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二人だけの秘密

早くロルフを探さなければ。コニーは無事だろうか。早く愛しい男と友人を探し出し、森を出なければならない。ガサガサと木々の擦れる音を立てながら、マチルダは走る。

苛立ったところで何も解決しない事は分かっているが、何となく苛々とした気分が落ち着いてくれなかった。


「…!…ろ!」


微かに誰かの声がする。男子生徒の声である事は分かるのだが、誰の声なのかまでは分からない。徐々に声の元へと近付くにつれ、マチルダはヒリヒリとした嫌な気配に緊張し始めていた。


「良いから逃げろ!」


ロルフの声だ。そう確信したマチルダは、思い切り地面を蹴った。あの草陰を抜ければロルフが居る。何か良くない事が起きていて、誰かを庇ってロルフが戦っているのかもしれない。


助けなければ。ロルフを傷付ける者は誰であろうと許さない。


「ロルフ様!」


飛び込んだ場所は少し開けた場所だった。

その真ん中で驚きを隠せずにいるロルフは、あんぐりと口を開いて固まった。ロルフの足元には傷付き血塗れになっているコニーが痛みに顔を歪めながら転がっていた。


「ご無事ですか!」

「助かった!コニーを連れて逃げてくれ!」


驚いていたロルフだが、マチルダが助けに来てくれた事に気が付くと安堵したように肩の力を僅かに抜いた。

ロルフの足元に転がっているコニーも、助かったと小さく呟いて空を仰ぐ。何をそんなに傷付いているのだと首を傾げたマチルダだったが、その理由はすぐに分かった。


少し前に自分が倒した鎧熊。あの個体とは比べ物にならない巨体を持った鎧熊がロルフに向かって唸っているのだ。


「救援信号を出したんだが誰も来ないんだ。こいつは何とかするから、コニーを運んでくれ」

「分かりました。ケーニッツさん、起き上がれます?」

「ごめん…ちょっときつい」


頭を打ったのか、地面に横たわるコニーの後頭部周辺の地面はどす黒い液体で濡れていた。

へらりと笑おうとしているのだろうが、コニーの視線はふらふらとしていて頼りない。すぐに運んで医務室に叩き込んだ方が良いだろう。


「ケーニッツさん、少し揺れますがすぐに安全な場所へ運びます。我慢してくださいね」

「運んでくれるだけでありがたいよ。まだ死ぬわけにはいかないんだ」

「生きる事に貪欲である事は素晴らしい事です」


にんまりと笑ったマチルダは、トントンと地面を叩いてルディを呼んだ。鎧熊に怯えているようで尻尾が下がっているが、主の足元へ寄り添っている。

鎧熊は突然飛び込んできたマチルダとルディに警戒しているようだが、視線はしっかりとコニーに突き刺したまま動かなかった。


「ルディ、ケーニッツさんを安全な所へ運びなさい」

「おい、君も行くんだ」

「お断りします」


既にルディはコニーを運ぼうと格闘し始めている。ゾフィを運んだのと同じように背中に乗せようとしているのだが、上手くいかないようで困ったようにマチルダの顔を見上げた。


「引き摺りなさい」


もっと優しくしてやれ。そう言いたげなロルフの視線には気付いているが、今はロルフを一人残して逃げられるような状況ではない。一人にしてしまえば、ロルフはすぐさま熊の腹の中に収まってしまうだろう。それは何としてでも避けなければならなかった。

ずるずるとコニーを引き摺り出したルディを指差し、大丈夫だと訴えるマチルダだったが、ロルフは視線を熊から外さずにちょいちょい手招きをした。


そっと体を寄せたマチルダの耳元で、ロルフは囁く。


「頼む、見られたくないんだ」

「…野獣に?」

「ああ。すぐ片付けて追いかけるから、コニーを頼む。多分まだ近くに別の個体が居る。あんなにゆっくり運んでたらまた襲われるぞ」


マチルダの肩にロルフの手が触れる。ぐっと力を籠められた感触に、マチルダはぐっと唇を噛んだ。

マチルダになら任せられる、信頼出来る。そう言ってもらえているような気分だが、誰よりも大切な男を危険に晒し、残して行くのが嫌だ。


「頼む、マチルダ」

「っ…ずるい人」


こんな時に名前を呼ぶなんて。

マチルダは勿論、フロイデンタールとも呼んでもらえなかった。だと言うのに、今この場で突然呼ぶなんて何を考えているのだろう。

金色に輝く瞳は一瞥もくれない。じっと獲物を見据える狼のように、ロルフは低く身構えていた。


「ルディ走りなさい!」


走れと命じられたルディはコニーを離して走り出す。すぐさまマチルダが浮遊魔法を使い浮かせると、コニーは見えない何かに引っ張られるように移動し始める。

全力で走っているマチルダは身体強化魔法を使っている。それに追加して浮遊魔法を使っているおかげで、攻撃魔法を使うには少々タイムラグが発生するようになった。


「ルディ!邪魔になる敵は全て吹き飛ばしなさい!」


身体強化魔法が使える時間はもう残り少ない。じわじわと体の内を流れる魔力量が減っているのが分かる。こんなに魔力を消費したのはいつ以来だろう。目の前がチカチカと明るくなってきた。くらりと揺らぐ視界に、限界の近さを感じた。


「フロイデンタール!」


走る先で一人の女子生徒が叫んだ。金色の髪を乱したリズだった。

普段は大嫌いだが、今は頼りになる。何があったのだと問うリズの言葉を無視し、勢い良くリズの肩を掴んだ。


「ケーニッツさんが負傷しています。森の外へ運んでください。ルディが前を守りますから、全力で走ってください」

「待ちなさい、きちんと説明を…」

「時間がありません。良いですか、ケーニッツさんを運んで、すぐさま学園の医務室へ」


ぜいぜいと息を切らすマチルダの気迫に、リズは言葉を失っている。ちらりとマチルダの傍らに浮いているコニーを見ると、状況の深刻さを察したようだ。


「森の出口までは私が運びます。まだ外に私の友人たちがいますから、そこから先は友人が」

「何でも構いません、運んで、死なせないで」


完全に身体強化魔法は効力を失っている。再度使ったとしても、効果が持続する時間は限りなく短いだろう。

早くロルフの元へ戻らなければ。まだ別の個体が居ると言っていた。野獣の姿になったロルフの強さを知らない。自分よりも強い男だということは知っているが、ロルフの本当の強さを知らない今、絶対に大丈夫だと任せきりにする勇気はない。


「何の音なの」


マチルダの後ろから響く轟音。ロルフが戦っている事はマチルダにしか分からない。警戒し、僅かに怯えているリズは手にしているレイピアをぎゅっと握りしめた。


「う…」

「ケーニッツさん、ローゼンハインさんが運んでくださいますから、もう少しだけ頑張ってくださいね」


苦しそうに呻いているコニーに、リズは覚悟を決めたのかマチルダの肩に手を置いた。


「ロルフが居ないの。探してちょうだい」

「お任せを。愛しい人を探し出すのは得意ですから」


学園の何処に隠れていても見つけ出す。背中に追跡魔法用に印を付けてまで追いかけまわしているのだ。それを知っているらしいリズは、フンと鼻を鳴らして手を離す。

コニーに手を翳すと、淡い水色の光がコニーの体を包み込んだ。


「感謝します」


にっこりと微笑み、マチルダは再び森の奥へと走り出す。ルディは主の言った通りリズとコニーを先導して走り出したようだ、賢い子が使い魔になってくれた事を有難く思いながら、必死で足を動かし続けた。


身体強化魔法を使っていない体で走るのが、こんなにも疲れる事だと久しぶりに思い出した。胸が苦しい。脇腹がじくじくと痛む。

必死で走っているというのになかなか距離が縮まない苛立ちを誤魔化す様に、ただひたすら走り続けた。


再びの轟音。少し先で何か大きなものが倒れたような音と地響きがした。ロルフは無事だろうか。先程の熊はマチルダが倒した個体よりも遥かに大きかった。

熊を倒して地面に転がしたから鳴り響いた轟音なのか、それともロルフが転がされた音なのか。何方なのか分からないマチルダの胸が、ざわざわと騒いで落ち着かない。


「ロルフ様!戻りました!」


先程いた場所は様変わりしていた。

元々開けていた場所だったが、更に開けてしまっている。それは木々が薙ぎ倒されているからなのだが、熊がやった事なのか、ロルフがやった事なのかも分からなかった。


ただ一つ分かったのは、一頭の熊が首元を食い千切られ地面に転がっているという事。

よく見れば前足も一本おかしな方向を向いているのだが、その向こうにもう一頭熊が立っている。


背中を向けている熊の向こうで何かが動いた。


「ロルフ様!」


授業をサボったあの日、ロルフが見せてくれた秘密の姿。髪色と同じ焦げ茶色の毛を纏った、異形の野獣。血に濡れ、咆哮を上げながら戦っているその姿は、正しく野獣だった。


マチルダが戻ってきている事に気付いているのかいないのか、ロルフは熊に食らい付いて離れない。野獣の手に装着された鈍色のナックルダスターは、授業中ロルフの拳に収まっていた筈だ。大きさは普段とは違い大きくなっているが、首筋に食らい付いたまま何度も拳を叩き込んでいる。


熊もただやられているわけではなかった。

鋭い爪をロルフの背中に食い込ませているが、ロルフは痛みに叫ぶだけで攻撃の手を緩めはしない。


入る余地が無い。今マチルダに出来る事は一つも無い。ただ茫然とその場に立ちすくみ、ロルフの無事を祈るだけだ。

無力だ。魔力切れを起こしかけている今、援護しようにも大した事は出来そうに無い。たった一発中途半端な魔法を打ち込めたとしても、すぐさま倒れて足手まといになるだろう。


もっと強く。ロルフの隣に立てる程強くなりたい。ならなければならない。守られたいという願いを捨て去ってでも、彼の隣に居たい。そう思う事は出来るのに、今のマチルダには何も出来ない。それが、歯痒く、悔しくてならなかった。


野獣が叫ぶ。人の言葉を発する事が出来ていた筈なのに、今のロルフは人語を発さない。

此方を見て咆哮を上げている理由は嫌でも分かる。

少しでも弱そうな生き物を食わねばならない。そう判断した熊がマチルダに標的を変えた。血液を撒き散らしながら走ってくる熊。


死ぬ。


ひゅっと喉が音を鳴らす。初めて死を意識した。


「ぎゃっ」


ぎゅっと目を閉じた瞬間、耳に届いたのは獣の悲鳴だった。どすりと低い音と振動。恐る恐る目を開くと、目の前には焦げ茶色の毛と、それを濡らす血液の色が広がった。


「ロルフ様…?」


マチルダの声に反応は無い。すぐさま熊に飛び掛かり、拳を叩き込んだ野獣の手元が爆発を起こす。

周囲に飛び散る血液、肉片、内臓のような何か。びたびたと嫌な音を立てて飛び散る熊の体の上で、野獣は天高く吠えた。


もう熊は動かない。弱点である腹を暴かれ、全てを曝け出したまま動かない熊の上、ロルフは何度も叫び声を上げた。まるで、狼が仲間を呼ぶ遠吠えのように。


「ロルフ様」


恐る恐る近寄るマチルダに、野獣はゆっくりと振り返る。高く細い声を漏らし、じっとマチルダを見つめる目は、大好きな金色の瞳のまま。

生きている。怪我はしているが、ロルフが無事生きている。そう安堵したマチルダの頬に、ふいに熱が走った。


ちりちりと痛む頬。とろりと何かが頬を伝い落ちている感覚。何が起きたのか理解しきれなかったマチルダの目の前で、野獣はかぱりと大きく口を開いたまま動かない。


背後の木が一本倒れた。そっと背後を伺えば、ルディが放つ衝撃波で薙ぎ倒した木を思い出させる光景が広がっている。


ロルフの攻撃だ。


そう理解した瞬間、今度は振り返った先から水色の光がロルフ目掛けて飛んでいった。


「フロイデンタール!」

「ローゼンハインさん!」


ロルフに向け何度も魔法を放つリズだったが、その光は全てロルフの眼前で金色の光へ姿を変える。一発も当てられないリズは苛立っているようだが、マチルダは何故ここにリズがいるのか理解が出来ずにいた。


「無事ね!あれは何?見た事が無いわ…」

「えと…あの、ここは大丈夫です!」

「何を言っているの?魔力切れを起こしている貴方を一人置いてこの場から逃げろとでも言うのかしら?」


じっと野獣を見据えてマチルダを詰めるリズに、マチルダは何とかこの場を切り抜けようと思案を巡らせた。

目の前で唸っている野獣はロルフだ。決してリズに殺させてはならない。


「貴方を信頼しているからです!あちらにもう一体行きましたから、森を出てしまう前に駆除を!」

「何ですって」


眉間に皺を寄せたリズは、マチルダが指さした方向を睨みつける。大丈夫だと頷くマチルダを信用出来ないらしく動かないままだが、野獣が唸り声を上げた事でずいとマチルダの前に出る。


「早く!」


早く行ってくれ。その思いだけでマチルダは動いた。残り僅かの魔力を鞭に流し、野獣の脚を絡め取る。地面に倒され暴れている体を全て絡め取るべく、マチルダは更に鞭に魔力を流し込んだ。


「チッ…あとで説明なさい!」


公爵令嬢らしからぬ舌打ち。野獣を思い切り睨みつけて走り出したリズの背中を見送ると、マチルダはそっと野獣の額に触れた。


「ロルフ様、ごめんなさい。知られたくないのではないかと思いまして」


痛い思いをさせなかっただろうか。そう不安に思う必要は無かったようだ。ぶつりと音を立てて引きちぎられた鞭。キラキラと煌めきながらマチルダの指に指輪として収まった魔具。ぐるりと視界が動き、地面に転がされたと理解するまで一瞬の間があった。


圧し掛かる野獣の体は重い。ぱたぱたと降ってくる血液混じりの唾液。不思議と怖いとは思わない。今乗っているのは、愛しい男その人なのだから。


「ロルフ様、お腹が空いているのですか?私を食べますか?」


そっと野獣の頬の辺りに触れた。金色の瞳はマチルダを反射しながらキラキラと輝いている。

綺麗な瞳、大好きな色。にっこりと微笑むマチルダに、野獣は小さく唸り声を漏らした。


「今日はお話してくださいませんの?そのお姿でも、お話出来ますのに」


死んでも良い。だが、最後にほんの少しだけでも話がしたかった。


「まち、るだ」

「はい、貴方のマチルダ・フロイデンタールです」


普段ならば俺のじゃないなんて言われるだろうに、今日のロルフは何も返さない。じっとマチルダの顔を見つめるだけだった。


「腰のポーチに傷薬が入っています。後で使ってくださいね」


そう言って、マチルダはそっと野獣の頭を抱き寄せた。頭だけで腕の中がいっぱいだ。普段のロルフとは違う獣の匂い。そこに混じる鉄臭い血の匂い。死ぬ間際に吸い込む匂いとしては最悪だが、愛しい男に殺されるのならば、これくらいの事はどうでも良かった。


「食べ終えてからで構いませんから、きちんと普段のお姿にお戻りくださいね。知られたくないのでしょう?」


耳元に響く、小さな野獣の声。ロルフの声では無く、獣の小さな鳴声だった。


「食べない」


するすると腕の中の質量が小さくなっていく。名残惜しそうに腕を離したマチルダは、血塗れで虚ろな目をしたロルフの姿に、安堵したようににっこりと微笑んだ。


「マチルダ」


圧し掛かったままの恰好で、ロルフは静かにマチルダの名を呼んだ。何ですかと答えるより先に、ロルフはマチルダの細い体を抱きしめる。


「マチルダ」

「はい、貴方のマチルダ・フロイデンタールです。此処におりますよ、貴方の腕の中に」


しっかりとロルフの体を抱きしめ、マチルダは嬉しそうに微笑む。

周囲に熊の亡骸が二体転がっていなければ、二人とも血と砂埃に濡れていなければ、情熱的で甘い空間となっていただろう。

状況がもう少し違えばなとどうでも良い事を考えて、マチルダはふっと意識を手放した。


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