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追憶

「また、抜け出してきたのですか」


 扉を開けて来訪した僕に、あの人は淡々と言った。

 机から顔も上げやしない。ま、こっちは常習犯なのだから、そのそっけない反応も致し方ないのであるが。僕も特別、言葉は返さずに、そのままいつもの場所へと足を進めた。


 僕の足音の合間に、カリカリとペンを動かす音だけが室内に響いていた。ここへ来ると、あの人は決まって中央奥の机で書き物にいそしんでいる。

 彼の姿を、よそで見かけることはめったにない。なんでも歴史書を編纂(へんさん)しているとのことらしいが……。


 退屈しないのだろうか?


 ふと、そんなことを思った。しかし、僕はすぐに自分の考えを否定した。

 退屈なんてしないさ、だってこんなに多くの書物に囲まれているんだもの。とひとり納得して、僕は空高い天井を見上げる。


 ここは書庫である。三階分の高さはある、縦長の奇妙な構造をしている建物だ。

 中央部分は一階から天井まで吹き抜けている。一本の螺旋階段を中心に、二階三階部には十字の通路が壁面への渡しを担っていた。建物の壁は、なんと全部本棚だ。しかもどの棚にもびっしり書物が詰め込まれているから、なおのことすごい。


 これが、退屈するわけないだろう。


 と思いながら、僕は彼のいる机の脇を通り抜けて、螺旋階段を上った。二階部分の西側へと渡り、さる棚の前で腰を下ろした。

 まだ背丈の低い僕でも取れる一番下の段の、一番端――あった。お目当てのソレ、一冊の大きな本をボクは棚から引っ張り出した。


 この間も、書庫内にはペンを動かす音と、時々紙をまくる音しか聞こえない。そう、この書庫には彼しかいないのだ。彼が実質この書庫の主であり、他者の出入りは固く禁じているという。


「――」


 あの人が、僕の名前を呼ぶ。

 たしなめるような声音に、僕はむっとする。本を抱えたまま、二階の柵の隙間から階下を覗いた。きっと、さっきの質問の返事をしろと言いたいのだろう。


 なにを今更、わかっているくせに……。と、やっぱり僕が無言のままでいると、今度は小さくため息を吐く音が聞こえた。


「人が呼びにくるまで、ですよ?」

 

 滞在の許しをもらい、僕はにんまり笑った。いや、許しをもらうというのは、おかしいか。だって僕の方が――いやいや、変に彼に逆らうのはこの際よしておこう。


「その本、お好きですよね」


 彼が顔をあげて、こちらを見ていた。僕の抱えていた本を見て言ったようだ。

 うん、好きだ。と僕はやや高揚して答えた。


 とてもきれいな挿絵が載っている本なのだ。見たこともない、不思議で幻想的な生き物がいっぱい描かれていて、幼い僕の心はたちまち好奇心で満ちあふれてしまう。

 本当に、外にはこんな生き物がいるのか? と僕が尋ねると、彼はうなった。


「いえ。いろんな土地を見てまわってきましたけれど、そのようなものは……」


 いいなあ、と僕はつぶやいた。

 見上げた天井の窓には、青い空にうっすら赤い星が見える。

 すると、かちりと音が鳴る。顔を下ろせば、彼が脇にペンを置いて、キィッと机の引き出しを開けていた。


 なかから小瓶を出して、僕に見せる。からからと音が鳴っているのは、知っている――糖蜜の結晶だ。僕は本を持ったまま、早足で階段を下りた。彼のいる机に駆け寄れば「内緒ですよ」と小瓶から結晶を一欠片、取り出す。

 口に入ったそれは、この上なく甘い味がした。


「しかし、ほかの土地に行っても……必ずしも面白いものばかりとは限りませんよ」


 つまらないことを言う。口をもごもごさせながら、僕はばっと本を開いて見せた。

 一番のお気に入りのページ――蝶のような羽を持った小さな人の絵だ。


 なぁ、もしも違う命を生きるのだとしたら――。

 糖蜜の塊を口の端に寄せて、僕は続きをしゃべる。

 ――僕は、冒険者になっただろう。あっちこっちを旅してまわって、謎だらけの世界の秘密をみんな暴いてやる、いまにとんでもないものを大発見してやるのだ。


「はははっ」


 あの人は笑った。半分茶化すような、しかし屈託な笑いでもあった。

 叶わない夢だとわかっていても――そう、子供じみた夢を持っていても許してくれる味方がいたこと。そのことがなによりも、僕には嬉しかった。


 幼少期、あの時代の僕にはなによりも……。



 * * *



 ざっと、視界が暗くなる。

 書庫の光景が、砂のように崩れてしまった。僕の周囲を、見えない暗闇が取り囲む。

 広かった空間も、ぎゅっと闇に縮こめられてしまったようだ。僕は体を丸めて、その場に三角座りをした。


 息苦しい。

 かろうじて自由な手を動かし、辺りを探った。すると、ふいに誰かの手とぶつかる。


「やっぱり、怖いの?」


 暗がりのなかで、小さな声が響く。

 ひどく懐かしい、少女の声だ。


 僕がううんと答えると、ふふっとかわいらしい声を返された。ただ一つ、その声はとてもか細くって、このまま暗闇のなかに溶けて消えてしまいそうな気がした。


「強いのね。――は」


 重なっていた手をひっくり返されて、ぎゅっと握られた。握られた手は冷たく、ふるふると震えている。


「わたしはダメ、やっぱり怖いかも」


 その言葉に、僕はうつむいた。僕だって、怖いとも。やっぱり、今からでもさっき言ったことを取り消して、正直に恐怖心を打ち明けようと思っていると……。


「でも少し大丈夫だよ。君と一緒にいるから」


 君となら。

 暗闇の空間ごと、大きく斜めに揺れた。変な方向へ体が引っ張られていって、派手に転倒する。バキバキッ、という嫌な音が響いたと思ったら、暗闇もまたあっけなく崩れていってしまった。


 僕は暗い水のなかで、もがいた。

 上も、下も、右も、左も……わからない。

 暗闇にもみくちゃにされて、このまま、自分自身が押し潰されてなくなってしまいそうだ。


 しかし、なにか……なにかが聞こえてくる。

 なにか声が。

 知らない名前を呼んでいる。


 声が……。

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