小さなお友達
見てろよと闘志を燃やし、立ち直ってみせたゾフィは今日最後の授業を心待ちにしていたらしい。昼食後すぐの授業はお腹が痛いと言って医務室に駆け込んで行ったが、けろりとした表情で戻ってきたところを見るに仮病だったのだろう。
同じ部屋にはいるが、今日は珍しくマチルダと同じ机には座らない。机の隣に設置されている大鍋に殆ど体を隠してしまっている小柄な友人を心配そうに見つめながら、マチルダは配られた薬のレシピを手に取った。
下学年の生徒が作るには少々難易度が高いようだが、レシピをきちんと読めば作れない事はないだろう。薬の名称は伏せられており、出来上がった薬を実際に実験動物に飲ませ、正しい効果が得られれば合格という内容だった。
「では、作業を開始しろ」
教員が何か説明していたようだが、マチルダはゾフィの様子が気になってそれどころでは無かった。開始の合図と共に教室のあちこちに置かれている材料を生徒たちが我先にと取りに行くのだが、マチルダはその動きから一歩遅れていた。
「あらあら…」
これでは質の良い物は取られてしまうだろう。そう広くはない通路を生徒たちが好き勝手に動いている中、マチルダは一歩引いて波が引くのを待った。
「げ…」
同じように出遅れたのだろう。ロルフも材料を入れる籠を手に生徒の波から少し外れた場所で待っているらしいが、同じように待っているマチルダを見つけて心底嫌そうな顔をしていた。
「ロルフ様!」
「良いから!良いから寄るな頼むから!」
ぱあと嬉しそうに顔をほころばせるマチルダとは対照的に、ロルフは掌をマチルダに向け、来るなと全力で拒否をする。全力の拒否に、流石のマチルダもしょんぼりと眉尻を下げた。
流石に授業中にまで騒ぐことはしないつもりだったのだが、ロルフはマチルダならこの場でもいつも通り求愛してくると思ったのだろう。
「あのう…流石に授業中に大騒ぎする程問題児ではないつもりです」
「う…それなら、良いんだ」
普通にしていればただの美人であるマチルダが、しょんぼりと肩を落としている姿はロルフの目にも可憐に見えたらしい。長い髪の向こうでほんのりと頬を染めている様子を見るに、恐らくロルフは押しの強い女性よりも、控えめな女性の方が好みなようだ。
「いつも私が追いかけまわしているからですね。警戒されるのも無理はありませんわ」
「分かっているのならやめてくれないか?」
「ただ一緒にランチをしてほしいだけなのです。追いかけまわされるのがお嫌なら、一度だけでもご一緒していただけませんか?」
一応授業中だからとこそこそ話しているのだが、マチルダは兎も角ロルフは身長が高い。他の男子生徒よりも頭一つ分は大きな体では、教団の上で此方を見ている教員の視線からは逃れられないだろう。
「ほら、波が引いたから先に行ってくれ」
「いえ、ロルフ様がお先に…」
「俺の図体を見てからもう一度考えてみると良い」
「…お先に」
小さく頭を下げ、薬品棚に近寄ったマチルダは体よく逃げられたのでは?と小首を傾げる。ただ一緒にランチをとお願いしているだけなのに、彼はその話題からどうにかして逃げようとしているように思えてならない。
もしや本当に、迷惑でしかないのだろうか。
欠片も希望は抱けないのだろうか。
生まれて初めて自分よりも強い人に出会えたのに。心を奪われたと思ったのに。
好きになってもらう事は何度もあったが、好きになったのはロルフが初めてだ。初めて人を好きになるという経験をしたし、片思いが楽しくも辛い事を知った。
どうしたら良いのだろう。
どうしたら、彼は振り向いてくれるだろう。
どうしたら、楽しくお話をしてくれるのだろう。
ただの迷惑で煩いクラスメイトではなく、仲良しのクラスメイトくらいの関係にはなりたい。
「あっ」
考え事をしながら何かをするのは良くない事だ。指先が触れた何かの果実が顔を目掛けて落ちてくるのだから。
「危ない」
「あ…ありがとうございます」
ひょいと受け止められた果実は、ロルフの大きな掌に包み込まれている。顔が果汁塗れになる事を覚悟していたのだが、すぐ後ろに来ていたロルフが助けてくれたのだ。
「使うのか?」
「いえ…使いません」
「なら、俺が貰う」
ロルフが手にしているレシピは、マチルダが持っているレシピとは異なるらしい。どうやら生徒たちは数種類のレシピをランダムに配られているようで、それぞれが必要な材料を集めて回っている。
ロルフも自分が必要な材料を手早く籠の中に放り込み、教室の隅に陣取っている机に戻って行った。
助けてもらえたことは嬉しい。にやにやと頬が緩む事を止められないが、視界の端で小さなクリーム色の頭が動いた気がした。まだゾフィは材料を集めているのかと視線を向けたが、どうやら既に作業を始めているようだ。
鍋を挟んだ隣の席で作業をしている女生徒に何やら怯えているような表情を浮かべ、ちらちらと視線を送っているように見える。何故あんなにも怯えているのだろうと眉間に皺を寄せたが、他の生徒が全員席に戻った事に気が付くと、マチルダも慌てて自分の席へ戻って材料を机に広げた。
「何かしら、ずっと私を見ているようだけれど?」
「いえ…何でも」
「そう?読めないところがあるのなら、教えてさしあげましょうか」
「ありがとうございます」
聞こえて来た会話に、マチルダは小さく舌打ちをする。大事な友人に優しくしてくれているのは嬉しいのだが、その相手が悪かった。
ローテノヴ公爵令嬢、リズ・トリシャ・ローゼンハインだ。見た目はとても優しそうに見えるのに、気に入らない人間にはとことん冷たく当たる人。マチルダに張り合ってくるのは構わないのだが、教えてあげるという優しさとは裏腹に、その表情は完全にゾフィを見下すようなものだった。
だが、気になるのはゾフィの態度だ。普段ならば生まれが恵まれているだけのお嬢様のくせにとへらへら笑っているというのに、何故だか今日は酷く怯えているように見える。そう見せているだけという可能性も捨てきれないが、昼休みの会話を思い出す限り、嫌な事を言ってきた相手というのはリズの事だろう。
「フロイデンタール、作業をしろ」
「あっ…はい先生」
ゾフィの事は気になるが、今は授業中だ。さっさと作業を終わらせ、文句を言われない状態にしてから観察すべきと判断し、マチルダはせっせとレシピに従いながら作業を始めた。
小さな豆をナイフで潰し、刻む。細やかな作業があまり得意ではないマチルダは、この作業が大の苦手だった。普段の授業ではゾフィが代わりにやってくれていたのだが、何故あんなに手早く綺麗に細切れに出来るのか疑問だ。
「トラシンスを刻んで…また刻むの?」
ぶつぶつと文句を言いながら、マチルダはせっせと材料たちを刻んでいく。刻みながらレシピを再度確認するが、どうやら材料の殆どは刻まなければならないようだ。うんざりしたように溜息を吐き、マチルダはそっとゾフィに視線を移す。
何かしている。
直感的にそう思った。
せっせと作業をしているだけに見えるのだが、リズが鍋とは反対に置いていた籠へ視線を移した瞬間、ゾフィは鍋の中に向かって何かを指で弾いて放り込む。
ああ、やったな。
ふふふと小さく笑ったマチルダに、隣で作業をしていた女子生徒が怪訝そうな顔をするが、それを気にすることなく、マチルダはせっせと作業を続ける。きっとリズの薬は失敗するだろう。この後の評価が楽しみだと笑いを堪えながら、最後の材料を刻みに取り掛かった。
◆◆◆
教壇に上がらされ、一人ずつ出来上がった薬の評価をされる。入学した頃から何度も同じ事をしているが、魔法薬学が苦手な生徒からは「拷問」「さらし首」と恐れられているこの時間が、今日はこんなにも楽しみになるとは思わなかった。
「完成はしているようだが、効果は薄いな。もっと丁寧に材料を刻め。それから分量をきちんと守れ。良いな」
「はい…」
「次、ラウエンシュタイン」
生徒の数だけ用意されている小さな鼠たち。一匹ずつ丁寧に薬を飲ませ、その様子を観察するのだが、ロルフはこれが苦手なのか僅かに口元を歪めているように見えた。
動物相手に実験するなんて嫌だという人はそれなりにいるが、自分が実験台にならないのならば文句を言う筋合いは無い。こうして動物実験をして、人間で試してきたから今自分たちは便利な薬を手に入れられるのだから。
「回復薬か。ならこの子だな」
仲間にやられたのか、体のあちこちに血が滲んでいる小さな鼠。口元にスポイトで薬を持って行くと、その鼠は大人しくそれを舐めた。
ごくりとロルフの喉が鳴る。
じっと鼠の様子を観察している教員は、ふむと小さく声を漏らしてロルフを見つめた。
「出来てない」
「…はい」
「魔力を殆ど籠めていないじゃないか!これじゃただの草の煮汁だぞ」
「薬湯にはなります」
「この授業は魔法薬学!」
壇上でしっかりと叱られたロルフは、来週までにレポートを提出するよう言いつけられ、のそのそと自分の席へと戻って行く。
皆の前であんなに叱らなくても良いのにと憤慨したマチルダは、壇上に残ったままの教員に転んでしまえと念を送った。
「次、ローゼンハイン」
「はい」
自信たっぷりといった表情で、リズは小さな小瓶を手に教壇へ上がって行く。ゆったりと上がった口角。ふっくらとした薄桃色の唇。さらさらとした金色の真直ぐな髪。まるで御伽噺のお姫様のように見える彼女は、本当に王家の遠い親戚だという。
「自信がありそうだね」
「ええ、私のレシピも回復薬でしたが、基本中の基本ですもの」
「その通り。ではお手並み拝見といこうか」
差し出された教員の掌に乗せられた小瓶。透明な液体で満たされたそれは、リズにとっては非常に簡単に作れる薬らしい。
ロルフと同じレシピが配られていたのが羨ましくてならないが、今はそんな事を考えている場合ではない。
ゾフィが何か仕込んだのだ。あれだけ自信満々に、基本中の基本と言い切ったリズが大恥をかく。一体どんな顔をするのだろうと、マチルダはじっと壇上に視線を向け続ける。
「…えーっと。開かないんだけれど」
「え?」
「うーん…これ中で固まってないかい?」
怪訝そうな表情で小瓶の中を観察する教員の手から、リズは慌てて小瓶を取り返す。
何度も振ってみたりひっくり返してみたりしているが、どうやら本当に固まってしまったようで、愕然とした表情で作った本人まで固まった。
「レシピ通りに作れば簡単だったんだけれど…何か混ざったかな」
「…鍋に汚れが残っていたのかもしれませんわ」
震える声でそう言うと、リズは顔を真っ赤にして教壇を降りていく。握りしめている小瓶が割れないと良いのだが、席で静かに俯いているゾフィが笑いを堪えている事を察すると、マチルダも同じように自分の膝を見つめた。
◆◆◆
「やー、気分良かった!」
「何を混ぜたの?」
「えー?ヨードニーの根っこを刻んだやつ」
にやにやと嬉しそうな顔をしているゾフィは、マチルダと共に寮へと戻る途中だった。
授業が終わると、すぐに取り巻きたちと共に教室を出て行ったリズは、まだ顔を赤くしたままだった。
「読み書きは苦手だけど、孤児院出身ってだけで見下してくるんだもん。腹立ってたんだよね」
「ついでに腰巾着って言われたんだものね」
「自分だって腰巾着いっぱいのくせにさ」
その通りとしか言えないゾフィの言葉に、マチルダは堪えきれずに吹き出した。あまり笑ってはいけないと思うのに、どうしても堪える事が出来なかったのだ。
「それよりさ、愛しの彼と何か話してたじゃん。しかもその後ちょっと良い雰囲気だったみたいだし?」
「授業中にも求愛されると思ったそうよ。しませんとお返事して、棚から物が落ちてくるところだったのを助けてもらっただけよ」
間近でロルフの顔を見るのは久しぶりだった。髪の隙間から覗く金色に輝く瞳。ろくに手入れもせず伸ばしたままの髪のせいで台無しだが、恐らくロルフも見た目は悪くない部類だろう。
勿体ないとは思うが、もし万が一他の女子生徒がそれに気付いてしまったら敵を増やしてしまう。どうかロルフが自分の容姿が優れている事に気が付きませんようにと胸の前で手を組み祈るマチルダに、ゾフィは呆れた視線を向けた。
「何考えてるか知らないけどさ、彼ってそんなに魅力的?」
「あんなに強くてお優しくて素敵な方なのよ?むしろどうして皆様あのお方の素晴らしさに気が付かないのかしら。いいえ、気が付いてしまったら敵が増えるわ!私じゃ勝ち目が無いかも…困るわ、それは絶対に困る!」
一人でわあわあと騒ぎ始めた友人に若干冷めた視線を送りながら、ゾフィは呟く。
「心配いらないと思う」
その言葉がマチルダに届く事は無い。一人で脳内妄想劇場を楽しむ事に忙しいマチルダは、すっかり恋する乙女の顔をしていた。