは、元気に拳を握りしめて気合十分だ。ぽんぽんと両手でロルフの肩を叩くと、自分の肩も同じようにぽんぽんと叩いた。


一瞬赤い光に包まれた二人は、既に鴉から視認されなくなっている。…筈だ。


「行きましょう。音は聞こえてしまいますから、なるべく静かにお願いします。殻を回収したらこの場所へ戻ってくるという事で宜しいですか?」

「分かった。マチルダは一つ回収したら戻れ。俺が二つ持ってくる」


少しでも早く危険な場所から逃がしたいというロルフなりの優しさなのだろう。

我儘を言っている自覚のあるマチルダは、反論せず静かに頷いた。


足元に注意しながら、二人でそろそろと足を進める。細い木の枝を踏んで音を立てたらどうなるだろう。

恐らく今巣にいる成体は普段よりも少ないだろうが、巣を離れている成体はそれ程遠くまで行っていない筈だ。


大声を上げられたら、巣を離れている成体があっという間に戻ってくる。そうなれば、襲われて血塗れになる事は確実だ。


ごくりとマチルダの喉が鳴る。

最悪力でねじ伏せれば良いとは言ったが、出来ればそんな事はしたくない。加減が出来ないマチルダと、卵と雛を守る為全力で襲ってくる鴉。地獄を見る事になりそうだ。


じりじりと巨木との距離を縮め、ゆっくりと見上げる。

沢山の枝のあちこちに巣があるのが見える。どの巣に卵の殻があるのだろう。まだ孵っていない卵に手は出せない。出来れば雛と殻だけ残されていて、親のいない巣に近付きたい。


「マチルダ」


鴉に気付かれないよう小声で呼ぶロルフに気付き、マチルダは振り返る。地面をちょいちょいと指差すロルフの足元には、月明りを反射して輝く卵の殻が落ちていた。


「木登りしなくても良いのね」


こくこくと何度か頷くと、足音を立てないように気を付けながらうろうろと歩き回る。

雛が孵る時に落ちたのか、それとも邪魔になるからと親が落としたのか知らないが、殻はあちこちに落ちているようだ。


まさに宝の山。逆転を願う者が命を懸けて月夜鴉を狙う理由が何となく分かった気がした。


これなら鴉を危険に晒す事も無いだろう。


キラキラと輝く小さな卵の殻。それを出来るだけ集めてルンバルドに渡せば仕事は終わりだ。沢山持ち帰る事が出来たら、今度の休日に町に出て売りに行けば良いお小遣いになるだろう。


せっせと集めているうちに、マチルダの手は殻の山が出来上がる。持ち帰るのに使おうと思っていた革袋に殻を入れてロルフを探せば、ロルフもしっかり殻を革袋に仕舞っていた。


こくりと頷いたロルフがちょいちょいと後ろを指差す。早く戻ろうという合図だろう。マチルダも頷くと、そろそろとゆっくりその場から離れて行った。


「ガァ!」

「ひっ」

「まずい」


木のあちこちで鴉が鳴いた。ガアガアと声を張り上げる鴉の群れ。たった一羽の鳴声だった筈なのに、あっという間に無数の鴉が大騒ぎをする事態となった。


「逃げるぞ!」

「はい!」


あちこちでバサバサと羽音がする。目隠しの魔法はきちんと効果を発揮しているのか、鴉たちは見えない敵を探すように木の周りを飛び回る。

いつ襲われるか分からないこの状況で、音を気にしてゆっくりと移動している場合ではなかった。どれだけ足音を立てようが、踵で踏んだ小枝がパキリと音を立ててしまおうが関係ない。


依頼された卵の殻が入った革袋をしっかりと握りしめ、二人は足を動かし続けた。


「ヤバい、戻って来た!」

「そろそろ目隠しの魔法も効果を失います!」

「振り切るぞ!」


そう叫んだロルフは、手にしていた革袋を口に咥えてマチルダの腰に腕を回す。

何をするつもりか分からないマチルダが「何を」と言葉にするより先に、ロルフは来た時と同じように野獣へと姿を変えた。


何をどうやったのかは知らないが、マチルダの体は宙に浮き上がり、落下した先はロルフの背中の上だった。


「ふかはれ!」


革袋を咥えているせいで上手く喋る事が出来ないのか、ロルフの言葉はよくわからない。

間違っても落とさないよう、マチルダはロルフの口から革袋を取ると、そのまましっかりと首に腕を回してしがみ付く。


五分で戻れる筈の無い距離を、これからロルフの全力疾走で戻るのだ。どうかもうあの吐き気に襲われませんようにと祈るのだが、その祈りが女神に伝わる事は無かった。


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