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兄と姉

楽しいデートを満喫し、マチルダはぼんやりと部屋に山積みにされた荷物を眺める。

あと二日で屋敷を出るからと、整頓して保管しておきますと言った使用人を静止して部屋に置いてもらったのだ。

少しでも、あの楽しい時間が夢では無かったのだと実感できるように。目で見て再確認できるように。


幸せだった。大好きな人と手を取り合い、互いに微笑み合い、心の底から安らぐ事が出来た。何て素敵な時間だったのだろう。何を言っても、どんな表情を浮かべても、ロルフは決してマチルダを否定しなかった。


もっと静かに歩きなさい。もっと優雅に微笑みなさい。殿方の一歩後ろを歩きなさい。みっともない、お前は出来損ない。お前は我が一族に相応しくない。


そう言われて生きて来た事の方が夢だったのだろうか。とても悲しい、悪い夢。


「どっちが本当?」


ぽつりと呟いたマチルダは、静かな一人きりの部屋で膝を抱えた。床に直接座り、じっと視線は荷物に向けたまま。

視線を逸らしたら、目を閉じたらあの荷物の山は幻のように消え失せて、少し冷たい雰囲気の豪奢な部屋は古ぼけた家具で整えられた薄暗い実家の自室に変わっているような、そんな気がした。


「入るわよ」


ノックすらしない事を悪いと思っていないのか、声の主は勢い良く扉を開いて押し入ってきた。思わず視線を其方に向ければ、ロルフの兄と姉がじっとりとした視線をマチルダに向けて立っていた。


「あの…」

「床に座り込んで何をしているの?用意しているソファーに何か不満があるのかしら」

「訳すよ。ソファーに座った方が良いと思うわ、何かあったの?だって」


妹の言葉を翻訳しながら、リカートは床に座り込んでいるマチルダに手を差し伸べて微笑んだ。その顔はとても優しいのに、瞳はじっとりと重たい影を抱いているように見えた。ロルフよりも少し黄色味の強い金色の瞳。それはナディアも同じ色を持っており、二頭の狼に睨まれた小動物のような気分になって来た。


「随分買い込んできたね。全部ロルフが?」

「はい、申し訳ないとお断りしたのですが…」


そっとリカートの手を取ったマチルダは、もごもごと口ごもりながら事情を説明した。

どれだけ断っても、俺が見たいから、俺がそうしたいからそうさせてほしいと、ロルフは意見を曲げてはくれなかった。

どの店に入っても、楽しそうにマチルダを着飾らせ、明日はこれを着てほしい、これを着けてと嬉しそうに笑った。


そうして、だんだんと断る事も出来なくなり、わかりましたと頷くだけになったマチルダは、部屋に戻ってすぐに床にへたり込んだのだった。


「あの子…貢ぐタイプだったのね」

「どうせ学園の依頼を受けてるんだろう。俺たちもそうだっただろう?」

「そうだけれど…あの子のことだから、一人で上級依頼を受けているわ。危険だって何度も叱っているのに」


ぶつぶつと文句を言い始めたナディアは、不機嫌そうに眉間に皺を寄せる。弟の事を心配しているのだろうが、リカートとナディアは何を考えているのかよく分からない。

マチルダに買い与えられた荷物の山を見たり、マチルダを睨んだりと忙しそうな二人を前に、マチルダはどうしたものかと苦笑いを浮かべた。


「私に何かご用ですか?」

「貴方、ロルフのどこが良いの?」

「…唐突ですわね」


ナディアの刺すような視線に、マチルダは小さく息を吐く。恋人の兄と姉に話すような事ではない気がするのだが、今ここで遠慮して何も言わない方が面倒な事になりそうだ。


「私よりも強いからです」

「…は?」


はっきりと言い放ったマチルダに、ナディアはぽかんと口を開いて固まった。隣に立っていたリカートは、思い切り噴き出して肩を震わせる。


「お腹を蹴り飛ばされたあの日、私は恋をしたのです。生まれて初めての恋…あの胸の苦しさは、紛れもなく初恋の苦しみですわ!」

「蹴られた衝撃の苦しみに決まっているじゃないの!」

「いやあ、なかなか良いキャラクターだね、君」


演技掛った動きで目をキラキラとさせるマチルダに、リカートはうっすらと目尻に涙を浮かべて声を震わせた。ナディアは意味が分からないと頭を抱えているのだが、マチルダは自信満々に口元を緩ませた。


「私は私よりも強い殿方の妻になると決めているのです。今まで一度もそのような殿方に出会った事はございませんでしたが、ロルフ様は私を地面に叩き落としてくださったのです。こんなに素晴らしい事がありますか?」

「ちょっと…理解が出来ないわ。第一、あの子は魔力回路が狂っているのよ。子供にすら負けるような魔法しか使えないのに…」


普段のロルフは確かに大した魔法は使えない。

蝋燭に灯された程度の火、コップをひっくり返した程度の量の水。その程度の術者である事しか知らないナディアは、マチルダの言っている言葉の意味が本当に理解出来ない様子で首を横に振る。


「貴方がとても…か弱いという話ではなくて?」

「試してみますか?」


にっこりと可愛らしく微笑んだつもりのマチルダだったが、リカートとナディアの目にはにたりと嫌な笑みを浮かべているようにしか見えていない。

例え相手が変身魔法を扱う術者だとしても、上級術者と呼ばれる凄腕の魔法使いだとしても、今この場で大人しく微笑んでいられる程、マチルダは淑女らしくはいられない。


「やめておけ。ロルフに怒られる」

「でも…」

「あいつが本気で怒ったら、俺たちじゃどうにも出来ないだろ。父上を叩き起こして止めてもらわないと」


リカートが言っているのは、恐らく理性を失った野獣の事なのだろう。無理矢理拘束され、落ち着くまで押さえつけられると以前ロルフに聞いていた事を思い出し、マチルダはぎゅっと拳を握りしめた。


「貴方方は、弟が拘束されても何も思わないのですか?」

「そんな筈無いでしょう。あの子は可愛い弟よ。小さくて、柔らかくて、愛しい可愛い私の弟」

「大事な弟だから、拘束してでも止めるんだ。そうしなければ、苦しむのはあの子自身だから」


二人で続けた言葉に嘘は無いのだろう。じわりと涙を浮かべたナディアは、縋るように兄の手を取った。繋がれた手は離れない。きっと、幼い頃からそうやって二人で何かに耐えて来たのかもしれない。そういう何かが見えるような気がした。


「君はどこまで知っているのかな」


少し話をしようかと、リカートはナディアの手を握ったまま床に座り込む。ナディアも同じように床に座り込むと、すんすんと鼻を鳴らし始めた。

気の強い女性だと思っていたのだが、弟を思って涙を流すような優しい女性だとは思わなかった。


「異形の野獣に変身する事と、戦っているうちに理性を失う事も存じております」


そう返しながら、マチルダは先程まで座っていた床にもう一度座り直した。ソファーが足りないから仕方が無いのだが、いい歳をした大人三人が揃って床に座っている光景は何だかおかしなものだ。


「見た事は?」

「あります。攻撃を受けた事も」

「なんですって!」

「かすり傷でしたし、もう傷は癒えております」


以前怪我をした頬をちょいと指しながら微笑むと、驚きの声を上げたナディアはほうと深く息を吐く。

リカートは未婚の女性の顔に傷を負わせた事に眉間に皺を寄せているが、言葉を挟むことは無かった。


「何度も名前を呼びました。お話をしましょうと。その声が聞こえたそうです」

「ロルフがそう言ったんだな?」

「はい。私の声が聞こえたから落ち着いたと仰せでした。まるで、魔法のように」


そこまで言うと、マチルダはじっとリカートとナディアを見つめる。信じられないと呆ける二人に向かってにっこりと微笑むと、マチルダはまた自信満々に言い放つ。


「愛の勝利です」

「愛ねぇ…」


溜息を吐いたリカートの隣で、ナディアはふるふると小さく震えながら片手を伸ばす。伸ばされた手は、そっとマチルダの手を取った。


「本当に…?本当に、貴方の声であの子は落ち着けるの?」

「一度だけですので確証はありませんが…確かに一度は落ち着きました」

「その話が本当なら、あの子はもう拘束される事は無いわ、苦しむ事だって!」

「落ち着けナディア」


妹の手を軽く引きながら、リカートは静かに窘める。だが、縋るような視線を向けるナディアは口を閉ざす事は無い。

お願いだとでも言いたげに、しっかりとマチルダの手を握って離さなかった。


「でもお兄様、この子がいれば!」

「分かってる。でもこの子を巻き込むわけにはいかない。認めないってお前も言っていたじゃないか」


認めないとはどういう事なのだろう。話が分からないマチルダは、しっかりと手を取られたまま大人しくしているしかない。困り果てた末に、縋る様な視線を向けたナディアは、お願いと声を上げた。


「あの子の傍にいてあげて!」

「ナディア!」

「傍にいるのは当然の事ですが…認めてくださらないのでは?」


そろそろ手を離してくれないだろうか。ちょいと手を動かしたが、ナディアは兄から手を離してしっかりと両手でマチルダの手を握りしめた。


「可愛い弟が暴れ狂い、傷付きながら拘束される事を何も思わない姉がいると思う?あの子は何も悪くないのに、ただ少し他とは違うだけなのに!」

「敵味方問わず食い散らかすんだから押さえつけるしかないだろう!そうしなければ苦しむのはロルフなんだから!」


どういう理由があったとして、今目の前できょうだい喧嘩を始められても困る。この子がいれば、巻き込むなと繰り返される言葉の応酬に、マチルダは徐々に苛立ち始めて来た。


一人置いてけぼりで話を進めないでほしい。巻き込まれる事を自分から望んで妻になりたいと言い続けているのだ。

最初はそういった事情は何も知らなかったが、ロルフに打ち明けられる度に「それでも良い」と受け入れて来たつもりだ。


「何をしているんですか!」


いい加減にしろと暴れてやろうかと思った瞬間だった。またもやノックも無しに飛び込んできた人物がもう一人。

顔を青くさせ、うっすらと震えるロルフが扉を開け放った姿勢のまま仁王立ちになっている。


「マチルダの部屋からお二人の声が聞こえると思ったら…何をしているのです?マチルダに何をしたんですか!」

「ロルフ様、大丈夫です私は何もされておりません。少しお話をしていただけです」


そっとナディアの手を握り、にっこりと微笑みながら、マチルダはロルフに視線を向ける。

ロルフはまだ状況を理解出来ていないのか、ずかずかと部屋に入り込んで兄と姉から庇うようにマチルダの体を腕の中に閉じ込めた。


「マチルダに何を言ったんですか」

「ねえロルフ、貴方本当にあの姿から戻れたの?拘束も無しに?」

「何の話です…?もしかして、暴走した話を聞いたんですか?」


迫ってくる姉に若干引きながら、ロルフは眉間に皺を寄せる。しっかりと腕の中に閉じ込められているマチルダは、ほんのりと頬を染めながら幸せそうな表情を浮かべていた。


「私の声で落ち着けたと仰っていたお話を」

「ああそれか…本当ですよ。不思議とマチルダの声で落ち着いたんです。魔法みたいに」


じっと兄と姉を見据える金色の瞳。力強く輝くその瞳は、普段とは違う意志の強さを感じさせる。

俺の女だ。何をした。そう言いたげに敵意を向けられたリカートとナディアは、しっかりと弟を見つめて口を開いた。


「もし、その子を食い殺したらどうする」

「理性の無い獣となっても、守り切る覚悟がある?」


そう問われたロルフは、腕の中に収まっているマチルダを見下ろすとぐっと腕に力を籠める。


「食い殺さない。守り切る。俺はそれが出来る」

「どうしてそう言い切れる?」

「マチルダが俺を愛してくれるからだ」


しっかりとそう答え、ロルフは兄に向かって低く唸る。

父によく似た顔の、幼い頃の憧れ。いつの頃からか苦手になったその兄に、ロルフは唯一の人を守ろうと拳を握った。


「そうか…そうか、ロルフは愛してくれる人を見つけたんだな」


そう呟いたリカートの頬に、一筋涙が伝う。

ぐすぐすと揃って泣き出した兄と姉を前にどうしたら良いのか分からず、ロルフはぽかんと呆けるしかない。勿論、マチルダも同じだった。


「フロイデンタール嬢、君を我が家の事情に巻き込みたくない。でも、弟を愛してくれてありがとう」

「お願いします。どうかロルフの傍にいてあげて。この子を支えてあげて」

「お任せください。何があってもしつこく追いかけまわしますから」

「実績はあるからな」


ありがとうと何度も繰り返すリカートとナディアに、マチルダはどうしたものかと曖昧に微笑む。


弟の全てを受け入れられないであろうと、マチルダを認めなかったナディアは、どうか弟をお願いしますと繰り返す。

我が家の面倒な事情に巻き込めない。滅びてしまえと呪う妹に、何も返さずとも賛同していたリカートは、静かに涙を零し続ける。


どうしたものかと顔を見合わせるマチルダとロルフは、自分のポケットからハンカチをそれぞれ取り出す事にした。


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