フロイデンタール
「何をしているんだお前は!」
怒鳴りつける男の声に、マチルダはぴくりとも反応しない。
王族相手に怪我をさせた。いくら強くとも大問題を起こした為、守らなければならないという仕事からも外されたマチルダは、寮の自室に押し込められていた。三日ぶりに引き摺り出されたと思えば、わなわなと震える父が真っ青な顔をしてマチルダを待ち構えていた。
久しぶりに会う娘との再会を喜ぶような言葉は無く、殿下に対して何という事を!と叫んだ。その上頬を張り倒したのだから、マチルダを連れて来た教員は言葉を失っていた。
「自分が何をしたのか分かっているのか。殿下の肩を握り潰すとは!」
「お父様、娘との再会を喜ぶつもりはありませんの?」
「喜ばしい再会をさせてくれなかったのはお前だろう!何があったかは知らんが、殿下に傷を負わせたお前が全て悪いのだ!」
いい加減怒鳴るのをやめてくれないだろうか。椅子に座ったマチルダは、テーブルを挟んだ向かい側でまだ立ったまま怒鳴り散らす父の顔をぼんやりと見つめる。
久しぶりに見た父の顔。こんなに老けていただろうかと記憶の引き出しを漁ってみても、父の顔は朧気な記憶ばかりで、今目の前で怒鳴り散らしている父の顔で思い出が修正されていく。
幼い頃、初めて魔法を使った時の記憶ですら、今の父の顔で思い出される。そんな事、ある筈がないのに。
「屋敷を出る時に言った筈だ。目立つな、適度に優秀な生徒でいて、卒業後はすぐにでも家を出ろと」
マチルダは幼い頃から良くも悪くも目立ってきた。真っ赤な髪はくるくると巻き、気の強そうな顔は成長するにつれ美しいと評判になった。
フロイデンタール家は魔力持ちが生まれる確率の低い家だった。稀に生まれても、魔法を扱える程の魔力を持っていないか、使えても実践の場で使い物になるかならないかといった程度。バーフェン学園への入学を許された者も、記録に残っていなかった。
そんな家に生まれてしまったマチルダは、奇跡の娘だった。
普通ならそんな奇跡の娘はとても大事に扱われるのだが、マチルダはそうでは無かった。マチルダの実家であるフロイデンタール家は、魔法使いを良い存在だと思わない家だったのだ。
魔法使いは特別な人間。神から与えられた特別な力を持つ特別な人間。力を使えばすぐさま人を殺す事だって出来る人間。だからこそ、大昔の魔法使いたちは迫害すらされていた。それを未だに引き摺っている人間は多いのだ。
「お騒がせしてしまった事はお詫びいたします。ですが、あの騒ぎは元はと言えば…」
「黙れ!お前が何を言おうと、殿下を傷付けた事実は変わりない!」
確かにそれは父の言う通りだ。
怒りに身を任せてクロヴィスの肩を握り潰したが、あれはやらなければならない事だった。愛した男の為に怒れない女など、ただ守られるだけのお嬢様でしかない。それでは、ロルフの隣で生きる事など出来やしないのだから。
「付き合う人間を考えろと何度も教えた筈だ。化け物の一族を追いかけまわし、孤児院出身の小娘が友人だと?お前は何を考えているんだ」
冷たく言い放った父の、冷たい目。
娘に向ける目では無いだろうと胸の内で思いながら、マチルダはじっとその目を見返し続ける。
強い力を持って生まれてきてしまったが故に恐れられる事には慣れている。魔法が使えると知る迄の父は優しかった。可愛い愛娘を甘やかし、母に叱られる程甘い父親だった筈。
だが、魔法が使えるのだと、褒めてもらおうと見せた瞬間、父は娘を汚いものでも見るような目で見た。あれから一度も、父はマチルダに触れていない。
「幸い容姿には恵まれているのだ。大人しくしておいて、良家の息子に見初められるよう努力しろ」
「…ラウエンシュタイン家も名門です」
「化け物の一族と縁続きになるなど御免だ!魔法使いと結ばれる事には目を瞑るが、あの家だけは絶対に認めんぞ!」
化け物化け物と煩い。ただ他とは違う特別な魔法が使えるというだけなのに。
どうして皆して、軽々しく人を化け物と言えるのだろう。
「ロルフ様は…ラウエンシュタイン家の皆様は化け物などではありません」
静かに怒りを滲ませたマチルダは、真直ぐに父親を睨みつける。それ以上言うのなら、この場で焼き尽くしてやろうと威圧するように。
「人間に化けた狼だろう、あいつらは」
神の力とも呼ばれる魔法を使っても、人間の姿を別の生き物へ変化させることは出来ない。勿論、自分以外の誰かに変化する事も出来やしない。それが出来るのは、変身魔法を扱う特別な人間だけ。
「化け物の力をひけらかし、それを利用して公爵という地位を手に入れた卑怯者の一族ではないか」
「父と言えど許しませんよ。発言を撤回してください」
今度こそマチルダの我慢の限界だった。じわじわと体の内が熱くなる。全身に廻った魔力がじわりと熱を持った。スカートの裾を握りしめた拳から、すぐにでも炎が溢れてきそうなのを気力だけで押しとどめている。
「認めない。我が娘が魔法使いだというだけで嫌で嫌でたまらないというのに…」
「私が魔法使いでなければ…愛してくださったのですか?」
「魔法使いであろうが愛しているとも。愛しているからこうして会いに来たのだろう」
嘘ばかり。
愛しているから、娘が大切だから来たのではない。王族相手に怪我をさせた問題児を叱りつける為、なんとかクロヴィスに許しを請い、家を守る為だけに来たのだ。
マチルダ自身がどうなろうと関係無い。いっそ反逆罪で処刑されてくれれば良いとでも思っているかもしれない。
「貴方!マディは此処ですか!」
黙り込んだままのマチルダの耳に響いた、甲高い女性の声。勢い良く開かれた扉から入って来たのは、マチルダと同じ赤い髪を華やかに飾った母親だった。
「ああ、マディ!元気にしていた?私の宝物!」
「お母様…」
愛娘との再会を喜ぶように、母はしっかりとマチルダの頭を腕の中に閉じ込める。
可愛い子、私の愛しい子。そう何度も繰り返しながら頭を撫でる手は、昔から何も変わらない。
鼻に付く香水の匂い。指に嵌められた幾つもの指輪。全て大粒の宝石が飾られており、どれほどの価値があるのか考えるだけでも嫌になる程着飾っている母は、しっかりと塗られた化粧で年齢が分からない。
「元気にしていた?ちゃんとご飯は食べているかしら?」
「はい、お母様」
「ほら、もっとよくお顔を見せてちょうだい。顔に傷なんて作ったら駄目よ、貴方はお姉様の大事な宝物なんだから」
そう言って、母はマチルダの頬を両手で挟んで自分に向けた。
にっこりと微笑んだ母の唇は、真っ赤な紅で彩られている。
書類の上では母親であるこの女性は、血筋でいうと母の妹。つまりマチルダの叔母である。
その紅はどれだけの値がしたの?そのドレスは見た事が無いわ。最近流行りのデザイナーの物でしょう?どれだけの値がしたの。どうして、そんなに着飾るの。そんなお金、うちには無い筈なのに。
「魔法が使えなくても、貴方はこんなに綺麗なんだもの。女はね、ただ着飾って、美しく微笑んでいれば良いの。そうしていれば、いつか素敵な王子様がお迎えに来てくれるのよ」
幼い頃から何度も聞いた。綺麗な顔に生まれたのだから、魔法使いにならずに結婚してしまえば良い。そう言い続けた母は、赤紙を見て表情を失っていた。
お母様と声を掛けた娘の顔と赤紙を交互に見て、にんまりと笑った母は「良い子ね、マディ」と言った。
「成績も優秀なのでしょう?流石私の娘だわ!」
そう言って褒めてくれる母は、微笑んでいる筈なのに、口元だけ緩んでいる不気味な笑顔。
いつだっただろう。両親が娘として自分を愛していないと気付いたのは。
父は娘を化け物だと言って嫌っている。一国も早く家から出ていってほしいと願っているくせに、稼いだ金は家に入れさせるつもりでいる。
母は自慢の娘と言って大切にしてくれる。だが心の奥底では娘は金を持って来てくれる存在としか思っていない。
古くから続く由緒正しき貴族一家、フロイデンタール家。伝統と見栄を何より大切に思い、そのせいで借金は膨らむばかりの貧乏男爵家。
そこに生まれた奇跡の娘。
なんという家に生まれてしまったのだろう。どうして魔力なんて持って生まれてしまったのだろう。
「殿下にお怪我をさせてしまったのでしょう?きちんとお詫びをして、傷が癒えるまでお傍でお世話させていただきましょう。そうしたら、もしかしたら御妃になれるかもしれないわ!」
お願いお母様、私の話を聞いて。好きな人がいるの。王子様なんて興味無いの。
「でも、お母様…私、好きな人がいるの」
「ああ、そうだったわね…でもその方って公爵家の方よね?充分だわね」
公爵家の息子だから好きになったんじゃない。ただ偶然、好きになった人が公爵家の息子だっただけ。それを何故分かってくれないの。
いつもそうだ。昔から何も変わらない。金をもたらす奇跡の娘。大事に育てられたのは、つぎ込んだ何倍もの金が期待出来るから。
空しい。寂しい。親に愛情を求める事の何がいけないのだろう。求めるのが普通ではないのか。
「まあでも、貴方程の器量があればクロヴィス殿下の正妃にだってなれるわ。美しさは女の武器だもの。磨き上げるのよ」
もう終わってほしい。これ以上両親と一緒にいると自分が酷く惨めに思えてくる。
こんな力などいらなかった。ただ守られるだけの、か弱いお嬢様でいたかった。
ロルフに会いたい。今すぐこの部屋から逃げ出して、まだ寝込んでいる病室に飛び込めたらどんなに安心するだろう。
あの大きくて温かい手に触れていたい。
「あなた!そろそろ殿下にお詫びに行きましょう?お詫びに来る事を許してくださったのですから、きっと…」
「その必要は無い」
ノックすらせず入って来た男の声に、両親は振り返る。
プラチナブロンドの髪、紫色の瞳を持った麗しの王子様が、にこやかに微笑みながらそこに立っていた。
「私の傷は既に癒えている、世話も不要だ。詫びは既に手紙で受け取っているんでな。わざわざ顔を見せに来なくても良い」
普段よりも偉そうに話すクロヴィスは、正に王族だった。今すぐ跪いて頭を下げなければならないと思う程の威圧感。
両親は既にクロヴィス相手に跪いているが、マチルダは動けずにいた。
クロヴィスの後ろから、顔色の悪いロルフが現れたからだ。
「殿下、我が娘の非礼心よりお詫び申し上げます」
「構わんと言っている。それに、当の本人に詫びる気が無いだろう?なあ、フロイデンタール嬢」
「…ええ殿下、その通りですわ」
何故まだ弱っているロルフを連れて来たのだ。寝かせてやっていてほしくて森に付いて行ったのに、こうして無理をさせるなんて何をさせているのだろう。
どうして両親の前にロルフを連れて来たのだろう。頭を下げたままだが、両親はロルフの存在に気が付いている。
「お前も挨拶したらどうだ、ロルフ?」
「…ロルフ・ラウエンシュタインと申します。お嬢様に、良くしていただいております」
家格はラウエンシュタイン家の方が遥かに上だが、ロルフは爵位を継げない三男。マチルダの父は男爵であるが故に、ロルフ個人よりも身分が上。だからこそ、こうして丁寧に頭を下げられている。
「用は済んだ。顔を上げてくれ男爵。夫人も」
優しく微笑むクロヴィスに、マチルダは何とも言えない気持ちの悪さを抱く。
何を考えているのか分からない。ただ何か面倒な事を考えている事は分かる。ゆっくりと顔を上げた両親の表情が、マチルダの胸を冷たく冷やした。
化け物を忌み嫌う父の嫌悪感を隠しもしない顔。
金蔓だと獲物をねめつけるような母の嫌な笑み。
見られた。知られてしまった。こんな両親であるとロルフに知られた。
出来れば知られたくなかった両親の存在。
愛されて育ったのだと思われていたかった。
普通の子供の様に愛されなかった事を、ロルフには知られたくなかった。
「私はこれで失礼するよ。まだ少し浄化作業が残っているんでね。ロルフ、よく話をすると良い」
「はい殿下、行ってらっしゃいませ」
恭しく頭を下げたロルフの隣をすり抜けていったクロヴィスは、ちらりとマチルダに視線を向ける。可哀想にと口だけを動かした王子様は、どう考えても好きになれそうになかった。
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