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痛み

ロルフの傷はなかなか良くならない。

そして、森の瘴気もなかなか無くならない。連日朝早くから駆り出され、あまり好きではない男の護衛をしなければならない日々に、マチルダは苛立っていた。


「ねーマディ、ちゃんと休めてる?」

「ええ、大して疲れるような事もしていないし、大丈夫よ」


心配そうに顔を覗き込んでくるゾフィのふわふわとした髪を撫でながら、マチルダはふっと口元を綻ばせる。

何だか随分と久しぶりに会った気分だが、それも無理は無い。マチルダがクロヴィスのお供として森に入るようになってから七日間。他の生徒たちは授業以外の時間は寮の自室に押し込められ、食事の時間ですら早く済ませてすぐさま自室へ戻される。


「流石に学園内は安全だと思うんだけど…ここまでされなきゃ駄目なわけ?森の中ってそんなに危ないの?」

「うーん…先生方は生徒を守らなければならないから仕方無いわ。でも殿下や他の術師の方々が頑張ってくださっているから、今日から食事は一緒に楽しめるでしょう?」


あまり学園内をうろうろするなと言われてはいるが、友人たちと食事を楽しむ事は出来るようになった。主にクロヴィスの手柄なのだが、森の瘴気はほぼ浄化された事が確認されている。

問題は一番危険とされている第三エリアだった。瘴気に侵されていなくとも危険な生物が生息しているエリアで、瘴気の影響を受けた生物はどれ程の被害を出すのか誰にも想像が出来ない。


教員たちは第三エリアを完全に封鎖し、中で蟲毒のように食い合いをさせてみてはどうかと相談しているらしいのだが、マチルダはまた生き物の命が無駄に散っていく事を考えると胸が重たかった。


「愛しの彼は?ケーニッツはもうピンピンしてるけど」

「まだ傷の具合が良くならないの。傷を負わせたのが瘴気の影響を受けた鎧熊だったから、傷も瘴気の影響を受けているのかもしれないとお医者様は仰っていたわ」


光の魔法が使える者以外は、僅かな瘴気はほぼ感知出来ない。だから医務室にいた医療術師たちは気が付かなかったのだが、これ程傷が良くならない事、うっすらと瘴気の気配を感じ取った術師がいた事で、瘴気を浄化しなければならないという事までは分かっている。


「森の浄化作業に手一杯で、ロルフ様の傷は後回しにされているのよ」

「何で?酷いな…」

「命の危険からは脱しているから…だそうよ。腹立たしいったら」


苛々と眉間に皺を寄せるマチルダは、冷たく冷えたアイスクリームを一口食べた。怒りで熱くなった頭を冷やすのに丁度良い冷たさと、優しく溶け口の中に広がる甘さが少しだけ気持ちを落ち着かせてくれた。


「殿下にお願いしようと思ったのだけれど…浄化作業が終わるといつもお疲れのご様子だから」


腰巾着たち三人も全員地面にへばっている中、マチルダ一人だけけろりとした表情で立っているのは毎回同じだった。

騎士団に入らないかとシュレマーから大真面目な顔で誘われたが、「興味ありません」と微笑んだのは昨日の話だ。


「殿下ってあの王子先輩だよね?そんな凄い術師なんだ」

「ええ、術師としては最高のお方だと思うわ」

「わぁとげとげしい」


マチルダがクロヴィスを嫌っている事を知っているゾフィは、毎日のように嫌いな男の警護をさせられている事を心配していた。身の危険がどうという話もそうなのだが、そのうちクロヴィスがマチルダを怒らせ、無加減で攻撃魔法をぶっ放したりしないだろうかと心配だったのだ。


「ていうかさ、王子先輩に傷の浄化お願いしたとして、素直に了承してもらえるもんなの?」

「…どうかしら」


頼めばすぐさま浄化してもらえると思っていたが、クロヴィスはロルフを見下していた。格下だと思っている相手を素直に助けてくれるような男だろうかと改めて考えると、何となく「無理だろうな」と思えて来てしまった。


この数日毎日のようにクロヴィスと行動を共にしてきたが、彼は自分を守ろうとしている腰巾着たちには優しい。だが、うち一人であるレーヴェに対しては他の二人に比べて扱いが雑なように見える。

マチルダはクロヴィスが下に見た相手に対しては、とことん見下す人間であると判断していた。つまり、嫌いだ。


「駄目だわ。お守りする以外で殿下と会話なんかしたら爆発しそう」

「怖い事言うなあ。王国術師は頼めないの?」

「生徒の傷だけで王国術師の方がいらっしゃると思う?」

「でも愛しの彼ってレーベルク公爵家のボンボンでしょ?流石に来るっしょ」


光の魔法が使える術者は国から厳しく管理される。その為、王国術師と呼ばれる事が多かった。普段は王都の中央協会にいて、必要に応じて国内のあらゆる場所に派遣される。

今回のロルフの傷を浄化する程度の話では、なかなか来てくれないような人達なのだ。


一応公爵家の息子であるロルフの為ならば来てくれるのかもしれないが、この学園は王都から離れた場所にある。どれだけ急いだとしても四日はかかる。瘴気が濃くなっている今ならば、何事もなく道を進める保証もない。しかもその前に浄化作業の為に派遣するのか、誰を派遣するのか決めるまでも時間が掛かると聞いた事がある。


いつ到着するかも分からない王国術師に依頼をして待つよりも、未熟な学園の生徒に浄化を頼んだ方が話は早い。ロルフの傷を手当してくださいと頼んで、良いですよと答えてくれる人は誰かいるだろうか。連日の浄化作業で魔力は枯渇しかけているかもしれない。


余裕があるのは、恐らくクロヴィスだけだろう。


「うううう……」

「相当嫌なんだねえ…」

「でも…ロルフ様の為なら頭くらい下げるわよ」

「頭下げるくらいで済んだら良いけど」


そう言って溜息を吐いたゾフィが、残っていたマチルダのアイスクリームをぱくりと食べた。勝手に食べていくのはいつもの事。その日常が戻って来た事に安堵しながら、マチルダはどうやってクロヴィスにお願いをするかを考え始めていた。


◆◆◆


ロルフの病室に顔を出すのはもう日課だった。毎日のように飽きもせず、傷はどうか、食事はどうしただのあれこれ聞きながら、少しでも痛みが和らぎますようにと願いながらロルフの大きな手を握る。


「何故殿下が此処にいらっしゃいますの?」

「君は俺の護衛をするのは不満そうだからね。早くロルフの傷が良くなってくれないと、いつか後ろから鞭で叩かれてしまいそうで怖いんだ」


ニタニタと嫌な笑みを浮かべながら冗談を言うクロヴィスに、ロルフは気まずそうな顔を向ける。

傷のせいなのだから仕方無いのだが、王族を前に半裸に包帯姿。起き上がっているのも辛い体でなんとかベッドの上で上半身を起こしているだけで精一杯だった。


「ラウエンシュタイン家の男がこれくらいの傷で…落ちたものだな」


冷たくそう言い放ったクロヴィスの瞳に、ロルフの肩がびくりと揺れた。

眉間に皺を寄せ睨みつけるマチルダにちらりと視線を向けると、クロヴィスはそっとロルフの耳元へ顔を寄せて柔らかく微笑んだ。


「見せたのか?化け物」


何を言ったのかマチルダには聞こえなかった。だが、ロルフの顔は真っ青を通り越し白くなり、布団を握りしめる手は小刻みに震える。

何か良くない事を言われたのだと理解するのは簡単だった。相手が王族である事を忘れ、マチルダは怒りを露わにした表情のままクロヴィスの肩を掴んで思い切り引いた。


「何を言ったのです」

「何?事実を」


にぃと笑った王子様の嫌な表情。よくある御伽噺では煌めく爽やかで、甘い笑顔と表現される事が多いのに、今のクロヴィスの笑顔は心底嫌な笑顔だった。


何故クロヴィスがロルフに酷い態度をとるのか、マチルダには理解出来ない。昔馴染みのようだという事は理解しているが、昔からこういう扱いをしているのなら何故ロルフがただ黙っているだけなのかも分からない。相手が王子様だとしても、失礼な事を言われたら怒って良い筈なのだ。


「なあロルフ?俺は何か酷い事をお前に言ったか?」

「…いいえ、殿下」


絞り出されたロルフの声は掠れていた。

決して視線をクロヴィスに向ける事無く、握りしめ震える拳を見つめ続けるロルフが面白くなかったのか、クロヴィスはロルフの顎を掴んで自分の方へと向けた。


「教えただろう、何度も。返事をする時は、人と話をする時はどうするんだったか忘れたか?」


細められた目。紫色に輝く瞳がじとりとロルフを見下す様に睨みつける。体格は明らかにロルフの方が良いのに、睨まれると子猫の様に震えるのは何故なのか。



「目を、見る」

「そうだ賢いな。俺は、お前に、何か酷い事を言ったか?」

「いいえ、クロヴィス殿下」


震える声で、先程よりも大きな声で返事をしたロルフの姿に、マチルダはどうすれば良いのか分からない。掴んだままの肩を今すぐ握り潰したい衝動と戦いながら、じっと、静かにクロヴィスを睨みつける。


「フロイデンタール嬢、化け物を相手に遊ぶのはそろそろやめておいた方が良い。君は由緒正しき貴族令嬢。恋人気分はもう充分楽しんだだろう?」


化け物。彼は確かにそう言った。


すぐ殺してやろうと思う程の怒りを今知った。


無詠唱で魔法が使える事にこれ程感謝した事は無い。無言で右手に力を籠めた。しっかりと普段よりも強く身体強化魔法をかけながら。


「痛いじゃないか」

「顎を潰した方が宜しいでしょうか」

「そろそろ離してくれないか?これでも俺は王族なんだ。君よりも遥かに格上なんだよ」


学園の中で身分は関係ない。

そう言ってはいても、実際にその言葉を真に受ける者は殆どいない。出身によって見えない壁はあるし、それとなく上流階級出身の者に遜る者も多い。それが当たり前の世界に生きている人間だというのに、マチルダがあまりにも気にしなさすぎるのだ。


「ロルフ様に謝罪を。きちんと頭を下げて。そうしたら離します」


ぱきぱきと骨が軋む音が小さく響く。それがどちらの骨が鳴っている音なのかは分からなかったが、くらくらする程頭に血が上っている事だけは分かった。


ロルフを化け物と言ったのだ。どこまで馬鹿にすれば気が済むのだろう。何故そこまでロルフを貶すのだろう。


「化け物に化け物と言って何が悪い」

「化け物じゃない!」


そう叫んだマチルダの声に、ロルフが目を見張る。視線をクロヴィスから離す事は出来ていないが、唇をぎゅっと引き結び、じわりと血が滲む程噛み締める。


「良いかいフロイデンタール嬢、こいつは紛れもなく化け物だ。拘束し檻の中に押し込めておくか、今すぐ駆除した方が良い」


ハンと笑ったクロヴィスが、ロルフの顎を掴んだままの手をゆらゆらと揺らす。動きに合わせて首ごと動くロルフは、傷が痛むのか僅かに顔をしかめた。


「取り消しなさい、今すぐに!」


ごきりと嫌な音が部屋に響く。

僅かに眉を動かしたクロヴィスの肩がぶらりと下がった。手の中で砕けた骨の感触がどうにも気持ちが悪いが、言ってはいけない事を散々言われたマチルダが加減など出来る筈もない。

フーフーと荒い呼吸を繰り返しながら、マチルダはもう一発とばかりに体勢を低くした。脚に向けて魔力を一気に流し込み、床を蹴りぬいてクロヴィスの顎目掛けて拳を突っ込んだ。


二度と喋るな。そうなってしまえ。


「マチルダ!」


駄目だと止めようとしたロルフの声は聞こえていた。だがそれより早く、マチルダの拳は見えない何かに阻まれ鈍く砕ける音を響かせた。


びしゃりとまき散らされた赤。クロヴィスの顔面のほんの僅か手前でガラスに伝う雨粒の様に、その赤はゆっくりと床に向かって流れ落ちた。


「詫びる?俺が?なあロルフ、君の学友は随分と面白い事を言うんだな」


痛みに苛立っているのか、クロヴィスは顎を掴んでいた手を離し、すぐさま長く伸ばされたロルフの前髪を掴み揺さぶる。

笑顔を貼り付けることすらせず、顔を寄せ威嚇する様に低く唸るクロヴィスに、ロルフはただ痛みに耐えるしかなかった。


「お前は俺のペットだろう。そうだろう?自分の立場を忘れたか?少し浮かれすぎているようだが…化け物如きが人間らしく生きられると思うなよ」

「う…」

「忘れているのなら思い出せ。お前の主は誰だ?」


言え。

そう続けたクロヴィスの手の中で、ぶつぶつと髪が抜けていく。痛いと泣いた幼い頃の記憶。叩き込まれた恐怖と「従わなければならない」という躾。


「我が、光…」


震えた声。

痛みで息の詰まっているマチルダの前で、ロルフは愛しい人の前で屈辱に耐えていた。


「クロヴィス・ハノ・ロイヒェン殿下、貴方様です」


ぽたぽたとシーツに染みを作りながら、ロルフは幼い頃から染みついている恐怖に耐える。


どれだけの事をされたのだろう。

単純な殴り合いでも、魔法ありきの戦闘でもロルフの方が強いだろうに、震えて泣きながら許しを請う姿に、マチルダは何も言えない。


「宜しい。フロイデンタール嬢、これは返してもらうぞ。俺の気に入りなんだ」


そう言って微笑んだクロヴィスは漸くロルフの髪を離す。

開かれた手から落ちる千切れてしまった髪が、はらはらと床に落ちていった。


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