愛して
全ては一人の女性が死んだことから始まった。
どこの国にも、瘴気を払う為の特別な人が存在する。性別は問わないが、光魔法が使える魔法使いの限られた人だけが就ける特別な職。それが聖職者。
国のあちこちを回り、瘴気を払う事が仕事。
その他にも破損した魔具を修復するのも聖職者の仕事だ。
「主席聖女が亡くなったのが三年前。以来、徐々に瘴気が濃くなってこの有様だ」
溜息を吐いているレーベルクは、まだベッドの上で大人しくしているマチルダに向かって腕を組んだ姿勢で、何か面倒事を頼もうとしているようだ。
「聖女様がお亡くなりになられてから三年もの間、教会は何をしていたのです?」
静かに呟くマチルダの声に、レーベルクは答えない。
亡くなった主席聖女の力は絶大だった。歴代最強とも謳われた彼女の魔法は、魔法生物との共存には欠かせない。欠かせないからこそ、何人もの聖女や聖職者を育てているのだが、何年もの間力の強い術者は育たなかった。
「先代主席聖女様程のお力は無くとも、複数人で対処できる程度の術者は育てられる筈です。教会の怠慢ではありませんか」
静かに怒りを露わにするマチルダに、レーベルクは大きな溜息を吐いた。マチルダの言う事は最もなのだ。教会がもっと必死になってやってくれていれば、世界がおかしくなることは無かったかもしれない。
ロルフが怪我をする事も、生きる為にエリアを超えた熊たちが死ぬことも無かった。
「教会の怠慢で瘴気が濃くなり、その後始末をさせるのですね」
「…そうだ」
「私は光魔法は使えません。瘴気を浄化する事は出来ませんわ」
瘴気を浄化するには特別な魔法が必要だ。だが、マチルダにその魔法は使えない。協力しろとどれだけ言われようとも、力になる事は出来ないのだ。
「下学年に一人、聖女候補がいる」
そう呟いたレーベルクは、真っ青な瞳をマチルダに向けた。下学年の聖女候補を、魔物から守るのがリズの仕事。そして、森の中で変異している生物や、エリアを超えている生物を駆除するのがマチルダの仕事となったらしい。
本人たちの意志は関係なく、与えられた仕事をこなさなければならない。それが、この学園で学んでいる生徒たちの人生だから。
「…断る事は許されない。国の為に生き、国の為に死ぬ。それが私たち魔法使いなのでしょう」
入学式の日、校長が高らかにそう言った。
胸に刻み込め。神から賜った特別な力を持つ以上、これは死ぬまで忘れてはならない事だと。
「仕事をする人達の中に、ゾフィは含まれていませんね」
「ああ、彼女は戦闘に不向きだからな」
「では、ロルフ様は」
レーベルクを見つめるフォレストグリーンの瞳。冷たく輝くその瞳は、今にもレーベルクを射殺しそうな程の圧があった。
「傷が治り次第、参加する」
「では、ロルフ様が回復するより先に終わらせます。聖女候補の方は下学年の一人だけでは無いのでしょう?」
スッと目を細め、マチルダはゆったりと口元を緩ませる。ただ穏やかに微笑んでいるように見えるその表情は、見ているだけならば美しい。
「上学年に聖女候補が二人。それから、聖職者候補が一人。良いか、聖職者候補は絶対に傷一つ負わせてはならない」
何故。そう問う必要はない。この学園で、傷を負う事すら許されない人間はただ一人、第三王子であるクロヴィスだけだ。
王族の殆どの者は魔法を使う事の出来る人間だ。そしてその誰もが、一流の術者だった。クロヴィスもその一人だが、彼は国内でも数少ない光魔法を扱える術者でもある。
現在育てられている最中の術者候補の中で一番力が強い男。それがクロヴィスなのだ。
「森の瘴気を全て浄化するには、クロヴィス殿下のお力だけでは時間が掛かりすぎる上、殿下のお身体への負担が大きい。聖女候補三人で補佐をする必要がある」
「では、私は殿下の周囲を特にお守りすれば宜しいのですね」
「ああ。ラウエンシュタインが回復したら、その役目は交代だ」
絶対にそれはさせない。もうロルフをあの森の中に入れてはならない。生徒たちの前で野獣の姿になる事を恐れているロルフを、出来るだけ戦わせたくない。
「作戦は明後日の早朝から。それまでは休め」
「はい先生」
「それから、ラウエンシュタインとケーニッツの面会が許可されている。会いに行くなら行くと良い」
すぐ隣の部屋なのだから、会おうと思えばすぐに会えた。傷の具合が良くないからと面会が許されていなかったのだが、漸く許可されたらしい。マチルダたちが森から助け出され運び込まれてから二日後の事だった。
レーベルクが部屋を出ていくのをぼうっと眺め、マチルダはそっと視線を扉に向けた。
あちらから開いてくれれば、両腕を広げて大歓迎するものを、残念な事に開いてくれそうにない。
どんな顔をして会いに行けば良いのだろう。学年最強と持て囃され調子に乗っていたのかもしれない。何とか出来ると思って無茶をした。森の中に何度も戻り、ロルフを助けようと必死だった。
だというのに、結局魔力切れを起こして足手まといになっただけだった。なんて情けないのだろう。己の力を過信し、力だけで押せると思っていた。現実はそう甘くは無かったし、どうやって森から出たのかすら覚えていない。
本当は、そんなに強くないのかもしれない。
学園を卒業して実戦の場に出たらすぐに死ぬのかもしれない。瘴気が溢れているこの世界でどれだけの間生きていられるだろう。死ぬ時は、どんな死に方をするのだろう。綺麗に身体を残して死ねるだろうか。それとも、ただの肉片になり果てて死ぬのだろうか。
「…フロイデンタール」
「あ…ケーニッツさん、ごきげんよう」
細く開かれた扉の隙間から、コニーがそっと此方の様子を伺っている。ぼうっと呆けているマチルダを見て、どう入れば良いのか考えていたようだ。
「森の中で助けてくれただろ?ありがとう」
「いえ…私は何も。お礼はロルフ様と、ローゼンハインさんに仰ってください」
森の途中まで運んだだけ。ロルフの元へ戻りたいがために、助けに来てくれたリズに後の事を押し付けただけ。礼を言われるような事は何もしていない。
「公爵家のお姫様何処にいるかな。お礼言いに行きたいんだけど」
「さあ…生徒は全員待機命令が出ているそうですから、もしかしたら女子寮の自室にいらっしゃるかもしれませんわね」
「俺入れないじゃん…」
呼び出せば来てくれるだろうと提案したマチルダに、コニーは苦笑いを浮かべる。
貴族出身の生徒がコニーのように平民出身の生徒をまともに相手する事はあまりない。特にリズは王族や貴族には穏やかに接するが、貴き身分でない人間には酷く冷たかった。恐らく、呼んでいると言われても出てくる事は無いだろう。
「ダメ元で行ってみるかな。ありがとうフロイデンタール」
「はい、行ってらっしゃいませ」
「ああそうだ、ロルフが君に会いたいって」
廊下へ出る扉へ手を掛けて振り向いたコニーの言葉に、マチルダは目を見開いた。
あのロルフが自分に会いたいと言っている。普段ならば大喜びで隣の部屋に飛び込むのだが、今はそんな気分にはなれなかった。
どんな顔をして会えば良い。
己を過信していた事に気付いて恥ずかしくてたまらないのに。情けなくてどうにかなりそうなのに。いつも通り、お慕いしておりますと騒げば、この気持ちを忘れられるのだろうか。
固まったまま動かないマチルダを放ったまま、コニーはさっさと扉を開いて出ていった。シンと静まり返った部屋。隣の部屋に繋がる扉はコニーがきちんと閉めなかったのかうっすらと開いていた。
ロルフがあの扉の向こうにいる。
会おうと思えばすぐに会える。たった一枚の扉が隔てている距離。
「…会いに来てくれないのか」
扉の隙間から聞こえたロルフの声。
どきりと胸が騒ぐ。大好きな、耳に響く低い声。扉の向こうにロルフの影が見えた。此方の様子を伺っているのか、扉の隙間は広がりそうにない。
「いつも、追いかけ回してくるくせに」
僅かに震えるロルフの声。追いかけている間は来るな迷惑だと叫ぶくせに、今はどうして来てくれないのだと問うてくる。
彼は何がしたいのだろう。諦めてほしいと言う癖に、諦めさせてくれない彼は本当に酷い男だ。
「怖い思いをさせて、すまなかった」
絞り出された言葉。
それだけ言うと、ロルフは扉を閉ざす。小さく音を立てて閉ざされた扉は、まるで分厚く重たい鉄の扉のように思えた。
今この場でロルフの言葉を否定しなければ、彼の心はあの扉のように閉ざされてしまう。そんな気がした。
冷たい石造りの床を、裸足で走った。ベッドから扉まで大した距離ではない筈なのに、重たい体ではたった数歩の距離ですら辛かった。
お願いだから閉ざさないで。
どうか、隣にいさせてほしい。
「待って…!」
なんて無様に震えた声なのだろう。縋りつく様にドアノブに手を掛けた。すぐ傍にロルフがまだ立っているだろうに、それを考える余裕すら無い。体全体で扉を押し開ければ、勢いに耐える事が出来ずに隣の部屋の床に倒れ込んだ。
「お、おい…大丈夫か?」
「あの、ごめんなさい…私は、思い上がっておりました」
床に倒れたまま、マチルダは言葉を紡ぐ。いつも逃げていってしまう彼を逃がさぬ様、聞いてくれる気になっている事を願いながら、ただ必死で思いを伝えた。
力不足であったにも関わらず、足手纏いになってしまうと考えもせずに突っ込んだ事。何の助けにもなれず、意識を手放した事。野獣の姿を見られたくないと言っていたにも関わらず、リズに見られてしまった事。
ぽろぽろと涙を零し、頭を下げ続けるマチルダに、ロルフはどうすれば良いのか分からないといった表情で床に膝をついた。
涙を拭ってやろうと、ロルフの大きな手がマチルダの頬に寄る。しかし、その手は頬に触れる事なく、そっと離れて行った。
「謝るのは俺の方だ。頬の傷、俺がやっただろう」
マチルダの左頬に貼り付けられた、薬草付きの布。ロルフが付けたちょっとした傷なのだが、女性の顔に傷をつけてしまったからと、ロルフはとても申し訳なさそうな顔をした。
「あの姿になると、自分が何をしているのか分からなくなるんだ。だからと言って許される事じゃないんだが…」
「いえ…この程度の傷、すぐに治ります」
頬に触れながら、マチルダは小さく答えた。
生きていれば治る。その程度の傷に申し訳なさそうにされたくなかった。
「止めてくれて、ありがとう」
「私は何もしておりません」
「声が聞こえたんだ。何度も、俺の名を呼んでくれた」
確かに何度も呼んだ。ただ名前を呼ぶ事しか出来なかっただけなのだが、ロルフはそれが嬉しかったと言う。
「俺は…あの姿になるのが怖いんだ。初めのうちはちゃんと何をしているのか分かっているのに、時間が経つとだんだん分からなくなる。暴れるだけ暴れて満足するか、無理矢理拘束されないと止まれない」
ぽつぽつと話すロルフは、床にしゃがみ込んだまま俯いている。いつものように、カーテンのように顔を隠しているその髪が、窓から注ぐ日の光を反射してキラキラと輝いて見えた。
「途中から記憶が無いんだ。君に攻撃したのは、朧気に憶えてる。でもそれまで何をしていたのかは覚えていない」
申し訳ないともう一度呟くと、ロルフは深々と頭を下げる。
謝らなくて良いとロルフの頭を撫でたマチルダの手を、ロルフの大きな手がそっと退けた。まるで、触れないでくれとでも言うように。
「分からなくなった時、普段は拘束されるんだ。でも、あの時は何故か、君の声が聞こえて落ち着いた。魔法みたいに」
「私の声で…落ち着けるのですか?」
「ああ。俺を好きだと言って、追いかけ回してくる君の声が、落ち着くんだ」
そっと頭を上げたロルフの前髪の隙間から、柔らかく輝く金色の瞳が見えた。じっとマチルダを見つめる瞳は、とても優しい目をしていた。
「変な子だな、君は」
「何です、改めて」
「あの姿を、俺の母は受け入れてくれなかった。私の息子では無いと言い切って、顔を見ようともしなかった。肉親ですら、腹を痛めて産んだ母親ですら、俺を認めようと、愛そうとはしてくれなかった」
苦しそうだと、そう思った。思わず抱きしめたロルフの頭。森の中で抱きしめた時と同じように、しっかりと腕の中へ閉じ込めた。
そんな事があったとは思わなかった。母親なら誰でも、我が子を愛しているものだと思って生きて来た。自分の母がそうだったからだ。
人よりも強い魔力を持って生まれた娘。力の制御が出来ず、自分の体すら傷付けるような子供を、いつでも優しく抱きしめ、愛し慈しみ、「私の宝物」と言ってくれた。
「どうして君は、俺を受け入れてくれるんだ」
震えた声で、ロルフは問う。
肉親ですら受け入れてくれなかった。母には拒絶され、父には利用価値があるとしか思われていない。愛されたかった。ただ純粋に、愛しい子だと言われたかった。抱きしめてほしかった。それを望む事すら許されなかったロルフは、真直ぐに好きだと笑ってくれる、抱きしめてくれるマチルダの細い体に縋る。
愛してくれ。
ずっとそんな思いを抱えていたのだろうか。異形の獣となった姿を受け入れ、愛してくれる人を求めていたのかもしれない。
「もうこれ以上期待したくないんだ。もしもまた、君を傷付けてしまったらと思うと恐ろしくて堪らない。だから…」
そこまで言うと、ロルフはそっとマチルダの腕から抜け出した。ぐっと両肩を掴むロルフの手は、いつも通り温かかった。
「俺を一人にしてくれ」
「お断りします」
間髪入れずにそう答えたマチルダは、そっとロルフの手を取って微笑む。
自分の力を過信していたと反省し、落ち込んでいた筈なのに、こればかりは譲れない。
真直ぐにロルフの瞳を見つめるフォレストグリーンの瞳は、いつも通りキラキラと輝いていた。
「私はロルフ様以外の殿方に興味がありません。貴方を心からお慕いし、生涯を共に生きたいと思っております」
にっこりと微笑み、ロルフの頬を両手で包み込むと、マチルダはあの日と同じ言葉を紡いだ。
「私と、結婚してくださいませ」
ぽたぽたと床に落ちる涙。ロルフの金色の瞳から溢れ、零れ落ちた涙がマチルダの手を濡らす。ぐっと唇を噛みしめ、ふるふると首を横に振るロルフは、大きな手をマチルダの手に重ねて目を閉じた。
「俺は異形だ。普通じゃないし、父には妻が死ぬまで子供を成せと言われるだろう。君を幸せにする自信が無い。きっと、不幸にしてしまう」
「不幸かどうかを決めるのは私です。それに、私が大人しく諦めるような女だとお思いですの?」
散々逃げられても諦めずに追いかけまわし、追跡魔法まで使って探し出す。嫌だ迷惑だと叫ばれようが、異形の姿を見せられ、攻撃までされても諦めないのだ。
「やっぱり、変な子だ」
そう言って笑ったロルフは、涙で濡れた顔のまま額をマチルダに寄せた。燃え盛る炎の色をした髪に指を潜らせ、小さな頭を優しく撫でた。
「俺を、愛してくれ」
漸く絞り出した心の奥底に閉じ込めていた願い。それは、マチルダならば叶えてくれると信じての言葉だった。
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