警戒
ラウエンシュタイン家の朝は賑やかだ。
日が昇る頃には既に身支度を済ませ、朝食の前に鍛錬に励む。魔法だけでなく肉体そのものを鍛えなければ生き残れないという考えから、この家の戦闘に関わる者は朝から己の体を鍛えぬく。
それは、ロルフも同じだった。
「ロルフ様はもう起きていらっしゃるのね…」
窓から覗くと、庭を走り筋トレをしているロルフが見えた。普段隠されている顔は、髪を纏めているおかげでしっかりと見えている。普段から顔を見せていれば、きっと女子生徒からの人気は絶大なものになってしまうだろう。だが、この家にいるのはロルフの家族と使用人ばかり。この環境であれば、顔を見せていても敵は増えないだろう。
「フロイデンタール様、お支度を」
「ええ、よろしく頼むわ」
客人であるマチルダは、自分の使用人を連れてきていない。身の回りの世話は全てラウエンシュタイン家の使用人がしてくれることになっていた。
物静かなメイドは、ルディと名乗っていた。まさか愛犬と同じ名前だとは思わなかったが、無邪気に尻尾を振る見慣れた狼とは凡そ雰囲気の違う女性に、マチルダはにっこりと微笑みかける事しか出来ずにいる。
持って来ていた荷物の中から、今日はこれにしますと手渡したドレス。普段学園で着る機会のないドレスは、数年前に流行ったデザインのものだった。だが、これ以上着る機会のないドレスを増やすだけの余裕はない。
フロイデンタール家は貴族ではあるが、金に余裕があるわけではないのだ。娘への仕送りはしてくれるものの、男爵家令嬢らしく生活出来る最低限の金額のみ。
マチルダ自身着飾る事に大して興味が無いとはいえ、最近流行りのドレスや髪飾りに全く興味がないわけではない。それを、手に入れるだけの金が無いだけだ。
「御髪はどういたしましょう」
「降ろしたままで構わないわ」
アップスタイルにしたところで、それを飾る髪飾りなど持っていない。継母の言うように、裕福な家庭に嫁げば思うように欲しい物を手に入れる事が出来るのだろうが、そんな生活を望んでいるのはマチルダではなく、継母だけだ。
「お化粧を」
「必要ないわ」
化粧品すら持っていない。必要無いからと買い与えられてすらいないのだ。年頃の令嬢が化粧品を持っていないとは思っていないのか、メイドのルディは鏡の向こうでぱちくりと目を瞬かせる。
「畏まりました。お食事は一時間後にご用意させていただきます。ラウエンシュタイン家のご家族がお戻りになられましたら、お声がけさせていただきます」
そう告げると、ルディは静かに頭を下げて部屋を出ていった。ただ着替え、髪を簡単に整えるだけの短い身支度の時間。
もう少し気を遣った方が良いだろうかと鏡を覗き込んだマチルダは、ふと学園の玄関ホールに張り出される依頼書を思い出していた。
◆◆◆
朝から肉が並ぶ朝食の席は初めてだった。運動し腹を減らした人間は、朝からしっかりと腹を満たし、満足げな顔で食卓を後にする。
膨らみ切った腹を摩りながら、マチルダは客室として与えられた部屋で大きく息を吐いた。
少しでも苦しさが紛れたら良いのだが、しっかりと朝食に肉を食べる機会のないマチルダの腹は、今にもはち切れそうだった。
「マチルダ、今良いか?」
コンコンとノックをしながら、ロルフが扉の向こうから声を掛けてくる。慌てて姿勢を正し、「どうぞ」と返したマチルダの声に反応したロルフは、そっと細く扉を開いた。
「少し出かけないか。買い物でもしようかと思っているんだが」
「お買い物、ですか」
「学園の周りじゃなかなか見る店も無いからな。少しくらいその…デート、みたいな事をしようかと」
もごもごと気恥ずかしそうにしているロルフに、マチルダは座っていた椅子から勢い良く立ち上がる。
あれだけ逃げ回っていたロルフがまさかこうしてデートの誘いをしてくれるとは思わなかったのだ。デートより先に実家に連れてきてもらっている時点で驚くべき事なのだが、今のマチルダはデートに誘ってもらえた事が嬉しくて仕方なかった。
「どうした、体調でも悪いのか?やめておこうか」
「いえ、いえ!平気です!」
ぶんぶんと首を横に振り、大丈夫だからすぐに行こうとロルフに走り寄ったマチルダは、キラキラと輝く目をロルフに向けた。
「身支度は良いのか?」
「はい!すぐに行きましょう!」
年頃の令嬢が外行きのドレスに着替えるでも、化粧を念入りに直すでもなく、そのまますぐに出ようとする事に違和感を覚えたのだろう。ロルフは本当に良いのかと言いたげに眉尻を下げるが、マチルダの実家の事情を思い出したのか、それ以上何かを言う事は無かった。
今日もいつも通り、マチルダの髪はくるくると巻いている。入学したばかりの頃、ロルフはマチルダの髪は毎朝丁寧にセットしているのだと思っていた。だが、いつだったかマチルダがゾフィと話しているのを聞いてから、あれは毎朝の努力の賜物ではなく天然物であると知った。
「お買い物は久しぶりですわ。何処へ行きましょうか」
「一先ず屋敷の周りをぐるっと回ろうかと。何か欲しい物は?」
「特に思い付きません!」
ロルフと出かけられるだけで、ただそれだけで良い。何も欲しい物などない。望んでいるのは、ロルフと共に過ごす楽しい時間だけ。
それを分かっているのかいないのか、ロルフはうっすらと微笑みながらマチルダの手を取った。
◆◆◆
マチルダとロルフが手を取り合い屋敷を出た頃、屋敷の一部屋から外を覗いている人影が二人分あった。
「まさかロルフが女の子を連れてくるなんてな」
「それどころか、友人を作った事に驚いているわ」
兄妹揃って可愛い弟を眺めている、という雰囲気ではない。リカートとナディアの視線は、獲物を狙う狼の如く冷たく輝いていた。
一族の中でも異質な人間。可愛い弟ではあるが、扱いの難しい立場にいるロルフに、二人はどう関われば良いのか分からずにいた。
「父上が言っていた子はあの子だろうな。学年一優秀で、とても美しい子だって」
「確かに容姿はとても美しいわ。でも、いくら魔力が強くたって、あの子が我が家に相応しいとは思えないわね」
リカートは兎も角、ナディアはマチルダを警戒し続けている。
ラウエンシュタイン家は公爵家としてこの国に君臨している。魔法の中でも特別な変身魔法を扱う一族であり、裕福で生活には何も困らない家。
そんな家と関りを持ちたいと狙う者は多く、その中でも次期当主であるリカートは結婚するまで多くの令嬢に狙われていた。
現在は既婚者であり子供もいる父親である事で狙われる事は少なくなったが、せめて愛人にと狙う女性は未だ多い。
ナディアは未婚であり、良からぬ企みを抱く男から狙われる事も少なくない。
「あの子が何を企んでいるのか知らないけれど、ロルフは学園では落ちこぼれの筈よ。魔法は使えるけれど、魔力回路が狂ったままだもの」
一流の魔法使いを輩出するラウエンシュタイン家の中で、ロルフの扱う魔法は子供のような威力しか持たない。
蝋燭に灯されたかのような小さな炎。グラスをひっくり返した程度の水。その程度の魔法しか扱えないロルフがバーフェン学園に入学出来た事がまず奇跡。
それもこれも、変身魔法を使う事が出来たから。たとえ他の人間と同じように狼の姿になれず、異形の姿になろうとも、変身して戦う事が出来るというだけで国にとっては有益なのだ。
「学年一の優等生が、劣等生であるロルフに恋をする理由がある?フロイデンタール家の噂は知っているけれど、あの家の後妻は金の亡者じゃない」
眉間に皺を寄せ、敵意を隠そうともしないナディアは屋敷の門を出ていく若い二人の背中を睨みつける。
フロイデンタール家とラウエンシュタイン家の両家にとって、決して無益とは言えない二人の縁。
金を得る事が出来る家。強力な魔力を持った女を手に入れる事が出来る家。互いに損はしないが、ラウエンシュタイン家にとってマチルダは大した魅力ではない。魔力の強い女性は、探せばそれなりにいるからだ。
「俺たちがどう考えたところで、結婚するしないを決めるのは父上だ。フロイデンタール嬢はロルフとの結婚を喜ぶだろうし、ロルフも嫌がりはしないだろう」
「私は嫌」
マチルダの何が気に入らないのか、ナディアは小さく舌打ちまでしてみせた。
そんな妹の様子に、リカートは細く長い溜息を吐く。父の跡を継ぎ当主となった時、弟を支えてくれる女性がいてくれたら良いとは思う。出来ればロルフを心から愛し、支えてくれる人であれば良いのだが、今のリカートはマチルダがどういう人間なのかを見定められずにいた。
「お兄様はあの子、どう思う?」
「さあ?今の所俺たちに害があるとは思えないけれど、有益かと言われるとそうでも無いと思うよ。持参金も期待出来ない上、あの細い体で何人の子供が望めるか」
口元を歪めて笑うリカートのその表情は、父であるオスカーによく似ていた。それを横目で見たナディアは、フンと嫌そうな顔をして鼻を鳴らす。
「どうせ母上が認めないさ。ロルフの血を残す事をあの人は望んでいないから」
「戦って死ぬだけの人生だなんて御免だわ」
ラウエンシュタイン家は戦場に生きる家。数々の屍の上に立つ狼の一族。
特別とされる魔法使いの中でも更に特別な家。その中でも更に特殊な立場にいるロルフは、世間一般でいう「幸せ」を手に入れる事が出来る可能性が限りなく低い。
「こんな家、滅びてしまえば良いのに」
ぽつりと呟いたナディアの言葉に、リカートは小さく笑ってみせた。
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