泉湧く洞窟にてⅠ
階段の手前には、気合の入った巨大な看板が立てられていた。
じつは、俺もさっきからこの看板が気になっていた。少年と一緒に看板の前まで移動して、俺は文面を読み上げる。
「この先、万能霊水の湧く泉あり。疲労回復、健康増進、腰痛、肩こり、くじき、食欲の回復……あらゆる悪しきものを体から追い祓います?」
……なんだか、うさんくさい看板だ。
びっしり書かれた効能の数々を半目で眺めていると、隣で少年が得意げに言った。
「サンガ村の由緒ある名物なんだ。すっごいんだよ、どんな病気も怪我もたちどころに良くしちゃうの」
「サンガ村の名物……ああ!」
そういえば、サンガ村の情報を聞いて回った時に、決まってみんな渋い顔をしていたのを思い出した。たしか霊水がどうとか、サンガ村の村長さんがしつこく水を売りに来て、ムコー村のとの関係が少し悪くなったと……。
「あのインチキ水って、これのことだったのか」
「イ、インチキじゃないもん!」
俺の言葉に、少年はぷんすか怒り出した。
「本当に効くんだよ! ぼくの歯痛だって治したし、友達の捻挫も、お隣のおじいさんの腰痛も! 赤ちゃんの癇癪だって、みーんな良くしてくれる魔法の水なんだ」
「わかった、わかったって……」
かたくなに霊水を信じる少年を抑えていると、彼は急に「あ、そうだ!」と顔をぱっと明るくさせた。少年は広場にある家財の山へ駆け寄り、なにやらごそごそと掘り返して――やがて、その手に皮袋を持って戻ってきた。
「ねぇ、泉に行くんならさ、これに霊水を汲んできてよ」
そう言って、少年は俺に水筒用の皮袋を手渡した。
「もしかしたら、あの水の力で石になった人たちを元に戻せるかもしれない!」
「ええっ! いや、それはちょっと無理じゃ……」
途中まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。藁をもつかもうとする、必死で純粋な少年の眼差しを前に断ることができるだろうか。
(まぁ、どのみち……泉には行かなくちゃいけない)
そこにウェンディ、盗賊、ツノの男の三人が揃っているのだから。
「……よし、わかった。水を汲んでくるよ」
少年に籠と手紙を預かってもらい、代わりに皮袋を懐にしまった。
村人が石になっている以上、おかみさんからのお使いは果たせないし、一番本題のモラおばあさんから話を聞くこともできない。みんなを石から元に戻す方法もまだわかっていない今、俺ができるのはウェンディを盗賊から助けて、元凶であるツノの男と対峙することだ。
少年はまだ父親を待つというので、村に残った。
奥の階段を登る俺に向かって「気をつけてねー」と彼は元気いっぱいに手を振り、見送ってくれた。
* * *
「この、チックショウッ!」
狭い洞窟の中で、盗賊フリックの声が反響した。
フリックががっくりと膝を突く。その拍子に、奴が抱えていた保存瓶が手元からすり抜けて、地面へごつんと音を立てた。
(割れたかしら?)
未だに瓶の中に閉じ込められたままのアタシは、ほんのり期待して足下を見るも、残念ながら瓶底にはヒビ一つ入っていない。
「あーあ、行き止まりじゃないの」
瓶が割れなかった腹いせも込めて、アタシはうなだれる盗賊を茶化した。
サンガ村の住人たちを石へ変えた元凶――頭にツノを生やした黒ずくめの人間に追われて、フリックは山道をひぃふぅ登り、この洞窟の中に逃げ込んだ。
しかし、洞窟の中はそれほど広くなく、完全な行き止まりになっていた。あるのはゴツゴツした岩場と、澄んだ色をしたきれいな泉が湧いているだけだ。
「あとちょっとだったってのに……ああ、もうおしまいだぁ」
「…………」
しょぼくれる盗賊を見上げて、アタシは妙案を思いつく。
「ねぇねえ。だったらこの瓶の蓋、開けてくれない?」
コンコンと透明な壁をノックして、アタシは言った。
「そうしたら、あんたがビビってる、あのツノが生えた人間をアタシが追い払ってあげる。どう? 悪くない話でしょ」
光の球さえ撃てれば、アタシに怖いものなんてない。
もっとも、蓋を開けたら最後……最初の餌食になるのはこの盗賊であるが。
ほくそ笑みながら、アタシはしきりに盗賊に訴えかけた。
しかし、フリックは恐怖ですっかり腑抜けてしまい、アタシの話なんて耳に入っていないようだ。奴は半分パニックになって、瓶入りのアタシを地面に置いたまま、どこか抜け道はないかとひとり洞窟の壁を手で探っている。
「んもう! いいわよ、こっちで勝手にやるから!」
あかんべをして、アタシは盗賊に背を向けた。
洞窟の入口のほうを見れば、沈んだ太陽の光と熱が少しずつ地上から失くなり始めていた。辺りに夜の暗闇が広がりつつある。
あともう少しすれば、紺色の空に星が瞬くことだろう。
「結局、あいつは来なかったわね」
やって来たのは、変なツノの人間だけだった。
フリックの言うように、もう一人の盗賊相手に戦って負けてしまったのかもしれない。地べたに伏して、目を回しているあいつの情けない姿は、それはそれで滑稽に思えるが――。
「本当に、しょうのない奴ね」
ついた悪態の矛先はあいつか、それとも、らしくなくクサクサしていた自分にか。
正直、どっちでも良かった。
あいつが簡単に負けちゃうなんて思えない。あれでけっこう最後まで意地を張る、負けず嫌いの面倒臭い奴だから。
(森でアタシが追い詰めた時も、集会所で光の球を前にした時も……)
なんだかんだで、あの人間は窮地を乗り越えてくる。
ましてや逃げ出すことなんて……絶対にありえない。
いつの間にか確信へと変わった感情が、アタシの中の憂鬱な気持ちを吹っ飛ばしていた。