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成り損ない

遠くからロルフの声が聞こえた気がする。何度も名前を呼び、心配そうに頭を撫でてくれる優しい手。ふわふわと意識を浮上させたマチルダは、それらが全て夢である事を知った。


「マディ!」

「…ゾフィ?」

「良かった、気が付いた!」


涙を浮かべたゾフィがマチルダの手を握りしめている。心配した、良かったと何度も繰り返し、嗚咽を漏らすゾフィの手は小刻みに震えていた。


「ごめんね、ゾフィ」

「本当だよ!何であんなになるまで無茶したんだ!死んじゃうかもしれなかったんだよ!」


大粒の涙を零しながら怒り出す友人は、本気で心配してくれていたのだろう。あの子は強いから大丈夫。そう思われる事が常だったマチルダにとって、心の底から心配してもらうという経験はほぼ初めての事だった。


「怪我は無い?」

「無いよ、大丈夫」


ぐしぐしと顔を制服の裾で拭ったゾフィは、他の生徒たちの事を教えてくれた。コニーは頭を打っている為暫く安静にしていなければならないが、命は助かった。

リズも細かい傷は負っているが、早くマチルダを起こせと怒る程度には元気だそうだ。


「愛しの彼も無事だよ。ちょっと…重傷だけど」

「どういう事」

「背中がね、鎧熊に酷くやられたから…一応手当はしてるけど、あんまり治りが良くないんだって」


そう言って、ゾフィは隣の部屋へと繋がる扉に視線を向ける。重傷者の世話をする為の部屋だという事は知っているが、今その部屋に押し込まれているのはロルフとコニーの二人だけだと言う。


マチルダの他にも教員の指示を聞かず、生徒の救出に向かった者が多かったらしい。重傷者は出てしまったが、幸運な事に死者は出なかったそうだ。


「暫くの間、森に入るのは禁止だって。何が起きてるのか分からないから、危険だって…」


普段はエリアに分かれて生息している魔法生物たち。それがエリアを超えて出てきている。ただ出てきているだけならば、食料が足りていないのだろうと考える事は出来たが、出てくる魔法生物の殆どが何らかの変異を起こしていた。


鎧熊は普段森の第二エリアと第三エリアの狭間の辺りに生息しており、第一エリアまで出てくる事は稀だ。人間を恐れているのか、森の浅い所まで出てきても人影を見ればすぐに逃げていく。鎧を纏っているのは、この世のあらゆるものを恐れているからだと言われる程、人間に関わって来ない生き物の筈だった。


「ウサギカズラも巨大化してたんでしょ?何が起きてるんだか…」


不安そうな表情を浮かべるゾフィは、静かに俯いて拳を握る。まだ学生だから安全な学園内で怯えていられる。だが、卒業すればそうはいかない。既に王宮術師を始め、ギルド所属の冒険者や術者達が集められているだろう。


「大人しくしてろって言われてるけど…多分生徒の一部、実戦で使える生徒は駆り出されるって噂。マディはその筆頭だと思うけど…」


ちらりとマチルダの様子を伺うゾフィは、やめておけと言いたげに眉尻を下げている。

不安そうな顔をしているゾフィの頭をぽんと撫でると、マチルダは柔らかく微笑んでみせた。


「大丈夫よゾフィ。無茶はしないわ」

「嘘くせー」


にっかりと笑ったゾフィはまだ涙で顔を濡らしたままだが、なるべく普段通りにしようとしてくれている優しさを感じた。本当よと笑ったマチルダは、静かに扉を見つめて黙り込む。

無事だった。生きている。それだけで、今は良かった。


◆◆◆


あの姿になるのは嫌いだ。

動物に姿を変える事の出来る特別な人間。その一族に生まれた事を呪ったのは、幾つの頃だっただろう。幼い頃は憧れだった。

銀色の美しい毛並みをした大きな狼。その狼が父へと姿を変えた。美しい。単純にそう思った。


いつか自分も、他の一族の人間と同じように狼になれるのだと思っていた。兄弟は何人もいるが、一番上の兄が初めて狼に姿を変えたあの日、兄は憧れの人となった。

沢山の兄弟の中で、魔力を持って生まれた子供は少ない。一番上の兄、二番目の兄、二番目の姉。そして自分。


両親は子供たちを愛してくれた。魔力を持っている子供は勿論の事、持っていない子供たちも深く愛した。


一番上の兄は家を継ぐ子供。そして戦えるだけの魔力を持ち、一族の特性である変身魔法も身に着けた。それを鼻に掛ける事無く、妹も弟も可愛がり、一族の主になるべく努力している。それが、ロルフの目にはとても眩しく見えた。


「私の息子が…」


何度も耳に蘇る父の言葉。

目を見開き、絶望と興奮に満ちた目。何故そんな目をして息子を見るのか、あの日のロルフは理解出来なかった。

理解出来たのは、鏡の前で変身した時だった。憧れていた狼は何処にも居ない。広い部屋の真ん中に座り込んでいたのは、小さな異形の獣。


「なんで」


ぽつりと零してしまった言葉。

鏡に映る獣がうっすらと口を開いた。

耳に届いたのは、普段通りの自分の声。

どうして兄のようになれなかったのだろう。

どうして醜い獣になってしまったのだろう。

どうして皆と同じになれなかったのだ。

何故、どうして、どうすれば。


訳が分からなかった。訳も分からず暴れた。部屋の中がどうなろうが、家族からの贈り物で大切にしていた玩具の木馬が木っ端微塵になろうが止まれなかった。泣き叫び、暴れ、気が付いた時には、涙を流す兄と、口元を抑えて泣き崩れている母が部屋にいた。


「ロルフ、お前が次の呪いの子だったんだな」


呪いの子って何。どうして俺はそれに選ばれてしまったの。だから皆と同じじゃないの。憧れの姿になれなかったの。


そう言葉にしたのか、出来なかったのかは覚えていない。覚えているのは、「この子は私の子じゃない」と叫んだ母の声だけ。


誇り高き狼の一族ラウエンシュタイン家。そこに生まれた魔力持ちの子供。誰からも期待され、兄と共に国と家の為に生きるのだと思っていた。それは、醜い姿へと変わってしまったあの日に潰えた希望だった。


「う…」


嫌な思い出に気分を悪くしている間に、隣のベッドから小さな呻き声が聞こえた。うつ伏せの姿勢で首だけを動かすと、そこに寝かされているのはコニーだと理解した。

鎧熊に襲われかけている所を発見し、助けなければと飛び込んだ事は覚えている。変身せずに戦うのはロルフには難しい事で、どうにかして先にコニーを逃がそうとした。だが、コニーは逃げてくれなかった。そして、先に仕留めようと思われたのか鎧熊の攻撃を受けて吹き飛ばされたのだ。


「生きてるか、コニー」

「あー…ギリギリ生きてる」


互いに掠れた声。酷い声だと笑い合い、生きている事を喜び合った。

死ぬかと思ったと笑っているコニーは、頭だけでなく全身に打撲を負ったようで、体のあちこちが痛いと声を上げた。


「ラウエンシュタイン、ありがとう。助けてくれて」


ひとしきり笑って満足したのか、コニーはゆっくりとロルフの方を見ながら礼を言った。

普段ヘラヘラとしているコニーの表情は見慣れているが、真面目な顔で、きちんと礼を言う顔は見慣れない。


「…ロルフで良い。生き延びられて良かったな」

「何か色んな人に助けられたみたいで。フロイデンタールに、ローゼンハインだろ?他にも沢山…」

「全員に頭下げて回らないとな」


笑みを浮かべるロルフは、じくじくと痛みだした背中に顔をしかめる。痛み止めが切れかかっているのだろう。何があったのか詳しくは覚えていないが、酷い怪我をしている事は理解した。


「俺は…誰に運ばれたんだ?」

「さあ…俺もあんまり覚えてなくて」

「そうか。…マチルダは無事か?」

「無事だってさ。隣の部屋で入院中」


そう言うと、コニーはふらふらと弱々しい動きで隣の部屋へ続く扉を指差した。ロルフも扉に視線を向けた。

あの扉の向こうに、燃え盛る炎のような髪を持った、美しい人が居る。いつでもうっとりと蕩けた表情で、ロルフ様と名前を呼ぶあの人が。

無事とは言っても、どれほど怪我をしているだろう。綺麗に巻かれているあの髪が恋しい。いつも通り、ロルフ様と名前を呼んでほしかった。


「私を食べますか?」


ぼんやりとした意識の中、マチルダの声が聞こえた。何故君を食べるんだと聞きたくて、何故戻ってきたんだと怒りたくて、ただマチルダの髪に触れたくて、藻掻いた。


初めてきちんと名前を呼んだような、朧げな記憶。抱きしめた細い体は折れてしまいそうで怖かった。しっかりと背中に回されたマチルダの腕が、ぽとりと落ちた時の恐怖。ふるりと体を震わせたロルフは、痛みに耐えるように枕を握りしめた。


マチルダの顔が見たい。煩いなと思っていた彼女の声を聞きたい。

化け物の姿を見ても、変わらず愛してくれるあの人に触れたい。


愛される事は恐ろしい。でも愛してほしい。いつまでも、深く、全てを受け入れて愛してほしかった。マチルダはそれが出来る人だった。


「貴方のマチルダ・フロイデンタールです」


そう言った甘く蕩けるあの声が、恋しかった。


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